ドブネズミの革命 〜虐げられる貧民たちは下克上する〜
ナジャーを逃がすことができた。そのことに安堵して、シャムスは自分が置かれた状況を忘れていた。
「シャムスよ。昨夜は体調が優れないと欠席していたからな。代わりに今夜、お前の婚約者をここに連れてきている。ダギル。こちらに来い」
ガーニムに呼ばれ、宴の招待客の一人が進み出てきた。体型を例えるなら水瓶。腰と胴の境目どころか、首と頭の境目すらわからないほどに太った、中年の男だった。
「姫様。恐れ多くも姫様の夫となるべく選ばれましたダギルと申します。どうぞよろしくございます、ふへへへへ。先程の悪しき従者をクビにする姿はとても勇ましく…………」
「それはどうも」
「この父の優しさに咽び泣いてくれて構わないのだぞ、シャムス。お前の為を思って、金も地位もある申し分ない男を夫にあてがってやったのだからな」
ダギルの台詞は丁寧だが、たれた目がシャムスの体を隅々まで舐めるように動いていて気持ち悪い。
しかも宴での顔合わせ。優しさではなく悪意しか伝わってこない。
「ついに婚約ですか。おめでとうございます姫様。お幸せに」
誰かの言葉を皮切りに、広間中から響く拍手。
こんな水瓶と結婚して幸せになどなれるものか、と叫びたくなる。
一分一秒でも早くファジュルが王位を簒奪してくれればいいとマラ神に祈るシャムスだった。
シャムスの気持ちなんて知る由もない者たちの祝福の言葉から逃げるようにして、シャムスは自分の部屋に帰った。
ガーニムが婚約者を連れてきてしまったからには、今日中にでも逃げないと。このままでは、「明日から結婚式の準備をしよう」とでも言い出しかねない。
「今夜は疲れたからそっとしておいてくれない? 自分で着替えるから」
シャムスをドレスから夜着に着替えさせようとやってきた侍女にそう命じると、侍女は少し不満そうな顔をしたものの、命令に従った。
誰もいなくなったのを確認して、鏡台の引き出しを開けてありったけの宝飾品を身につける。
金細工のブレスレット、髪飾り、耳飾りに指輪。これらを売れば、しばらくファジュルたちの活動資金にできる。
「シャムス」
いつの間に入ってきたのか、背後にガーニムがいた。
「お、お父様!?」
「そのように着飾って、誰ぞと逢い引きでもするつもりだったのか、それとも、俺が来ると予期していたのか……まあ、どちらでもいいか」
マラ教は、夫婦以外の男女が同じ寝所にいることを禁じている。だからこそシャムスの世話係は皆女なのだ。
同室に入ることのできる異性は伴侶だけ。
ましてやシャムスは婚前の娘。
父であっても勝手に寝所に立ち入ることはできない。
ガーニムの手は、シャムスの手首を捉える。
握るなんて生易しいものではなく、痕が残るほど強く掴んでいる。
見下ろしてくるガーニムの瞳が、先程のダギルとよく似た欲を宿しているのを感じ取り、シャムスは悪寒を覚えた。
「お、お父様、酔っておられるのですか。ここはわたくしの寝所。お父様の部屋はここではありませ……」
気づかないふりをして自分の寝所に戻るよう促すけれど、ガーニムは一向に引かない。酒臭い息をシャムスの鼻に吹きかける。
「シャムス、お前も俺に抱かれるとわかっていて人払いをしたのだろう。この父が婚前の禊を行ってやることを感謝するといい」
どんなに抵抗しても振りほどけない。男女の力の差は歴然。人払いをしたことを心底後悔する。
数日前までは、何不自由ない暮らしを手放したくないなんて考えていたけれど、今はそんな気持ち欠片も残っていなかった。
こんな男の娘でいたくない。今すぐここから逃げ出せるなら、貧民暮らしに堕ちたとしても構わない。
とにかく誰かに届けと願い、シャムスはありったけの声で叫んだ。
「や、やめてくださいお父様! 助けて、誰か!!」
途端に、部屋中に白い煙が立ち込めた。火事で出る黒煙とは違う、そしてお香のものとも違う煙だ。
