怪物の花嫁

 どうやら浴槽とお湯を部屋に運んで、腰の高さのお湯で湯浴みする、というスタイルだったもようです。
 二階まで運ぶの大変だから、一階の部屋にしときましょう。
 木製バケツに、キッチンで沸かしたお湯と井戸水を半々入れて運びます。
 3回目で、業を煮やしたアレクサンダーが割って入りました。

「そんなちんたらしてる間に冷めるだろうが。もう一つバケツはないのか」
「あ、手伝ってくれるんですか。バケツなら納屋にありましたよ」

 二人で運んでどうにかお湯がそれなりの量用意できました。
 アレクサンダーはためらいもなく裸になって……といってもオオカミなので全身毛皮ですが。浴槽の中に座ります。
 なんだかんだ言って貴族なので、入浴もメイドが補助するのが当たり前なんですね。
 世話され慣れてる人が、恥じらうはずありませんでした。


「では、汚れを拭き取って毛玉をとります」
「さっさとしろ」

 お湯を入れた手桶に布を浸けて、背中の毛から拭いていきます。
 一瞬で布が灰色になってしまいました。やはり10年分の汚れがたまっているんですね。桶のお湯もすぐ真っ黒。
 アレクサンダーは、さすがにショックなようです。
 なんども手桶のお湯をかえて、腕や頭、しっぽの毛も拭ってブラッシングして、ようやく仕上がりました。

 ふわっふわの柔らかい毛並み。色は銀色。汚れすぎてくすんでいたんですね。
 もとはこんな毛だったんですか。

「ふむ。悪くない」
「それはどうも」

 一日しか接していませんが、たぶんこの人の「悪くない」はなかなか良いに当たるんじゃないでしょうか。
 ダメダメだと文句言われるよりはいいと思います。

「って、あれ?」
「なんだ」

 湯上がりのアレクサンダー、また縮んでませんか。
 目線が近くなったような。
 目算3メルテ以上あったのに、たぶん今、2メルテあるかないかくらい。

「なんか、背が縮んでません……?」
「そういえば、なんだかいつもより嗅覚もはたらくような」

 何がどうなっているのかわかりませんが、なにか呪いを解くきっかけみたいなものをつかみかけているのかもしれません。

「入浴がカギか?」
「さあ……私は魔女じゃないので、そうだとは言い切れません。この10年していなくて、昨日から今日したどれかが作用しているんじゃないですか」

 アレクサンダーは腕組みして考え込みます。

「これまでしていなくて、昨日からしていること……掃除、食事、入浴」
「まず、それを10年間一切してなかったことに驚きです。せめて自分の部屋くらい掃除しましょうよ」
「腹が減らない、睡眠もとらない、臭いも感じない、そんな状態でやる気になんてなるものか」

 めんどくさそうに言いながら、アレクサンダーは歩き出します。私もその背を追いました。

「じゃあ、この10年なにして過ごしてたんですか」
「読書」
「読書って」
「言葉通りだ。魔術に関する本を探せる限り取り寄せて、一日中読んでいる。どうせ眠れないから」

 言いながら、アレクサンダーが入っていったのは、三階の突き当たり。アレクサンダーの部屋でした。
 部屋の真ん中だけ円状に床が見えていて、本がうずたかく積んであります。
 ざっと見るだけでも100冊以上ありそうです。

 一人きりで10年。
 アレクサンダーは一睡もせず、呪いを解く方法を探し続けていたんですか。


 なんて言えばいいんでしょう。
 自業自得だって笑う? それとも、さみしかったんですねって同情する?
 どっちも間違っている気がします。

「アレクサンダー。この部屋、お掃除しましょう。こんなに汚れていたら、元に戻れても眠れないでしょう。いつ元に戻ってもすぐ眠れるように、きれいにしておいた方がいいんじゃないかと思うんですよ」

