マリオネットは契約結婚で愛を知る。

 翌朝。静と優一は朝食をとる。
 優一の公休日である今日、引っ越しの予定だったから、二人で荷解きの作業をすることにしている。
 隣の部屋への挨拶は、朝早すぎても迷惑になるし、仕事をしている人なら日中はいない。どの時間帯に行けばいいのか悩みどころだ。
 頃合いを見て、二人で隣の部屋のチャイムを押す。静たちが入居したのは角部屋で、お隣さんは左隣だけ。
 静より幾分年下に見える少年が出てきた。どこか眠そうな声で首を傾げる。

「だれ?」
「今日から隣に入居する、四ノ宮です。よろしくお願いします」

 優一が熨斗のしを巻いたタオルを渡す。

「母さん。お隣の四ノ宮さん。引っ越してきたんだって」

 少年が部屋の奥に声を掛けると、四十歳前後の女性が出てきた。

「ご丁寧にありがとうございます。私達はたまきと申します。真珠のたまの字に、王妃のひを書いて、珠妃たまき。よろしくおねがいします。四ノ宮さん」
「うちも引っ越してきてから一年くらいしか経ってないけど、最低限のことはわかるから、なにかあったら聞いてくれていいよ。俺、四月までは日中も家にいるから、暇してることが多いし」
「コウキ。そういうのは言わなくてもいいのよ」
「そういうの?」

 見たところ高校三年生くらい。学校によってはほぼ通学しなくていい状態になるし、受験シーズン只中だからそうなんだろうと解釈した。
 お父さんについて紹介されないから、そこは静の家のように他界してるかなにかだと思った。

「ああ、そうだ。昨日コウキが焼いてくれたクッキーなんですけど、甘いものがお嫌いでなかったら。どうぞ。先生も褒めてくれたので、味はお墨付きです」
「ありがとうございます。甘いもの、大好きだから嬉しいです」

 珠妃さんは、ラッピングされた型抜きクッキーをくれた。

 ちょっととぼけた少年と、しっかり者なお母さん。あたたかい雰囲気の母子。静は母とこんなふうにやり取りできたことがないから、なんだか羨ましかった。

「四ノ宮静です。こちらは夫の優一さん。お世話になります」

 せっかくだからとコウキが一階のゴミステーションを案内してくれて、曜日ごとの出し方や分別ルールなども教わった。
 ここは郵便受け、ゴミステーション、駐輪場などの共同スペースが一階に集約されていて、住居部は二階より上の階になっている。この辺の集合住宅ではよくある形式らしい。
 静たちの部屋は二階なので、下の住人が音で迷惑するということはない。
 本人が「何かあったら聞いて」と言ったとおり、とても親切な子だった。

 共同部の案内をしてくれたことにお礼を言って、引っ越し作業を再開した。
 家具家電つきの部屋だけど、家電だけでは料理ができない。
 食事は最優先事項なので、調理器具と食器の箱を開封して、シンク下のラックに収めていく。

「優一さん。お隣さん、親切な人で良かったね。お母さんはすごく優しそうだし、息子さんのコウキくんも親しみやすいし。コウキくんって私より二つ三つ下くらいかな」
「うん」

 優一の相づちは聞いているのかいないのか、どこか的外れだ。もう中身が空になったダンボールを開けてぼんやり。

「どうしたんです、優一さん。疲れが残っているなら休んだほうが」
「大丈夫。疲れていないよ」

 疲れていないと言いながらも、笑顔もかたい。静は開封作業を中断して、やかんを火にかける。

「あああ、静ちゃん、本当に大丈夫だから。元気だから。休憩はしなくても」
「私が休憩したくなったんです。ほら、さっきクッキーいただきましたし」

 有無を言わさず、二人分の紅茶とクッキーをテーブルに並べる。
 うさぎシルエットのクッキーは、厚さも焼き加減も食感もばつぐんで、とても美味しい。先生のお墨付きと言っていたけれど、料理教室で教わったなら納得だ。

「すごく美味しい。珠妃さんにお礼を言いに行かないとですね。どこのお料理教室で学べるんでしょう」

 あまりの美味しさに感動している静とは裏腹に、優一は複雑そうな顔をする。

「もしかしてクッキー苦手でしたか?」
「あ、そんなことはないよ。甘いの好き。美味しいよ、うん」

 なんともいえない、ぎこちない空気が漂う。
 余計なことをしてしまったかと静が一人反省会をしていると、優一が先に口を開いた。

「ごめん、気を使わせちゃって。静ちゃんは何も悪くないよ」
「え?」
「静ちゃんがご近所さんと仲良くなるのはすごくいいことだと思っていたんだ。でも、なんか」

 優一の言いたいことがつかめなくて首を傾げる。

「…………ええと、お隣さんと親しくなっちゃダメってこと?」
「そうじゃなくて、ああもう。静ちゃんが他の男と親しくしているのを見て、面白くないって、思っちゃったんだよ。相手は十歳近くも年下の子供なのに、静ちゃんがあの子に惹かれるんじゃないかって、嫉妬していたんだ。かっこ悪い」

