マリオネットは契約結婚で愛を知る。

 坂部静さかべしずは言葉が出なかった。

「静。あんたは今日から四ノ宮しのみや静だから」

 時刻は夜の十時を回ったところ。アルバイトから帰った静に、母・まつが婚姻届とボールペンを押し付けてきた。
 妻になる人の欄以外埋められていて、夫になる人の欄には四ノ宮優一ゆういち 二十八歳と記載されている。

 名前しか聞いたことがない従兄が、そんな名前だった気がする。
 クリスマスからの連勤で、ようやく連勤が終わった十日目。
 疲れきった頭でなかったとしても、状況を把握できない。

(私、結婚するの? 会ったこともない人と?)

 意味がわからなすぎて、静は玄関に座り込んだ。髪に積もっていた雪が溶けて、婚姻届に滴る。

「黙ってサインしな。もう契約は成立しているんだ」
「けい、やく?」

 冷静になって見れば、母はブランドロゴの入ったカーディガンを着ている。こんなものこれまで持っていなかったはず。
 一着二十万はするそれは、坂部家の家計で買える代物じゃない。

 四年前に父が他界した。
 姉のキララが大学を辞めたくないとごね、母も「妹なんだからお姉ちゃんを応援するのが当たり前でしょう」と言って譲らなかった。
 遺産はすべて姉の学費と、姉が学校のそばで独り暮らしするための家賃に充てられた。

 静に反論の権利はない。
 幼い頃からずっと、口を開いて良いと言われない限り喋るなと言われているから。
 黙って、言われるまま高校を中退し、二十一歳になる今日までバイトを掛け持ちして働き続けてきた。

 父が生きていた頃から母は専業主婦で、働きに出ることを嫌がった。だからこの家で働いているのは静ひとりだけ。
 ブランドのカーディガンをポンと買える余裕なんてないはずなのに。
 そのお金はどこからきたのか。

 通帳を母に管理されているせいで、静自身はこの四年、新しいシャツの一枚すら買ってもらえなかったのに。

「今日、実家で新年会をしたんだけどね、姉さんのとこの優一は前の嫁に逃げられて家事をする人がいないから、娘を嫁にくれって言ったのよ。でもキララちゃんは夏に恋人と婚約したばかりでしょ。だからあんたをあげようって話になったの。今日中に婚姻届を出すなら百万くれるって言うから即オーケーしちゃった」

 母にとって自分の価値は百万円ていどだったことに、静はもう、傷つくことすらできなかった。
 父は静と姉を平等に愛してくれたけれど、母はいつだって姉優先。

「これを持っていますぐ優一さんのところに行きなさい。明日からキララちゃんと婚約者さんが同居してくれるから、あんたは邪魔なの」

 勝手に結婚を決められたばかりか、いきなり家を追い出されるんてあまりに理不尽で、静は生まれて初めて反抗のために口を開いた。

「か、かってに、きめないで、わたしは……」
「あたしがいいと言っていないのに喋るな」

 全て言い終える前に繰り出された平手が、静の頬を打った。

「お母さん、まとめたよー」

 キララが、おおきなボストンバッグを持って二階から降りてきた。

「はい、これ。あんたの部屋、子どもが生まれたらアタシの子の部屋になるから。離婚されたとしても、戻ってこないでよね。そんなにみすぼらしいと、一ヶ月持つかも怪しいけど」

 流行物のワンピース、きれいに染まっている赤茶の髪、ネイルサロンで手入れされた、傷一つない指先。
 キララの名の通り、キララを構成するものはきらきらとしている。

 静は最低限、二ヶ月に一回近所の格安カットスタジオで切ることを許されているだけなのに。
 着古したロングシャツ、タコと傷だらけの手、基礎化粧品すら買えない。

 会ったことはないけれど、家政婦代わりに娘を嫁にと言うなら、優一もきっと母と同類で、ろくな人じゃない。

 喋ることすら許されず、自由な時間もない、使われるだけの日々。
 静は自分がマリオネットのようだと思う。

 絶望が心を埋め尽くすなか、静は二十一年暮らした生家を追い出された。
 

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