マリオネットは契約結婚で愛を知る。
翌日は役所で引っ越しの手続きをする。
ひと月に二回も転居届を出すなんて経験、この先もう二度とないだろう。
静と優一は手続きを終えて市役所を出る。
「えーと、次は携帯ショップに行かないと?」
「それは大丈夫だよ。住所変更だけならネットで変更できる」
「世の中便利になっているんですね。知りませんでした。インターネットって何でもできるんだなあ」
素でおばあさんのようなことを言う静に、優一が笑いをこらえる。
前回ショップに行ったのは、電話番号の変更や支払い口座の変更など、ネットではできない手続きもあったからだ。
「優一さん。帰りに商店街を通っていいですか。ハーブティーはそこにあるセレクトショップで買ったんですよ。店員さんもがとても親切で、お茶選びのアドバイスもしてくれて。いろんな国の雑貨を取り扱っているから、一緒に見てみたいんです」
「そうだったんだ。それは行ってみたいかも」
優一も興味を示してくれたから、二人でワンダーウォーカーの扉をくぐった。
「いらっしゃい。あら、あなた本当にまた来てくれたのね。ゆっくりしていきなさいな」
店長が出迎えてくれる。
お香のかおりが漂う店内にトルコランプの明かりが灯っている。ランプは職人がひとつひとつ手作りしたものだ、と商品説明に書かれている。モザイクのガラスの色どりもものによって違う。自分の部屋に置くならどれがいいかななんて想像してしまう。
ビビッドな赤のポンチョや、複雑な刺繍が入ったベストを手に取り、優一が感動の息をつく。
「すごい。まるで世界旅行をしているみたいだ。この服だって、世界史の教科書でしか見たことないよ。こんな身近に買える店あったんだ」
「そうでしょう。私も前に見つけたとき楽しかったから、一緒に来たかったんです」
ハーブティーのコーナーに行くと、お茶の試飲をさせてもらったあのテーブルで、アリスとコウキが受験対策と書かれた本を広げて勉強していた。
高校受験対策……アリスもコウキも高校を卒業しているように見えたのに、静と同じようになんらかの事情で高校に行っていなかったようだ。
「いらっしゃいませ! また来てくれたんですね。気づくの遅れてすみません」
アリスがペンを置いて、慌ててお辞儀する。
「どうぞ気にせず続けてください。勉強、頑張ってください」
静が言うと、アリスは照れ笑いする。コウキも静と優一に気づいて顔を上げた。
「あ、お隣さんだ。えっと、お兄さんはユーイチさんだっけ。これわかんないから教えて」
「え? 僕? なにかな。受験勉強したのなんて十年以上前だから、役に立てるかわからないけど……」
まるで仲のいい友達に聞くように聞いてくるコウキ。昨日今日出会ったばかりの隣人なのに、気を許すのが早い。
優一もまさかここにいる他の誰でもなく自分を指名されて驚いている。
「なんとなく、ユーイチさんはこの中で一番、人にものを教えるの得意そうに見える」
「あはは。パソコンの先生……講師をしているから、あながちハズレでもないよ」
「あ、前回いらしたときにご主人はパソコンの仕事をしているって話していましたね。先生になれるくらい詳しいなんてすごいですね」
昨日の挨拶のとき、優一が講師をしているなんて話した覚えはないから、雰囲気で感じ取ったならそうとう勘が鋭い。
アリスは静が話したことを覚えていてくれた。気配り上手で、こんなふうになりたいと静は思う。
優一は請われるままに教本を読み、コウキに質問する。
「それで、コウキくんが知りたいのはどのあたりかな」
「【こころ】の設問。静 に告白したいと言ったKの悩みを聞いて“先生”が「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」と言った理由を述べよってのがわからない。それと、なんでKが自殺したかわからない。俺、こういう問題って、漢字を書く部分以外ぜんぜんわからないんだ。登場人物の気持ちを答えよって、俺は当人じゃないんだからわかるわけないじゃん」
「ああ、これなら僕が高校生のときにも授業でやったからわかるよ」
コウキが知りたがったのは、国語の教科書に載る定番の文学、夏目漱石の名著【こころ】の設問だった。
問題で抜粋されているのは下宿生の先生と幼馴染のK、下宿先の娘さんである静 のほの暗い三角関係を描いた部分。
横から本を覗き込んだ静は、自分と名著のヒロインが同じ名前だと知ってこそばゆい気持ちになった。
「一問目は、先生も娘さんのことが好きだから邪魔するため。Kが自殺したのは、先生と娘さんが結婚したからだ」