 優一は一気にまくしたて、顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。
 静と優一は契約結婚で、二人の間に恋愛感情がない前提でかわされた約束で。

 今の優一の言葉はまるで、静に恋愛感情をもっているかのよう。
 静は、自分が優一に好いてもらえるほど魅力があるとは思っていない。
 母と姉に便利に扱われるだけの人形で、自分の意思を持っていなくて、怯えて泣くことしかできない。
 今回の引っ越しだって、静さえいなければする必要なかった。
 迷惑をかけてばかりで、好かれる要素なんてどこにもない。

 それに、ご近所さんとの挨拶は静にとって日常の一部だ。
 コウキにしても、施設案内をしてくれたのはただの親切で、恋愛感情なんてかけらもない。夫婦だと挨拶したのに横恋慕してくる人なんて、ドラマか漫画の中にしかいない。
 コウキに対して抱いた印象があるとしたら、こんな弟がいたらいいな、くらい。

 静はくすくす笑う。

「かっこ悪くなんて、ないです。心配しなくても、ただのご近所の挨拶ですよ」
「あ、うん。僕の言いたいことが伝わってないのはわかった。……鳩羽さんに偉そうなこと言えないな……ははは……」

 休憩をはさんだらキッチンの片付けを終わらせて、それぞれ自室の荷物を整理する。

 静の荷物は実家から持ってきたボストンバッグひとつと、優一に買ってもらった服しかないからすぐに終わった。
 優一の荷物整理を手伝う。

 パソコンデスクを組み立てて、優一がパソコンのケーブルを繋いでいく。静は知識がないからよくわからないけれど、デスクトップという型らしい。
 薄手の画面、重たい黒い箱、木の根のように何本も伸びたケーブル。
 デスクの上に小さな機械を設置する。

 手際よく繋がれていく様子をじっと見ていると、優一が微笑む。

「静ちゃん、パソコンに興味ある?」
「面白そうとは思うんですけど、恥ずかしい話、電源の入れ方もわからないんです。家にはなかったですし、バイトの打刻もタイムカードを差し込むタイプでしたし」
「それじゃあ、ノートパソコンがあるから静ちゃんにあげるよ。今はもっぱらこのパソコンで作業しているから、使わないんだ」
「あ、ありがとう、優一さん」
「使い方なら僕が教える。検定や資格を取れば仕事の幅が広がるよ。パソコンのスキルは就職活動で武器になる」
「わあ。パソコンを使って働くなんて、想像したこともなかったです。できたらかっこいいな」

 食事処の仕事しかしてこなかったから、パソコン関連の仕事は未知の領域。
 事務や経理、資格を取れば優一のように講師にもなれるかもしれない。
 大きな翼を得られたようで、ワクワクする。

「そうと決まったら、はやく片付けを終わらせましょう!」

 夕飯前には荷解きと片付けが終わり、一階のゴミステーションに縛ったダンボールを出す。専用の扉があるから、曜日関係なく出していいそうだ。
 すでにダンボールや縛った古雑誌、新聞が積まれている。
 中に入れておくと二週間に一度、古紙回収業者が回収してくれる。

 引っ越しそばを食べたあとは静の部屋でパソコン教室が開かれる。

 机がないから衣装ケースをテーブル代わりに使う。
 優一から初心者向けの教材を借りて、勉強開始だ。

「折りたたみのでもいいから、机を買ってこないとですね」
「そうだね。ちょっとずつ必要なものを買い揃えるのって、秘密基地を作っているみたいで楽しくない?」
「そうかもしれません」

 自分たちの新しい住まいは、秘密基地のようでなんだか楽しい。
 電源の入れ方からレクチャーを受けて、静は真剣に話に耳を傾ける。
 まず基本のキー配置を覚えて、手元を見ずにタイピングできるようになることを目指す。インターネット上にフリーのタイピング練習ソフトがある。
 寿司屋のレールをながれてくる文字を打つゲームや、サラダを持っていっちゃう妖精を止めるものまで、可愛くて楽しいものがたくさん。

 夢中になって練習しているうちに、かなり時間が経っていた。

「静ちゃん。もうすぐ九時になるし、そろそろお風呂に入ったほうがいいよ」
「あ、あれ? もうそんな時間です? まだ一時間くらいしかやってないと思ってました」
「すごく集中していたからね。静ちゃんは余計な知識をもっていなかった分、飲み込みが早いね」
「そういうものなんですか」

 いわく、中途半端に間違えた知識を持っていると、そっちの知識が邪魔をしてしまって新しく覚えるのに支障があるそうだ。
 親が家でやっていたからと、シャットダウン手順を踏まずに電源コードを引っこ抜く人も少なくないとか。正しい使い方を教わった上でそれを聞くと恐ろしい。

「今日はここまでにして、また明日続きを教えよう。この分なら、一ヶ月もしたらワードとエクセルの三級を合格できるくらいになれるよ」
「えへへ。そうなれたら嬉しいな。楽しみです」

 今まで触れることのできなかった新しい世界に触れ、知識を吸収していくのはとても楽しい。
 二人の新生活はこうして順調にはじまった。
 
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