ドブネズミの革命 〜虐げられる貧民たちは下克上する〜

 ファジュルと二人で暮らしている小屋の中、ルゥルアは目を覚ました。
 同じ毛布を分けあっているファジュルは、まだ夢の中のようだ。胸が呼吸にあわせて静かに上下している。
 起きているときは大人びて見えるけれど、寝顔は十八という年齢相応の幼さが残る。
 起きている間結んでいる髪も解けていて、床に広がる。そっとファジュルの目元にかかっている髪を指先でのけると、瞳がゆっくりと開いた。

 固い手がルゥルアの頬に触れ、後頭部に回される。そして、流れるような動作でルゥルアを両腕の中に閉じ込めて唇を塞ぐ。
 ルゥルアが息切れしてファジュルの胸を叩くと、ようやくファジュルは唇を離す。

「おはよう、ルゥ」
「お、おはよう、ファジュル」
「大丈夫か?」
「うぅ。そんなこと聞かないでよ、もう………」

 ここで平気、なんて言ったら昨夜の続きをしかねない。
 頬を火照らせるルゥルアに、ファジュルは穏やかな笑みを見せる。
 ファジュルがこんな顔をするのはルゥルアの前でだけ。きっとファジュル本人は気づいていない。
 ファジュルに触れられるのが、夜明け空のような深い青の瞳で見つめられるのが、ルゥルアは好きだ。

 生きるために花売りをするしかない娘も多いこのスラムで、愛する人と肌を重ねることができるのは唯一の幸福。
 昨日出会った貴族のように、きらびやかな衣服や安全な寝床を得ることが一生叶わなくても、自分は幸せ者なのだと確信できる。
 実の親から『要らない』と捨てられたルゥルアの命を、すくい上げて愛してくれる人がいる。



「おーい、ファジュル、ルゥルア。もう起きてるか?」

 傾いた扉の向こうから、間延びした声が呼びかけてくる。ファジュルが残念そうにルゥルアを離し、声に応える。

「起きている。こんな朝早くからどうした、サーディク」

 二人は手早く服と髪の乱れを整えて、小屋の外に出る。
 待っていたのは、スラムの友人サーディクだ。
 ファジュルたちと年が近いこともあり、悪友と言うべき存在だ。
 サーディクはルゥルアの首すじに残る痕を見て、クックと喉を鳴らす。

「人前では禁欲的ストイッヌですって面してるのに実は狼って詐欺かよファジュル」

 サーディクの視線の意味に気づいて、慌ててルゥルアが首筋をスカーフで隠す。
 からかわれるたびに恥ずかしさで顔を赤くするのはルゥルアだけで、ファジュルは素知らぬ顔を決め込む。鉄仮面はこういうとき得だ。

「ルゥをからかうな。何か用があったんじゃないのか?」
「悪ぃ悪ぃ。そう怒んなって。あーあ。オレも頼まれてる伝言伝えたら彼女んとこ行こー。オレの乾いた心と体を潤してほしい」
「…………何人も女を囲うのはサーディクの自由だが、修羅場になって泣きつくのだけはやめてくれ」
「ちっちっちっ。オレはみんなのサーディクだから、一人のものにはなれないのさ!」

 サーディクはスラムの中に決まった住まいを持たず、関係を持った女の家を転々として暮らしている。
 イズティハルは一夫多妻制だから、妻が何人もいるのは珍しいことではない。

 ただし、妻同士が互いに納得していることが前提条件だ。

 サーディクの場合ただの女遊び。彼女を裏路地に連れ込もうとしたところに別の彼女が出くわして、女たちの罵声が飛び交う殴り合いになったのも一度や二度じゃない。
 そのたびに『オレのために争う恋人を止めてくれ』とファジュルを巻き込むから、迷惑極まりない。

 ファジュルに睨まれて、サーディクはようやく本題に入る。

「げふん。ヨハン先生が、またファジュルとルゥルアに手伝いを頼みたいってさ」
「わかった。行こう。ルゥ」
「うん」

 ヨハン先生はスラム内で無許可の診療所を営む、いわゆる闇医者。ファジュルたちスラムの住人は、怪我や病気をするとその人の世話になる。
 以前、駄賃をやるから手伝いがほしいと言われて、カルテの整理や診療所内の掃除をした。ルゥルアは女の子を診るときの手伝い。診療であっても男に触られるのが嫌だと言う娘も中にはいるから。
 それ以来定期的にファジュルとルゥルアに頼んでくる。