「それ、どこに書いてあるの? この抜粋文の中にはそんな言葉出てこないよね。どこからわかるの? なんでKが静を好きだと打ち明けたことに対して馬鹿だって言ったの?」
「え?」
「Kもどうして“先生”と静が結婚したあと自殺したの? 友達の結婚、祝うものじゃないの?」
答えを教えたのに予想外の方向からどんどん突っ込まれて、優一は固まってしまった。
テスト的には答えだけ書けば丸がつくけれど、コウキは答えだけでなく、なぜそういう答えになるのか理屈も知りたくて質問を重ねていた。
見かねた店長がコウキを止めに入る。
「ちょ、コウキ、コウキ。やめなさい。お客さん困ってるじゃない。ごめんなさいね。この子、純粋すぎるだけで、悪気はないのよ。困らせるためにやっているわけじゃないから怒らないであげて」
「店長なんで止めるんだよ。俺、真面目に勉強しているだけなのに」
「もー。気になっても、横に置いといて答えだけ書いときなさい。面倒くさいところでこだわるの、初斗 と同じねぇ。初斗も同じようなことで教師を質問攻めにして、教員室を追い出されていたわ」
額に店長のチョップを食らって、コウキは不服そうにしている。静は役に立てないかもしれないけれど、問題文と設問を読んで自分なりに考えてコウキに話す。
「えっとね、コウキくん。ほら、ここに先生は自尊心が高い男だったって書いてあるし、「自分も娘さんが好きだから、その恋を応援できない」なんて言うのはプライドが許さなかったと思うの。それで、恋を邪魔したい気持ちも手伝って、「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」っていうKの口癖を返した。……Kが自殺してしまったのは、馬鹿だと言って恋を諦めさせた張本人が、娘さんと結婚したから……自分と先生の醜い気持ちに気づいて絶望して、かな。ほら、先生に止められても、諦めずに告白していたら娘さんの隣にいたのは自分だったかもと考えたら、そんなことを考える自分が嫌いになっちゃいそうでしょう」
静の考察を聞いて、コウキは目を瞬かせる。アリスも店長も、優一も、驚いている。
的外れだったかもしれないと思い、静は顔を手でおおう。
「あ、ご、ごめんね。私、高校中退しているからあんまり頭良くなくて。正解じゃないかもしれない」
「いや、すごく参考になった。ありがと、お姉さん。この抜粋文だけでそこまで回答できるものなんだね。ぜんぜん馬鹿じゃないよ。ほら、こっちの模範回答集にお姉さんと同じような考察が書いてある」
「今のは模範解答、だったの? そっか、間違ってなくてよかった」
ほっと息をつく静に、アリスも拍手する。
「あたし、その問題はめんどくさくて解くのをやめてたから、あなたの答えを聞いて感動しちゃった。普段から文学読んでる?」
「そんなことはないです。なんとなく、自分ならそうかなって、思っただけで」
たとえば、このまま親から逃げ切ったあと、契約結婚の必要がなくなったら別れる。静を助けるためだけの、形だけの結婚なのだからそうなる。
そのとき優一はどうするんだろう。
前妻とよりを戻すかもしれない、それとも、新しい誰かと出会って恋愛結婚するかもしれない。優一は優しいから、静にも奥さんを紹介してくれるだろうし、結婚式にも招待してくれる。
静のために全力を尽くしてくれたのだから、その幸せを、恋を、心から応援するのが正しいはず。
でもきっと、「この人と結婚するんだ」と紹介されたら、おめでとうと言えない。
自分の中にある醜い気持ちに気づいてしまい、静はKの気持ちが手に取るようにわかった。
優一の隣で微笑む、知らない誰かのことが憎らしくなる。
好きだと伝えられずに終わった人の隣に、他の誰かがいたら。Kの場合は自分に恋を諦めろと遠回しに忠告してきた幼馴染なのだから、憎しみも悲しみもそうとうなものだったはず。
優一は問題文に目を通しながら口を開く。
「僕は先生のほうの気持ちがよくわかるな。他の誰かでなく、自分自身の問題。お嬢さんとの恋路でKが邪魔になると察して、蹴落としたくて、でも幼馴染の恋を応援できない自分の醜さも知られたくないという葛藤があるんだ」
「いろんな見方ができるなんて、さすが、昔から教科書に載る文学ねえ。アタシ難しいことが苦手だから、ぐだぐだ考えず、正面切って二人揃って告白しに行きそう。だって、自分の知らないところで男たちが腹の探り合い蹴落としあいをしているなんて、お嬢さんも嫌でしょ。当人に選んでもらえばいいじゃない」
きれいな格好をしている店長が意外と脳筋なことを言う。
「店長さんって顔に似合わずアツいよね」
コウキが率直な感想を言って、静も優一も笑ってしまう。
「失礼ねえ。熱そうにみえないなら、どういうことしそうな顔だってのよ」