「なんだ、何が起こっている!?」
ガーニムも預かり知らぬことなようで、この事態に戸惑っている。
「シャムス! こっちだ!!」
「だ、誰?」
真っ白な煙が立ち込めるなか、年若い少年の声がした。
声のする方を向くと、隠し通路のあるあたりにうっすらと少年のシルエットが見える。
「逃げるよ。早くこっちに!」
この声は信用していい。
直感し、シャムスは少年に手を伸ばす。煙の中、白い手がシャムスの手を掴んだ。
「逃がすか、この!」
「きゃあ!!」
ガーニムの手がシャムスの長い髪を絡めとる。
「女性の髪を掴むなんて、男のやることではないですよ、陛下」
少年のものとは異なる大人の男の声がして、何かを一閃。シャムスの髪が解放される。
「急いでシャムス!」
少年の導くままに、シャムスは隠し通路の中に潜り込み、視界が白で埋め尽くされる中をひたすらに走った。
やがて煙が晴れ、視界が開ける。
打ち捨てられた水路が右に左に枝分かれし、片方はスラムに続いている。
「髪を切ってしまってすみません、シャムス様。ああでもしないと逃げられなさそうだったもので」
そう言って謝罪してきたのは、スラムで会った医師、ヨハンだった。腰布に半月刀を提げている。煙の中でわからなかったけれど、掴まれた先の髪を切り落として助けてくれたんだ。
腰まで届く長髪は、今や肩につくほどの短さになっている。無理やり切り落としたから不揃いで歪。ガーニムに襲われるか髪を切って逃げるか二択しか無かったのだから、助かったことに感謝するのみ。
「謝らなくていいわ。助けてくれてありがとう、ヨハンさん。そして貴方も」
シャムスは自分の手を引いてくれていた少年を見る。
先程まで宴で楽を奏でていた少年だった。
遠くから見ていたから小さく見えただけかと思ったけれど、こうして隣に並ぶと、シャムスと背丈がほとんど変わらない。
「なに、ボクの顔になんかついてる?」
「いえ。何もないわ。ありがとう。貴方の御名前を聞いてもよろしくて?」
「ボクはディートハルト。みんなはボクのことディーって呼ぶよ。アンタの従弟にあたるんだ。そして反乱軍の同士。よろしくね」
ディーがいたずらっぽく笑う。
「従弟?」
「二人とも追手が来る前にもっと遠くに逃げよう」
「は、はい!」
「シャムス様はそれをかぶって。その格好では目立ちます」
ディーが大判のストールを貸してくれて、シャムスは急いでそれを頭から肩にかけて巻きつける。今は夜だからいいけれど、昼になればドレスは目立つ。あとで平民の服も借りなければならないだろう。
そこら辺に寝転がっていた人たちが何事かとシャムスたちを振り返る。
ヨハンが口元に人差し指をあてる仕草をして、彼らに一声告げる。
「もしも誰かにこの子達のことを聞かれても、黙っていてくださいね。城で酷い目に合わされた子達なので、連れてきたんです」
「おう。先生が言うなら、大金積まれたって答えねえ。おれたちゃいつも先生の世話になってんだ。仲間を売ったりしねぇよ」
「助かります」
その後もスラムのみんながヨハンを見て、頭を下げる。
「先生、昨日はありがとうな。助かったよ」
「いいえ、大きな怪我でなくてよかったです。明日経過を診るので診療所に来てくださいね。忘れずに」
「ああ、明日は忘れねぇよ」
ガーニムや大臣は召使いたちの頭を押さえつけて無理やり平伏させるのに、ヨハンには誰もが自分から頭を下げる。
こういう人々に慕われている者こそ、臣として王の補佐にいるべきなのだと思う。
「見えてきましたよ。ほら、ナジャーさんがずっと貴女のことを心配していたんです」
入り組んだ道をあちこち歩き回り、着いた先は見覚えのある小路。そこにナジャーがいた。
「ああ、ナジャー! 貴女が無事でよかったわ」
「姫様こそ。私のために危険をおかして……ありがとうございます」
感極まってナジャーに抱きつくと、ナジャーもシャムスを抱きしめて背中を撫でてくれる。
