ドブネズミの革命 〜虐げられる貧民たちは下克上する〜
イズティハルの国王が新王ファジュルになって、八ヶ月が過ぎた。
スラムは少しずつ開拓が進んでいる。
瓦礫やゴミを撤去し、整地した場所は住宅や医院、礼拝堂、耕地となる予定だ。
かつて王と呼ばれてた男は平民となり、名を変えてスラムの開拓作業に加わっていた。
男の顔を知る者は、男がここにいることに対してあからさまに嫌悪感を顔に出してきた。
それでも何ヶ月とここに住み作業に加わることで、口先だけでないことを理解してくれた。
今では男と肩を並べて復興に精を出している。
そこかしこにゴミや瓦礫が散乱し、蝿が飛び、足元をネズミが走り抜ける。腐臭がきつく、息をするのも嫌になる。
男は長年、スラムの人間にこの生活を強いてきた。
スラムにおりて、初めて己の所業のむごさを自覚した。
今日は畑予定地のゴミを撤去したところだ。
泥とホコリまみれになった顔を袖で拭う。
今日は普段より日差しが弱いほうだが、汗が次から次へと滲んでくる。
「シナン様。そろそろ休憩にしませんか」
かつて王妃だった妻が男を呼ぶ。妻が毎日何度も呼ぶから、だいぶシナンという名に馴染んできたように思う。
「サフ。いい加減敬語をやめろと言っただろう」
「ついくせで」
サフは泥だらけの顔で笑う。
以前なら意にそまぬ発言をするものを殴ってきたが、今はそれが普通ではないと学んだ。
スラム内に新設された井戸で水を汲み、体の汚れを拭って汲みたての水で喉を潤す。
視線を動かせば、同じように作業する人々の姿が見える。みんな顔が生き生きとしている。
彼らは確かに人間だ。
互いの顔色をうかがい足元を掬おうと火花を散らす、貴族や王族よりもよほど人間として生きている。
今はイーリスと名乗っている娘が、瓶を抱えて水を汲みにきた。スラムの医師に弟子入りして医学を学んでいる最中だ。
シナンの姿を目にとめて城の方を指差す。
「もう聞きました? 今朝、王子様が生まれたんですって。あとで会わせてもらうんです」
「そうか」
ファジュルが「もうすぐ予定日なんだ」と言いに来たのは三日ほど前だ。政務が忙しいだろうに、ちょくちょくスラムに来る。作業経過を自分の目で確かめるのが大事なんだ、と尤もらしい言い訳をしているが、シナンと話す理由が欲しいだけに見える。
馬鹿な甥に子が生まれたことを、嬉しいとは思わないが、憎いとも思わない。
イーリスは水瓶を抱えて、ふらふらと危なげな足取りで医院にむかっていく。
段差につまずいたところを、旅一座の少年が助けた。よく城に来ていた一座の一人。
あの一座が反乱軍に参加していたと聞いたときには納得した。
その昔アンナがいた一座だ。恨まれるだけの自覚はある。
イーリスより頭半分背の高い少年は、瓶を取り上げて走った。イーリスはなにか声を荒らげながら少年を追っていった。
その姿は王族として暮らしていたときよりよほど生き生きとしていて、自然と口元がほころぶ。
サフが口元に手を添えて微笑む。
「シナンはそうやって笑っていたほうがいいわ」
「俺はもともと笑っていたが」
「前は、楽しくて笑っているのとは違うように見えたわ」
「……ふん。言うじゃないか」
本当に、この馬鹿はシナンのことをよく見ている。
怯えた目をする者や反意を顕にする者、ご機嫌取りをしようと媚びてくる奴らに対して、心からの笑顔なんて出るわけがない。
「おーいみんな! 配給の時間だぞー!」
「もうそんな時間か」
「ハラ減ったー」
反乱軍にいた若い男の声に、開拓作業をしていた者たちが手を止めて笑顔になる。作業員の食事を作っているのはナジャーをはじめとする、スラムの女たちだ。ときどきイーリスも料理斑に加わっているのを見かける。
「もらってきますね」
サフが列に並び、器を二つ持って戻ってくる。
野菜と豆だけのスープが一杯、小さなパンが一つ。これが今日初めての食事だ。
王宮にいた頃は毎日三食を腹いっぱい食べられたが、ここで暮らすようになって、ひどいわがままを言っていたことを理解する。
スープを受け取り、シナンは自然と口を開く。
「ご苦労」
「もう。こういうときは『ありがとう』と言うの」
シナンの身にしみている言葉は、ここでは「偉ぶっている」「お貴族様のようだ」と嫌われる言葉だ。
イズティハルの民は長年貧民を差別してきたが、貧民もまた、差別されることで貧民以外の人間を嫌っている。
ファジュルの代だけでこの溝を埋めきることは難しいだろう。
きっとファジュルが言ったように、子どもの世代、孫の世代でようやく人々の中に浸透する。
もう王族でなくなったシナンでも、大河の一滴くらいにはなれるだろうか。
少しだけでも、調和の未来をつくる礎に。
サフにたしなめられて、シナンは言い直す。