「うーん。雪みたいに繊細そうっていうのかな。触ったら溶けるくらいもろくて、考えすぎて一人で悩みを抱え込んで、抱えきれずに先生に相談するタイプ?」
「さあ、どうかしらね。…………あんたって、心の機微を悟るのは苦手なのに人を見る目はあるのよねぇ」
店長は目を伏せて、小さく笑った。
ひと月に二回も転居届を出すなんて経験、この先もう二度とないだろう。
静と優一は手続きを終えて市役所を出る。
「えーと、次は携帯ショップに行かないと?」
「それは大丈夫だよ。住所変更だけならネットで変更できる」
「世の中便利になっているんですね。知りませんでした。インターネットって何でもできるんだなあ」
素でおばあさんのようなことを言う静に、優一が笑いをこらえる。
前回ショップに行ったのは、電話番号の変更や支払い口座の変更など、ネットではできない手続きもあったからだ。
「優一さん。帰りに商店街を通っていいですか。ハーブティーはそこにあるセレクトショップで買ったんですよ。店員さんもがとても親切で、お茶選びのアドバイスもしてくれて。いろんな国の雑貨を取り扱っているから、一緒に見てみたいんです」
「そうだったんだ。それは行ってみたいかも」
優一も興味を示してくれたから、二人でワンダーウォーカーの扉をくぐった。
「いらっしゃい。あら、あなた本当にまた来てくれたのね。ゆっくりしていきなさいな」
店長が出迎えてくれる。
お香のかおりが漂う店内にトルコランプの明かりが灯っている。ランプは職人がひとつひとつ手作りしたものだ、と商品説明に書かれている。モザイクのガラスの色どりもものによって違う。自分の部屋に置くならどれがいいかななんて想像してしまう。
ビビッドな赤のポンチョや、複雑な刺繍が入ったベストを手に取り、優一が感動の息をつく。
「すごい。まるで世界旅行をしているみたいだ。この服だって、世界史の教科書でしか見たことないよ。こんな身近に買える店あったんだ」
「そうでしょう。私も前に見つけたとき楽しかったから、一緒に来たかったんです」
ハーブティーのコーナーに行くと、お茶の試飲をさせてもらったあのテーブルで、アリスとコウキが受験対策と書かれた本を広げて勉強していた。
高校受験対策……アリスもコウキも高校を卒業しているように見えたのに、静と同じようになんらかの事情で高校に行っていなかったようだ。
「いらっしゃいませ! また来てくれたんですね。気づくの遅れてすみません」
アリスがペンを置いて、慌ててお辞儀する。
「どうぞ気にせず続けてください。勉強、頑張ってください」
静が言うと、アリスは照れ笑いする。コウキも静と優一に気づいて顔を上げた。
「あ、お隣さんだ。えっと、お兄さんはユーイチさんだっけ。これわかんないから教えて」
「え? 僕? なにかな。受験勉強したのなんて十年以上前だから、役に立てるかわからないけど……」
まるで仲のいい友達に聞くように聞いてくるコウキ。昨日今日出会ったばかりの隣人なのに、気を許すのが早い。
優一もまさかここにいる他の誰でもなく自分を指名されて驚いている。
「なんとなく、ユーイチさんはこの中で一番、人にものを教えるの得意そうに見える」
「あはは。パソコンの先生……講師をしているから、あながちハズレでもないよ」
「あ、前回いらしたときにご主人はパソコンの仕事をしているって話していましたね。先生になれるくらい詳しいなんてすごいですね」
昨日の挨拶のとき、優一が講師をしているなんて話した覚えはないから、雰囲気で感じ取ったならそうとう勘が鋭い。
アリスは静が話したことを覚えていてくれた。気配り上手で、こんなふうになりたいと静は思う。
優一は請われるままに教本を読み、コウキに質問する。
「それで、コウキくんが知りたいのはどのあたりかな」
「【こころ】の設問。
「ああ、これなら僕が高校生のときにも授業でやったからわかるよ」
コウキが知りたがったのは、国語の教科書に載る定番の文学、夏目漱石の名著【こころ】の設問だった。
問題で抜粋されているのは下宿生の先生と幼馴染のK、下宿先の娘さんである
横から本を覗き込んだ静は、自分と名著のヒロインが同じ名前だと知ってこそばゆい気持ちになった。
「一問目は、先生も娘さんのことが好きだから邪魔するため。Kが自殺したのは、先生と娘さんが結婚したからだ」
「それ、どこに書いてあるの? この抜粋文の中にはそんな言葉出てこないよね。どこからわかるの? なんでKが静を好きだと打ち明けたことに対して馬鹿だって言ったの?」
「え?」
「Kもどうして“先生”と静が結婚したあと自殺したの? 友達の結婚、祝うものじゃないの?」
