ドブネズミの革命 〜虐げられる貧民たちは下克上する〜

 スラムでハンカチを受け取ったウスマーンは、ガーニムに報告するため城に戻った。
 バカラには兵たちに捜索をいったん切り上げるよう伝えに行かせた。

 ウスマーンは玉座の前に膝をつき、礼をする。
 姫はスラムの少女にハンカチを託して、すぐにどこかに行ってしまったらしいこと。
 勉学の場がないスラムに文字を読み書きできる者はいないため、これが偽物である可能性は低いこと。

 集めてきた情報を努めて冷静に伝えるが、ガーニムはそれすらも気に入らないようだった。
 ハンカチを投げ落とすとつま先で踏みにじり、罵声を浴びせてくる。

「この無能! 俺はシャムスを連れ戻せと言った。こんな布切れ一枚を持ち帰れとは言っていない! シャムスを連れ戻せなかった責任を、どうあがなうつもりだ!」

 確かに、受けた命令は『連れ戻せ』だ。
 ウスマーンはただただ黙って頭を垂れ続ける。

「全ての兵力を使って探し出せ。誘拐されたという話のままでな。家出だとは一切公言するな」
「なぜです」

 ここに姫が手書きした文があるのに、誘拐されたわけではないのに、誘拐されたことにしておくと言う。不敬ながら、聞き返してしまった。
 ガーニムはウスマーンを小馬鹿にしたように鼻で笑う。

「居るはずもない誘拐犯を追い、自分を探す兵。そして居るはずもない誘拐犯を捉えて処刑台に送れば、罪悪感にかられて出て来ざるを得ないだろう? あいつはそういう女だ」

 この人は、少女の良心の呵責につけこむつもりだ。下劣な考えに吐き気がした。こんな風に扱われるのなら、自分が姫の立場でも家出をする。

「これからも捜索を続けるよう、兵に命令を出せ」
「陛下。実際は誘拐ではない。私は兵たちを束ねる責任がある。兵たちに嘘を吐き、無駄な労力を費やさせるわけにはいきません」
「事実を教えなければ、誘拐が真実。あれの婚約者にあてた一族の財力は国一だぞ。あいつが居なければその金を引き出せないではないか。戻ってきて貰わなければ困る」

 必要なのは婚姻先の一族が持つ金か。
 ガーニムの言動からは、娘への心配が欠片も見えない。この男は人の心を持っていないのかと寒気すら覚えた。
 ウスマーンなら、家族が失踪したら仕事を休んででも日夜探し回るのに。

「ああ、もしも誘拐犯ゆうかいはんを処刑してもあれが戻らなかった場合のことも考えておかねばならないな。国の世継ぎが居なくなってしまったら民が心配する。そうだ……ウスマーン。お前には年の離れた妹が居ると言っていたな」
「そ、そうですが、私の妹がなにか」

 なぜいきなりウスマーンの妹に話が飛び火したのか。聞くと、ガーニムはとんでもないことを言い出した。

「お前の妹を俺の妻として差し出せ」

 ウスマーンには、マッカという年の離れた妹がいる。両親を早くに亡くしてしまったため、ずっと妹と二人だけで生きてきた。ウスマーンは、マッカの兄であると同時に、父の役目も担っていた。

 ガーニムはすぐに応えないウスマーンを、汚物を見るような目で見下ろす。

「シャムスを連れ戻せなかった失態は重いぞ。俺が死んだあと、誰がイスティハール家を継ぐのだ。王が国の世継ぎのためにハーレムを築いたり再婚したり、そんな話は過去にいくらでもある話だろう」
「ですが、陛下と妹ではあまりにも身分が……」

 言ってしまってから、こんな言葉になんの意味もないと気づく。
 亡き王妃は、旅一座の踊り子だったのだから。
 ガーニムにとって、相手の身分などどうでもいいこと。大事なのは子を産める女であることだけなのだ。