「いいなぁファジュルは。文字が読めると診療所の手伝いでも金になって。オレなんて、昨日は財布をスッたおっさんにバレて殴られたぞ。見ろよこの頬の青あざ。イケメンが台無しじゃねーか」 
「スるならバレないように盗め。勉強は将来役立つから学べって、じいさんに教えこまれただけだ」

 ファジュルの祖父は、スラムで暮らすようになる前は教師だったとかで、物事を教えるのがとてもうまい。
 そのおかげで、ファジュルは物心つくようになる頃には、一通り読み書きや計算ができるようになっていた。

 ついでだからと、イズティハルの歴史だとか経営学だとか、いろんな本を積み上げてくる。
 スラムに娯楽なんてないから、あれこれファジュルに教えるのは祖父にとって退屈しのぎかもしれないと納得して、ファジュルは言われるまま勉学に励んだのだった。



 恋人ニ十号に会いに行くと言うサーディクと別れ、ファジュルとルゥルアは診療所を訪ねた。
 ヨハンの診療所は、スラム唯一の井戸のそばにある。
 診療所から歩いてほど近いところが花街……花売りの娘や少年が働く場所だ。

 ここに来る主な患者は、花街の働き手。あとはスラム内で怪我や病気をした誰か。
 床に乱雑に投げられた木箱と丸めた紙くず。壁際の本棚もカルテの並びがめちゃくちゃになっている。

 花売り娘の傷を治療中だった医師が、顔をあげた。北方の国の民であるルベルタ人に多く見られる金髪、くすんだ青系の瞳がこちらに向けられる。

「ありがとう、二人とも。来てくれたんだね。掃除の前に、それ・・をあげるから片付けてくれないか」

 それ、と指されたのは籠いっぱいに積まれたりんごだ。
 ざっと見て三十個はある。どこかで落としたのか、表面に少し傷がついているけれど、味に支障をきたすほどのものではない。

「どうしたんだこれ」
「城仕えの知人がくれたんだ。主人が『青くて不味いから捨てろ』と言ったんだって。無駄にしたくないから貰ってくれと、持ってきた。主が捨てたものは、いくら手付かずの状態でも召使いは口にすることができないから」
「要らないってことならありがたくもらっておく。国王ともあろう者が食べ物を粗末にするなんて。こっちはパン一つ買う金にも苦労しているのに」

 ファジュルは山から一つ手にとってかじる。
 蜜がたっぷりで、甘くて美味しい。
 そのままルゥルアに渡すと、ルゥルアも一口食べてまたファジュルに返す。それを何度か繰り返して、芯だけになった。
 一つのりんごを分け合う二人を見て、ヨハンはまなじりをさげる。

「君たち、目の前にたくさんあるんだから一個ずつ食べればいいのに」
「俺は半分でいい。その分足の悪い婆さんとか小さい子どもとか、働けない人を中心に配ったほうがいいだろ」
「わたしもそれがいいと思う。ユーニスの分だけもらったら配りましょう。小さい子がいる家と、あとここの隣のおばさんも、最近寝込みがちだって言ってたものね」

 ファジュルの言葉にルゥルアも頷く。

「ラシードさんにやらなくていいのかい?」
「じいさんは|ハサッシア《アレルギー》でりんごを食べられないんだよ。子どもの頃から、果汁だけでも痒くなっちまうらしい」
「なるほどね。じゃあラシードさんにはこっちを渡しておいてくれ。痛み止めもそろそろ切れる頃だろう。それと、ファジュル。君の腕、また傷が増えているね。あんまり無茶をしておじいさんを泣かせちゃいけないよ。薬を入れておくからちゃんと塗りなさい」

 ヨハンは紙に走り書きして、机に乗っていたパンと薬の袋、水の入った小瓶をファジュルに手渡す。

「いつもありがとう。助かる」

 表の医者に頼れば大金せしめられそうな薬を、手伝いの駄賃代わりに譲ってくれる。ヨハンには感謝しかない。

 ヨハンからだと言って診療所付近の者にりんごを配り歩くと、ものの五分で捌けた。
 それから散らかった診療所内を掃除して、カルテを整理し、手伝い料をもらって診療所を後にした。



 ラシードは家の外、簡易に作った木の椅子に腰掛けて本を読んでいた。
 膝の上に本を乗せて、左手の指で器用にページをめくる。
 ラシードの右腕は肩より下が動かない。若い頃の怪我で腱が切れてしまったんだと、ファジュルが幼い頃に教えてくれた。
 