答えを教えたのに予想外の方向からどんどん突っ込まれて、優一は固まってしまった。
テスト的には答えだけ書けば丸がつくけれど、コウキは答えだけでなく、なぜそういう答えになるのか理屈も知りたくて質問を重ねていた。
見かねた店長がコウキを止めに入る。
「ちょ、コウキ、コウキ。やめなさい。お客さん困ってるじゃない。ごめんなさいね。この子、純粋すぎるだけで、悪気はないのよ。困らせるためにやっているわけじゃないから怒らないであげて」
「店長なんで止めるんだよ。俺、真面目に勉強しているだけなのに」
「もー。気になっても、横に置いといて答えだけ書いときなさい。面倒くさいところでこだわるの、
額に店長のチョップを食らって、コウキは不服そうにしている。静は役に立てないかもしれないけれど、問題文と設問を読んで自分なりに考えてコウキに話す。
「えっとね、コウキくん。ほら、ここに先生は自尊心が高い男だったって書いてあるし、「自分も娘さんが好きだから、その恋を応援できない」なんて言うのはプライドが許さなかったと思うの。それで、恋を邪魔したい気持ちも手伝って、「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」っていうKの口癖を返した。……Kが自殺してしまったのは、馬鹿だと言って恋を諦めさせた張本人が、娘さんと結婚したから……自分と先生の醜い気持ちに気づいて絶望して、かな。ほら、先生に止められても、諦めずに告白していたら娘さんの隣にいたのは自分だったかもと考えたら、そんなことを考える自分が嫌いになっちゃいそうでしょう」
静の考察を聞いて、コウキは目を瞬かせる。アリスも店長も、優一も、驚いている。
的外れだったかもしれないと思い、静は顔を手でおおう。
「あ、ご、ごめんね。私、高校中退しているからあんまり頭良くなくて。正解じゃないかもしれない」
「いや、すごく参考になった。ありがと、お姉さん。この抜粋文だけでそこまで回答できるものなんだね。ぜんぜん馬鹿じゃないよ。ほら、こっちの模範回答集にお姉さんと同じような考察が書いてある」
「今のは模範解答、だったの? そっか、間違ってなくてよかった」
ほっと息をつく静に、アリスも拍手する。
「あたし、その問題はめんどくさくて解くのをやめてたから、あなたの答えを聞いて感動しちゃった。普段から文学読んでる?」
「そんなことはないです。なんとなく、自分ならそうかなって、思っただけで」
たとえば、このまま親から逃げ切ったあと、契約結婚の必要がなくなったら別れる。静を助けるためだけの、形だけの結婚なのだからそうなる。
そのとき優一はどうするんだろう。
前妻とよりを戻すかもしれない、それとも、新しい誰かと出会って恋愛結婚するかもしれない。優一は優しいから、静にも奥さんを紹介してくれるだろうし、結婚式にも招待してくれる。
静のために全力を尽くしてくれたのだから、その幸せを、恋を、心から応援するのが正しいはず。
でもきっと、「この人と結婚するんだ」と紹介されたら、おめでとうと言えない。
自分の中にある醜い気持ちに気づいてしまい、静はKの気持ちが手に取るようにわかった。
優一の隣で微笑む、知らない誰かのことが憎らしくなる。
好きだと伝えられずに終わった人の隣に、他の誰かがいたら。Kの場合は自分に恋を諦めろと遠回しに忠告してきた幼馴染なのだから、憎しみも悲しみもそうとうなものだったはず。
優一は問題文に目を通しながら口を開く。
「僕は先生のほうの気持ちがよくわかるな。他の誰かでなく、自分自身の問題。お嬢さんとの恋路でKが邪魔になると察して、蹴落としたくて、でも幼馴染の恋を応援できない自分の醜さも知られたくないという葛藤があるんだ」
「いろんな見方ができるなんて、さすが、昔から教科書に載る文学ねえ。アタシ難しいことが苦手だから、ぐだぐだ考えず、正面切って二人揃って告白しに行きそう。だって、自分の知らないところで男たちが腹の探り合い蹴落としあいをしているなんて、お嬢さんも嫌でしょ。当人に選んでもらえばいいじゃない」
きれいな格好をしている店長が意外と脳筋なことを言う。
「店長さんって顔に似合わずアツいよね」
コウキが率直な感想を言って、静も優一も笑ってしまう。
「失礼ねえ。熱そうにみえないなら、どういうことしそうな顔だってのよ」
「うーん。雪みたいに繊細そうっていうのかな。触ったら溶けるくらいもろくて、考えすぎて一人で悩みを抱え込んで、抱えきれずに先生に相談するタイプ?」
「さあ、どうかしらね。…………あんたって、心の機微を悟るのは苦手なのに人を見る目はあるのよねぇ」
店長は目を伏せて、小さく笑った。