二章 アイセと声無き少女

 生まれて初めて見た世界は、暗闇だった。

 ボクは赤い海の中に、足を投げ出すように座っていた。着ている服も赤いものが染みてべっとり肌に張り付き、気持ち悪い。

 目の前に誰かいる。ひとり、ふたり、……海と同じ赤がついた剣を携えている。

 怯えた目がボクを見た。

『化け物、悪魔! 悪魔だ! これは呪いなんだ! 愛の神子がノーゼンハイムにかけた呪いなんだ!』
『な、なんだこいつ、どこから現れたんだ、あの女はどこへ消えたんだ』

 男が口を開いてないのに、ボクの頭に声が届く。

「う、わ、あぁぁああ!! 化け物! 来るな、くるなあ!!」
「ま、待て、置いていくな!」

 二人はわめきながら、いなくなった。

「うー……?」

 ボクの喉から出るのは意味をなさない音。

 暗闇に一人残されたボクは自分の肩に触れ、足に触れ、手を広げてみる。

 ボクの体は、こんなに大きかったっけ。

 男たちが消えた暗い道から、誰かの争う声が聞こえる。

「ここを通せ!」
「いけません王子! この先には悪魔が!」
「そんなもの居るか! あの子は悪魔じゃない! いいからどけ!」

 何かのぶつかる音、荒々しい足音と共に、まばゆい光が差し込んだ。

「神子!」

 光をまとう青年が駆け込んできて、ボクを見つけた。
 青年が絶望し、膝から崩れ落ちてその場にへたりこむ。

「そん、な……。また、間に合わなかったのか」

『助けたかった。逃したかった。ヤクモが神子を待っていたのに。なぜ、殺してしまったんだ』

 ここにいた誰もがボクを怖れたのに、青年だけは涙を流し、救えなかったことを悔やんでいる。

 青年の瞳から、次々涙がこぼれている。
 ボクは青年の方に歩こうとして転ぶ。

歩くって、どうするんだろう。
 しゃべり方もわからない。

 仕方ないから這って、青年に手を伸ばす。

「……君は、次代愛の神子だな。称号は?」

 青年の手が、ボクの髪を優しくすく。
 優しい眼差しで、親しみを込めて見つめてくる。

「うー」

 しょうごう。ばんぶつを、あいせしもの。

 何を指す言葉かわからないけど、それだけはわかる。

 ボクは、ばんぶつをあいせしもの。

「喋れない、のかな? なら、愛のチビでいいか。小さい愛の神子だし。ボクが言葉を教えてやろう」
「あう」

 青年がボクの頭をくしゃくしゃ撫で、立ち上がらせる。ボクの背後にあるなにかを見て、息をのんだ。

「なんだ、これは……」
「う?」
「……なんでもないよ、チビ。ボクはフェンネル・クロノス。これから君を育ててやる。マリアを助けたいんだ。力を貸してくれ」

 まっすぐで強い言葉。憎しみの色のない心。
 ボクはフェンネルの手を取る。

「ふぇ、ん?」
「んー? なんだい、おちびさん」

 生まれて初めて会ったのに、この人の手はとてもなつかしい。

 頭を撫でてくる手のひらが、なつかしい。

「     」

 口を動かしても、言葉にできない。

 ボクがこの人を表すための言葉。ただひとつの、言葉があるはずなのに。
 その一言を思い出そうとすると、頭のなかにもやがかかる。

 なにもわからない。 

 つまずきながら、手を引かれ一歩ずつ歩く。

 マリアを助けたいというフェンネルの言葉が、頭のなかで繰り返される。

「ボクの婚約者、マリアっていうんだけどね、エンジュの王子に囚われてしまったんだ。だから、お前の力を貸して。愛の神子のお前なら、きっと解くことができるから」

『必ず助けるから。待っててね、マリア。アイリーンが残したのはきっと、君を救うための答えだから』

 その心はフェンネルが放つ魔法の光のように明るい。

 ボクはフェンネルを見上げ、フェンネルが決意のこもった瞳でボクを見つめる。

「行こう、愛のチビ」

 フェンネルと共に、ボクは光の溢れる世界――牢獄の外へ踏み出した。


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