「自分の首を差し出すか、妹を差し出すか、選べ。まあ、反意はんいでもない限り、王妃になれるという名誉を蹴る人間はこの国には居ないとは思うが」

 ウスマーンは悟った。この人は間違いなく、ウスマーンの中にある猜疑心に気づいている。
 アシュラフ王が亡くなってから十八年、本当の犯人はこの人ではないかと考えていることを。
 妹を王妃にすることを拒むか受け入れるか、ウスマーンを試しているのだ。

「妹に、説明する時間をください」
「そうか。今すぐに行け。そしてここに連れて来い」

 追い立てられ、ウスマーンは重い足取りで玉座の間をあとにした。



 二日ぶりに家に帰ると、洗濯物を干している最中だったマッカがかけよってくる。

「おかえりなさい、兄さん。また徹夜でお仕事だったの? 顔色が悪いわよ。あまり無理しちゃだめよ。体を壊してしまうわ」
「マッカ……」

 最大級の労りの言葉をかけられ、ウスマーンは泣きたくなった。
 マッカはまだ二十三になったばかり。いくらでも未来を選べる年齢なのに、なぜウスマーンの妹だったというだけで、意思を無視して王妃にされなければならないのか。
 兄の様子がいつもと違うと、マッカも感じ取ったようだ。

「姫が誘拐されたという話は聞いているか?」
「え、ええ。近所のおばさんたちが噂していたもの。兄さんも姫様の捜索のために家を空けていたのでしょう? それがどうかしたの?」
「陛下が『姫が戻らなかった場合のことを考え、再婚する。お前の妹を、妻にする』と」
「ワ、ワタシ!? ワタシが国王陛下の妻に……王妃になるの? いきなり、どうして」

 ウスマーンは自分で思うよりずっと動揺していた。
 声が震えて、うまく喋ることができない。
 マッカも突然告げられた国王の命令に、あ然とした。あまりにも突拍子がなさすぎて、洗濯物を持ったまた固まっている。

 国民からは、平民が王妃になれるなんて名誉なことだと喜ばれるだろう。貴族からだって妻を選べるのに、前妻に続き二人目も平民の娘を。身分にとらわれず国民を大切にする良き王だと賞賛されるのだ。
 おそらくそこまで込みでガーニムの策略。

 ウスマーンは家で仕事の話をしないから、マッカはガーニムがどういう人間か知らない。

「国王陛下がそう決められたのね。ワタシに王妃になれと、兄さんも望むの?」
「いいや。私の望みではない。上から下された命令をそのまま伝えているだけ。だが、マッカは臣下ではない。命令に従う必要はない。マッカにも、夫婦になりたいと想う男の一人くらいいるだろう。私はそれを尊重したい。だから……今のうちに」

 今のうちにどこか別の国に逃げてくれと、言ってしまいそうになった。
 マッカを逃がせば、反逆の意志があると見なされ、大将の座を降ろされるだろう。
 クビにされるだけならまだ易しい。物理的に首を落とされることもあり得る。
 それでも、ウスマーン自身が全てを失っても、マッカが不幸になるのだけは見たくなかった。
 ガーニムに嫁ぐことは、不幸なこととしか思えない。

 マッカはウスマーンの様子を見て、心を決めた。

「……ワタシ、陛下のもとに行くわ。兄さん」
「マッカ?」
「奥様を早くに亡くされたうえに、娘である姫様までいなくなってしまったんだもの。きっと陛下はお寂しいと思うの。ワタシで陛下の支えになれるのなら、行くわ。だから兄さん。兄さんは自分の思うようにして」

 幼い頃と変わらない、優しい笑顔でマッカは言う。
 きっとマッカは気づいてしまった。自分が嫁がないと、ウスマーンの命が危ないということに。
 妹を犠牲にしてしまうことがひどく心苦しい。