「なんだ、いきなり」
「きれいになったら、私も魔法の本を読むのお手伝いします。一人でこの量を読むのは骨が折れるでしょう」

 一冊一冊がかなり分厚いから、読むのは相当な労力です。アレクサンダーは何度か瞬きして、私を見下ろしました。

「正気か?」
「とち狂っているように見えますか」
「……いや」

 文句は出なかったのでお掃除決定です。

 大事な本が汚れてしまわないように、本をいったん通路に出します。

 脚立を持ってきて天井にかかる蜘蛛の巣を払い落とします。
 天井用の柄が長いホウキです。
 降り注ぐホコリの雨に、アレクサンダーが咳き込みます。

「くそ、かせ! お前わざとホコリが立つようにしているだろう」
「なんでそうひねくれて受け取るんですか。私はいつも掃除しているんだから、わざと汚くするなんてしませんよ。天井の汚れを後で落とすと、せっかくテーブルや床を磨いてもそこにホコリが落ちるでしょう。私が自分の部屋を掃除するの見ていなかったんですか」
「ぐ……」

 後ろにいただけで見ちゃいなかったようですね。やはり銅像と大差ない。
 あらかた天井の蜘蛛の巣とホコリを落としてテーブルと床を掃除して、まあまあ見れるくらいになりました。
 長年の蓄積された汚れは一日じゃ落とせませんね。これから何日もかけて毎日磨かないと、元には戻らないでしょう。

 そんなことをしている間に、夜になってしまいました。
 昼食のスープを多めに作っておいたので、そこに具を足し、味変して夕食にします。

「これ昼と同じじゃないのか」
「葉野菜が増えてるでしょう。文句言うなら水だけ飲んでてください」

 スープボウルを取り上げようとしたら、アレクサンダーはカップを傾けて一気に飲んでしまいました。

「さあ、約束通り魔導書を読むのを手伝ってもらおうか」
「仕方ないですね」

 本をアレクサンダーの部屋に戻して、山の中の一冊を借ります。

「それでは、私は自分の部屋で読むのでこれで失礼しますね」
「ここで読まないのか」
「なぜ同じ部屋で読む必要が?」
「それこそ、なぜ別の部屋で読む必要がある。ここで読んでいれば、なにか有益な情報が見つかれば俺にすぐ報告できるだろうが」

 理に適っているように聞こえますが、ぜんぜん良い提案じゃありません。

「昨日も言いましたが、私はあなたに協力はしますが好意的になる理由無いんですよ。断れば両親がこの地で商売できなくなると言われたから、仕方なく、婚姻届にサインしたんです。
領主様の跡取りだろうと、人間の姿をしていたとしても、横暴な人は嫌いです。私がここに来てから一度だって私の名前を呼んでいないじゃないですか。一応サインしたんだから、私の名前知ってますよね?」

 私を睨んだまま、腕組みをするアレクサンダー。人間の姿なら眉間に5本はタテジワが刻まれていますね。
 本来なら貴族にこのような物言いをするのは不敬だと言われるでしょう。
 けれど書類上は夫婦。この言葉の応酬は夫婦げんかで片付きます。

 私は本を抱えて部屋を出ます。
 扉を閉めようとしたところで、ようやくアレクサンダーが口を開きました。

「おい」
「はい、なんでしょう」
「……庶民は金に困っているから、貴族暮らしになることを拒む者などいないと思っていた」

「少なくとも私たち一家は庶民の生活に満足しています。姉さんには結婚を約束した人がいましたし、妹は13歳だし。私が結婚の話を受けると言わなかったら、一家でオズウェル領を捨ててよそに移り住んでいましたよ」

 庶民なら貴族からの婚姻打診は喜んで飛びつく……どういう価値観で生きてきたのかよく分かりますね。
 私の家族全員がアレクサンダーのやり方に反感を覚えている。
 現実を突きつけられて、今度こそなにも言えなくなってしまったようです。

「それではおやすみなさいませ。有力な情報が載っていたら、明日の朝お知らせしますね」

 自分の部屋に戻って、私はランタンの火をともしました。
 マッチの香りがすぐに消えて、オイルが燃える臭いに変わります。ガラスのカバーをかぶせて本を開きます。
 これはマールーの本。それも戦前の言語が使われています。
 どこかに魔法を解く方法が載っていれば良いのですが。

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