やはりナジャーのそばは安心する。ナジャーはシャムスが物事つく前からずっと、シャムスのそばにいてくれたから。
ディーがシャムスたちを見て困ったように肩をすくめる。
「あのさ、感動の再会に浸っているとこ悪いけどさ。ばあちゃん。流石に姫様姫様呼んでいたら、平民の服に着替えてもバレるんじゃない? せめてここにいる間はなんか偽名を名乗らないと」
「あ…………そうね。わたくしも失念していたわ」
「アンタのその喋り方も。なんか命令するのに慣れた貴族特有の喋り方っていうか」
喋り方まで指摘されて、シャムスは口を手でおさえる。
「そう言われましても……。わたくしあまり市井のことに詳しくないので、せめて参考になる方を紹介してくださいません?」
「ええ? うーん。参考になる人かぁ。うちの姉貴みたいのは勘弁願いたい……。あんな口うるさいのが何人もいたらボクの心が折れる」
会話をしたことがないからどんな喋り方なのかわからないけれど、ディーがいかにもうんざりしたように言うのでシャムスは笑ってしまった。
「喋り方は少しずつ変えていくとして、偽名はどうなされますか」
「すぐには思いつかないわ」
ナジャーに聞かれて悩むシャムスに、ヨハンが提案する。
「でしたら、イーリスというのはどうです?」
「イーリス。ルベルタ人ぽくていいと思うわ。わたくし、見た目はルベルタ人ですものね。ルベルタの旅人イーリスということにしましょう。ナジャー、今からわたくしはイーリスです。そう呼んでくださいね」
偽名なのに、なんだか元から自分の名前だったかのようにとてもしっくりくる。シャムスよりも似合っているかもしれない。
シャムス改め、イーリスは何度も口の中で新しい名前を繰り返す。
「イーリスって、ヨハンさんの恋人かお友達の名前なんですか?」
質問すると、ヨハンはまなじりを下げて、寂しそうに答えた。
「僕と婚約者の子に、つけるはずだった名前です。男の子ならイザーク、女の子ならイーリスと決めていたんです」
「シャムスよ。昨夜は体調が優れないと欠席していたからな。代わりに今夜、お前の婚約者をここに連れてきている。ダギル。こちらに来い」
ガーニムに呼ばれ、宴の招待客の一人が進み出てきた。体型を例えるなら水瓶。腰と胴の境目どころか、首と頭の境目すらわからないほどに太った、中年の男だった。
「姫様。恐れ多くも姫様の夫となるべく選ばれましたダギルと申します。どうぞよろしくございます、ふへへへへ。先程の悪しき従者をクビにする姿はとても勇ましく…………」
「それはどうも」
「この父の優しさに咽び泣いてくれて構わないのだぞ、シャムス。お前の為を思って、金も地位もある申し分ない男を夫にあてがってやったのだからな」
ダギルの台詞は丁寧だが、たれた目がシャムスの体を隅々まで舐めるように動いていて気持ち悪い。
しかも宴での顔合わせ。優しさではなく悪意しか伝わってこない。
「ついに婚約ですか。おめでとうございます姫様。お幸せに」
誰かの言葉を皮切りに、広間中から響く拍手。
こんな水瓶と結婚して幸せになどなれるものか、と叫びたくなる。
一分一秒でも早くファジュルが王位を簒奪してくれればいいとマラ神に祈るシャムスだった。
シャムスの気持ちなんて知る由もない者たちの祝福の言葉から逃げるようにして、シャムスは自分の部屋に帰った。
ガーニムが婚約者を連れてきてしまったからには、今日中にでも逃げないと。このままでは、「明日から結婚式の準備をしよう」とでも言い出しかねない。
「今夜は疲れたからそっとしておいてくれない? 自分で着替えるから」
シャムスをドレスから夜着に着替えさせようとやってきた侍女にそう命じると、侍女は少し不満そうな顔をしたものの、命令に従った。
誰もいなくなったのを確認して、鏡台の引き出しを開けてありったけの宝飾品を身につける。