「……ありがとう」
革命戦争編 END
スラムは少しずつ開拓が進んでいる。
瓦礫やゴミを撤去し、整地した場所は住宅や医院、礼拝堂、耕地となる予定だ。
かつて王と呼ばれてた男は平民となり、名を変えてスラムの開拓作業に加わっていた。
男の顔を知る者は、男がここにいることに対してあからさまに嫌悪感を顔に出してきた。
それでも何ヶ月とここに住み作業に加わることで、口先だけでないことを理解してくれた。
今では男と肩を並べて復興に精を出している。
そこかしこにゴミや瓦礫が散乱し、蝿が飛び、足元をネズミが走り抜ける。腐臭がきつく、息をするのも嫌になる。
男は長年、スラムの人間にこの生活を強いてきた。
スラムにおりて、初めて己の所業のむごさを自覚した。
今日は畑予定地のゴミを撤去したところだ。
泥とホコリまみれになった顔を袖で拭う。
今日は普段より日差しが弱いほうだが、汗が次から次へと滲んでくる。
「シナン様。そろそろ休憩にしませんか」
かつて王妃だった妻が男を呼ぶ。妻が毎日何度も呼ぶから、だいぶシナンという名に馴染んできたように思う。
「サフ。いい加減敬語をやめろと言っただろう」
「ついくせで」
サフは泥だらけの顔で笑う。
以前なら意にそまぬ発言をするものを殴ってきたが、今はそれが普通ではないと学んだ。
スラム内に新設された井戸で水を汲み、体の汚れを拭って汲みたての水で喉を潤す。
視線を動かせば、同じように作業する人々の姿が見える。みんな顔が生き生きとしている。
彼らは確かに人間だ。
互いの顔色をうかがい足元を掬おうと火花を散らす、貴族や王族よりもよほど人間として生きている。
今はイーリスと名乗っている娘が、瓶を抱えて水を汲みにきた。スラムの医師に弟子入りして医学を学んでいる最中だ。
シナンの姿を目にとめて城の方を指差す。
「もう聞きました? 今朝、王子様が生まれたんですって。あとで会わせてもらうんです」
「そうか」
ファジュルが「もうすぐ予定日なんだ」と言いに来たのは三日ほど前だ。政務が忙しいだろうに、ちょくちょくスラムに来る。作業経過を自分の目で確かめるのが大事なんだ、と尤もらしい言い訳をしているが、シナンと話す理由が欲しいだけに見える。
馬鹿な甥に子が生まれたことを、嬉しいとは思わないが、憎いとも思わない。
イーリスは水瓶を抱えて、ふらふらと危なげな足取りで医院にむかっていく。
段差につまずいたところを、旅一座の少年が助けた。よく城に来ていた一座の一人。
あの一座が反乱軍に参加していたと聞いたときには納得した。
その昔アンナがいた一座だ。恨まれるだけの自覚はある。
イーリスより頭半分背の高い少年は、瓶を取り上げて走った。イーリスはなにか声を荒らげながら少年を追っていった。
その姿は王族として暮らしていたときよりよほど生き生きとしていて、自然と口元がほころぶ。
サフが口元に手を添えて微笑む。
「シナンはそうやって笑っていたほうがいいわ」
「俺はもともと笑っていたが」
「前は、楽しくて笑っているのとは違うように見えたわ」
「……ふん。言うじゃないか」
本当に、この馬鹿はシナンのことをよく見ている。
怯えた目をする者や反意を顕にする者、ご機嫌取りをしようと媚びてくる奴らに対して、心からの笑顔なんて出るわけがない。
「おーいみんな! 配給の時間だぞー!」
「もうそんな時間か」
「ハラ減ったー」
反乱軍にいた若い男の声に、開拓作業をしていた者たちが手を止めて笑顔になる。作業員の食事を作っているのはナジャーをはじめとする、スラムの女たちだ。ときどきイーリスも料理斑に加わっているのを見かける。
「もらってきますね」
サフが列に並び、器を二つ持って戻ってくる。
野菜と豆だけのスープが一杯、小さなパンが一つ。これが今日初めての食事だ。
王宮にいた頃は毎日三食を腹いっぱい食べられたが、ここで暮らすようになって、ひどいわがままを言っていたことを理解する。
スープを受け取り、シナンは自然と口を開く。
「ご苦労」
「もう。こういうときは『ありがとう』と言うの」
シナンの身にしみている言葉は、ここでは「偉ぶっている」「お貴族様のようだ」と嫌われる言葉だ。
イズティハルの民は長年貧民を差別してきたが、貧民もまた、差別されることで貧民以外の人間を嫌っている。
ファジュルの代だけでこの溝を埋めきることは難しいだろう。
きっとファジュルが言ったように、子どもの世代、孫の世代でようやく人々の中に浸透する。
もう王族でなくなったシナンでも、大河の一滴くらいにはなれるだろうか。
少しだけでも、調和の未来をつくる礎に。
サフにたしなめられて、シナンは言い直す。
「……ありがとう」
革命戦争編 END