「……すまない、マッカ」

 妹の背を抱きしめ、ウスマーンは何も出ない己の無力さを呪った。



 マッカを連れてガーニムのもとに行くと、ガーニムは上から下まで品定めするようにマッカを見て、口元を歪めた。
 マッカはウスマーンに倣って膝をつき、ガーニムに頭を下げる。

「よろしくお願いいたします、陛下。ワタシはマッカと申します。誠心誠意、貴方様の支えになれるようつとめます」
「いい心構えだ。今日はもう遅いゆえ、明日、仕立て屋を呼ぼう。契約式けいやくしき披露宴ひろうえんはそれを待ってから執り行う。ウスマーンも、新婦の親族として契約式に立ち会え。その後の披露宴にもな」
「……承知しました」

 マラ教の婚儀は結婚契約式と披露宴のふたつが行われる。
 教徒の識者と親族が立ち会い、婚姻契約書に署名をする。
 契約式の後に披露宴だ。
 披露宴は男女別室に分かれて、それぞれの性別の親族や友人知人に料理を振る舞い、音楽や踊りを楽しむ。昼から夜にかけて行われ、披露宴が終わった夜に初夜となる。

 妹がガーニムの妻になるのを一部始終見届けろ、なんて拷問のようだ。
 相手がガーニムでなければ、心の底から祝福できたのに。



 即日、国中に国王再婚のお触れが出された。
 翌日にはウスマーンの家の近所の人たちも知っていた。
 近所の人、部下、会う人みんなに祝福の言葉を贈られる。
 とくに、ウスマーンとマッカが両親を亡くす前から親交のあった人たちは嬉し泣きしている。

「おめでとう、ウスマーンさん。マッカちゃんが結婚するんだろう。しかもお相手は国王陛下様。こんなに喜ばしいことはないねぇ」
「お前さんずっとマッカちゃんのことを気にしていたものな。これでようやく安心できるな」
「ありがとう、おじさん、おばさん。マッカにも伝えておく」

 極力笑顔を作ろうとするが、うまく笑えている自信がない。笑えないことを、妹が離れていく複雑な兄心だと思ってくれているといい。



 そして契約式の日が来てしまった。
 姫が失踪した今、契約式に立ち会うのはマラ教の識者とウスマーン、二人だけ。
 ガーニムが先に署名をし、続いて仕立てられたばかりの真白なドレスに身を包んだマッカが、婚姻契約書に署名する。

 披露宴の場は、ガーニムの宴が東、マッカの宴が西の広間で行われる運びとなった。
 表向きは姫が誘拐されているため、王族の披露宴にしてはとても控え目でささやかなものだ。
 新婦の兄であるため、披露宴からも逃れることができない。
 みんなが贈ってくる祝福の言葉が、呪いの言葉に聞こえる。
 宴で用意された食事に、一口たりとも口をつけることができなかった。

「な〜に、家族を戦地に送る親みたいな顔してんのよ。披露宴でする顔じゃないわよ、それ」
「うるさい」

 隣から聞こえる軽口に、短く答える。

「そんな顔するくらいなら、妹を連れて逃げればよかったのに」
「……そんな馬鹿な真似、できるわけ、ないだろう」
「そうよね。アンタ頭が良すぎるもの。考慮しなくていい他人のことまで考え過ぎる」

 ディヤは果実汁の入ったコップを持っていたが、口をつけることなくテーブルに置いた。

「仕方ない。付き合ってあげるわよ」
「お前は関係ないだろう。好きに祝いの品を食え」
「あんまり食べると太っちゃうじゃない。……逃げないと決めたんだから、腹をくくりなさい。その顔を見たら妹が悲しむわよ」
「……あぁ」

 全ては、逃げる道を選べなかったウスマーン自身のせい。今はこんな命令を下したガーニムよりも、妹を逃さなかった自分を許せなかった。



 こうしてウスマーンは、逃れられない枷をはめられた。
 妹は、王妃という名の人質。
 たとえそれが人道や己の心にに外れた命令であろうとも、遂行するしかなくなった。
 



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