「じいさん。これ、ヨハン先生から。痛み止めが切れる頃だろう」
「おお。すまんな、ファジュル、ルゥルア。いつも助かるよ」
「ユーニスはいない? 先生からりんごをもらったの」

 ルゥルアがりんごを持って首を傾げる。

「いつものとおり、親が迎えにくるのを待つって市場に行っちまったよ」
「そうか。様子を見に行かないとな」

 ラシードはパンの袋に入っていた紙に目を走らせながら、ファジュルに聞いてくる。

「あの子にはいつ頃本当の事を話すつもりだ?」
「少なくとも、今ではないと思う。まだ親を信じているんだろうし」
「……でも、なにも知らないのはもっと辛いと思うよ」

 ルゥルアがファジュルの裾をつまんで、視線を落とす。

「わたしは『お前は要らない』ってはっきり言われたから、すぐに諦めがついた。ユーニスは、『お買い物してくる間いい子にしててね』って、いつもと同じように買い物にいくふりで、おいて行かれた。もしかしたら今日は来てくれるかもしれないって、期待して、来なくて落ち込んで」

 何も知らないまま、迎えにくる期待と迎えにこない失望で日々を過ごす。
 ファジュルたちは絶対に来ないと知っているのに教えていない。
 それは優しさではなく、ただのエゴだ。
 残酷なことをしているのにかわりない。

「だから、近いうちに教えてあげたほうがいいと思うの。全部知った上でユーニスがわたしたちといることを選んでくれるなら、そのときはわたしたちで育てよう」

 ファジュルはルゥルアがそこまで考えていたことに驚く。そして同時に、こんなにも優しい女性が自分の伴侶であることが、誇らしく思えた。

「そうだな。そのときはお金をためて、今よりマシな生活をできるようにしてやらないと」

 ユーニスの未来など、偶然ユーニスと知り合っただけの二人が背負う必要はない。責任は捨てた親にあるのだから。
 なのに二人はユーニスを育てようと誓う。
 ファジュルの横顔に、ファジュルの父の面影を見たような気がして、ラシードは目頭が熱くなった。
 かの御方の願いは、懐が深く強い心根は、間違いなく息子に受け継がれている。

「ファジュル。お前は今のままの暮らしを続けていたいか。スラムの現状を、どう思う」
「今のままでは良くないと思う。まずはスラム全体をきれいにしたい。みんながあたたかな寝床で寝て、雨風に怯えることなく朝を迎えられたらいい。今のスラムは小屋すらなくて路上で寝るやつも多いからな」
「あ、私は畑を作って自給自足したい。そうすればみんな、市場に盗みにいかなくても良くなるでしょ」
「ああ。食料確保は課題だよな」

 日々暮らしていて思う、生活で改善したい点をあげていく。材木をどこかで仕入れたらいいのだろうか、人員だけなら有り余っているよなと独り言をいうファジュルに、ラシードは告げる。

「それらは、今のガーニム王政のままでは難しい話だ。ガーニムはスラムの民を人間と思っていない。嘆願したところでスラムの現状に手を加えてはくれん」
「……昨日来た自称王女もいい性格だったな。次の王の治世も期待できそうにない」
「王女? シャムス王女が来たのか? スラムに?」

 ファジュルとルゥルアは、顔を見合わせて肩をすくめる。

「あぁ、じいさんには話していなかったな。昨日、自称王女様がスラムの入り口まで来て、ここに従兄がいるから会わせろって命令してきたんだ。うるさいから追い返したけど」
「あの人、もしここに従兄っていう人がいたとして、どうするつもりだったんだろうね?」
「さぁ? 貴族の考えることはわからないな」

 ラシードは地面に手をつき、ファジュルに頼みごとをする。

「ファジュル。もし今日もまた王女が来ることがあったら、その願いを聞き入れてやってくれ」
「は!? 何を言い出すんだよじいさん。まさかスラム中かけまわって、本当に居るかもわからないアシュラフ王の息子を探せっていうのか?」
「かけまわる必要はない。王子は……アシュラフ様の忘れ形見は……」

 ラシードは何か言いかけて頭を振り、おそらく言いたかったのとは別の言葉で言い直した。

「……この老いぼれの最後の頼みだ。この国とスラムの未来を思うなら、どうか」


image
image
4/70ページ