金細工のブレスレット、髪飾り、耳飾りに指輪。これらを売れば、しばらくファジュルたちの活動資金にできる。
「シャムス」
いつの間に入ってきたのか、背後にガーニムがいた。
「お、お父様!?」
「そのように着飾って、誰ぞと逢い引きでもするつもりだったのか、それとも、俺が来ると予期していたのか……まあ、どちらでもいいか」
マラ教は、夫婦以外の男女が同じ寝所にいることを禁じている。だからこそシャムスの世話係は皆女なのだ。
同室に入ることのできる異性は伴侶だけ。
ましてやシャムスは婚前の娘。
父であっても勝手に寝所に立ち入ることはできない。
ガーニムの手は、シャムスの手首を捉える。
握るなんて生易しいものではなく、痕が残るほど強く掴んでいる。
見下ろしてくるガーニムの瞳が、先程のダギルとよく似た欲を宿しているのを感じ取り、シャムスは悪寒を覚えた。
「お、お父様、酔っておられるのですか。ここはわたくしの寝所。お父様の部屋はここではありませ……」
気づかないふりをして自分の寝所に戻るよう促すけれど、ガーニムは一向に引かない。酒臭い息をシャムスの鼻に吹きかける。
「シャムス、お前も俺に抱かれるとわかっていて人払いをしたのだろう。この父が婚前の禊を行ってやることを感謝するといい」
どんなに抵抗しても振りほどけない。男女の力の差は歴然。人払いをしたことを心底後悔する。
数日前までは、何不自由ない暮らしを手放したくないなんて考えていたけれど、今はそんな気持ち欠片も残っていなかった。
こんな男の娘でいたくない。今すぐここから逃げ出せるなら、貧民暮らしに堕ちたとしても構わない。
とにかく誰かに届けと願い、シャムスはありったけの声で叫んだ。
「や、やめてくださいお父様! 助けて、誰か!!」
途端に、部屋中に白い煙が立ち込めた。火事で出る黒煙とは違う、そしてお香のものとも違う煙だ。
「なんだ、何が起こっている!?」
ガーニムも預かり知らぬことなようで、この事態に戸惑っている。
「シャムス! こっちだ!!」
「だ、誰?」
真っ白な煙が立ち込めるなか、年若い少年の声がした。
声のする方を向くと、隠し通路のあるあたりにうっすらと少年のシルエットが見える。
「逃げるよ。早くこっちに!」
この声は信用していい。
直感し、シャムスは少年に手を伸ばす。煙の中、白い手がシャムスの手を掴んだ。
「逃がすか、この!」
「きゃあ!!」
ガーニムの手がシャムスの長い髪を絡めとる。
「女性の髪を掴むなんて、男のやることではないですよ、陛下」
少年のものとは異なる大人の男の声がして、何かを一閃。シャムスの髪が解放される。
「急いでシャムス!」
少年の導くままに、シャムスは隠し通路の中に潜り込み、視界が白で埋め尽くされる中をひたすらに走った。
やがて煙が晴れ、視界が開ける。
打ち捨てられた水路が右に左に枝分かれし、片方はスラムに続いている。
「髪を切ってしまってすみません、シャムス様。ああでもしないと逃げられなさそうだったもので」
そう言って謝罪してきたのは、スラムで会った医師、ヨハンだった。腰布に半月刀を提げている。煙の中でわからなかったけれど、掴まれた先の髪を切り落として助けてくれたんだ。
腰まで届く長髪は、今や肩につくほどの短さになっている。無理やり切り落としたから不揃いで歪。ガーニムに襲われるか髪を切って逃げるか二択しか無かったのだから、助かったことに感謝するのみ。
「謝らなくていいわ。助けてくれてありがとう、ヨハンさん。そして貴方も」
シャムスは自分の手を引いてくれていた少年を見る。
先程まで宴で楽を奏でていた少年だった。
遠くから見ていたから小さく見えただけかと思ったけれど、こうして隣に並ぶと、シャムスと背丈がほとんど変わらない。
「なに、ボクの顔になんかついてる?」
「いえ。何もないわ。ありがとう。貴方の御名前を聞いてもよろしくて?」
「ボクはディートハルト。みんなはボクのことディーって呼ぶよ。アンタの従弟にあたるんだ。そして反乱軍の同士。よろしくね」
ディーがいたずらっぽく笑う。
「従弟?」
「二人とも追手が来る前にもっと遠くに逃げよう」
「は、はい!」
「シャムス様はそれをかぶって。その格好では目立ちます」
ディーが大判のストールを貸してくれて、シャムスは急いでそれを頭から肩にかけて巻きつける。今は夜だからいいけれど、昼になればドレスは目立つ。あとで平民の服も借りなければならないだろう。
そこら辺に寝転がっていた人たちが何事かとシャムスたちを振り返る。
ヨハンが口元に人差し指をあてる仕草をして、彼らに一声告げる。
「もしも誰かにこの子達のことを聞かれても、黙っていてくださいね。城で酷い目に合わされた子達なので、連れてきたんです」
「おう。先生が言うなら、大金積まれたって答えねえ。おれたちゃいつも先生の世話になってんだ。仲間を売ったりしねぇよ」
「助かります」
その後もスラムのみんながヨハンを見て、頭を下げる。
「先生、昨日はありがとうな。助かったよ」
「いいえ、大きな怪我でなくてよかったです。明日経過を診るので診療所に来てくださいね。忘れずに」
「ああ、明日は忘れねぇよ」
ガーニムや大臣は召使いたちの頭を押さえつけて無理やり平伏させるのに、ヨハンには誰もが自分から頭を下げる。
こういう人々に慕われている者こそ、臣として王の補佐にいるべきなのだと思う。
「見えてきましたよ。ほら、ナジャーさんがずっと貴女のことを心配していたんです」
入り組んだ道をあちこち歩き回り、着いた先は見覚えのある小路。そこにナジャーがいた。
「ああ、ナジャー! 貴女が無事でよかったわ」
「姫様こそ。私のために危険をおかして……ありがとうございます」
感極まってナジャーに抱きつくと、ナジャーもシャムスを抱きしめて背中を撫でてくれる。
やはりナジャーのそばは安心する。ナジャーはシャムスが物事つく前からずっと、シャムスのそばにいてくれたから。
ディーがシャムスたちを見て困ったように肩をすくめる。
「あのさ、感動の再会に浸っているとこ悪いけどさ。ばあちゃん。流石に姫様姫様呼んでいたら、平民の服に着替えてもバレるんじゃない? せめてここにいる間はなんか偽名を名乗らないと」
「あ…………そうね。わたくしも失念していたわ」
「アンタのその喋り方も。なんか命令するのに慣れた貴族特有の喋り方っていうか」
喋り方まで指摘されて、シャムスは口を手でおさえる。
「そう言われましても……。わたくしあまり市井のことに詳しくないので、せめて参考になる方を紹介してくださいません?」
「ええ? うーん。参考になる人かぁ。うちの姉貴みたいのは勘弁願いたい……。あんな口うるさいのが何人もいたらボクの心が折れる」
会話をしたことがないからどんな喋り方なのかわからないけれど、ディーがいかにもうんざりしたように言うのでシャムスは笑ってしまった。
「喋り方は少しずつ変えていくとして、偽名はどうなされますか」
「すぐには思いつかないわ」
ナジャーに聞かれて悩むシャムスに、ヨハンが提案する。
「でしたら、イーリスというのはどうです?」
「イーリス。ルベルタ人ぽくていいと思うわ。わたくし、見た目はルベルタ人ですものね。ルベルタの旅人イーリスということにしましょう。ナジャー、今からわたくしはイーリスです。そう呼んでくださいね」
偽名なのに、なんだか元から自分の名前だったかのようにとてもしっくりくる。シャムスよりも似合っているかもしれない。
シャムス改め、イーリスは何度も口の中で新しい名前を繰り返す。
「イーリスって、ヨハンさんの恋人かお友達の名前なんですか?」
質問すると、ヨハンはまなじりを下げて、寂しそうに答えた。
「僕と婚約者の子に、つけるはずだった名前です。男の子ならイザーク、女の子ならイーリスと決めていたんです」