「いっ、かく……」
僅かに音が発せられただけだった
なつめの言葉は、一角へとしっかり届いた。その声に宿る安堵の色が余計に一角の胸に痛みを走らせた。
護りたかった。護ると誓った。
それなのに、
なつめはまた泣いた。血を流した。目の前にいる"自分と同じ顔をした男"によって。
膨大な怒りが沸々と込み上げ、男の胸ぐらを掴む手を一層強く握り込む。
過度な緊張から解放された
なつめは、眠りにつくように意識を手放した。
なつめの霊圧は途端に小さくなり、それに気付いた一角は眼前の男から目を離さず意識だけを
なつめへ飛ばす。霊圧は小さいが、危機感がひしひしと伝わるほど硬く落ち着きがなかった霊圧は、穏やかさと柔らかさを取り戻していた。一角は静かに息を吐いて安堵するが緊張を解くことなく、男を睨み付けていた。
男は自分の目の前に現れた原種の姿に不適な笑みを浮かべている。
「……」
男を躊躇わせていた記憶は、一角の頭の中にも思い起こされていた。
*
それは、藍染惣右介・市丸ギン・東仙要が護廷十三隊へ謀反を翻す前の出来事だった。
東流魂街の七十地区から八十地区にかけての一帯に、短い期間で虚の出現が異様に多発した。
その区画に住まう流魂街の人々、虚の討伐に当たった死神に死者が相次いだ。不審に思った護廷十三隊総隊長・山本元柳斎重國が十一番隊へ調査任務の命令を下した。任務中にも虚の出現が懸念され、調査場所が地区の悪い一帯だったこともあり、十一番隊へ白羽の矢がたったのだ。
総隊長からの命令であるのにもかかわらず「斬る虚が出てから俺を呼べ」と横暴過ぎる言い分で十一番隊隊長・更木剣八は自分の部下である第三席の斑目一角・第四席の
朱田なつめ・第五席の綾瀬川弓親へ任務を振った。
怪しい人影を見たという流魂街の住人の証言もあったため、総隊長からは覆面調査で行うようにと指示もあった。三人は指示どおり死覇装ではなく、質素な着物を身に纏い、流魂街の住人を装って東流魂街へと赴いた。
その道中、終始
なつめは浮かない顔していた。
「何だよ。腹でも壊してんのか?」
「う、ううん……。違うんだけど……ちょっとね」
疑問に思った一角が尋ねると、
なつめからは歯切れの悪い返事と硬い笑顔が返ってきた。
「漏らす前に便所行っとけよ」
「だから違うってば……」
デリカシーがないとか、何だとか言い、食ってかかってくると思っていた一角は拍子抜けしてしまった。
何か事情がありそうだと思ったが、かつめはそれ以上話そうとしない。これ以上自分が干渉する必要がない、とその時の一角はそれ以上気にも留めなかった。
「……大丈夫? 僕と一角だけで行っても良いんだよ?」
「大丈夫、大丈夫。……行かないと……ずっと、強くなれない気がするから」
弓親と
なつめが小声で交わしていた言葉は一角には届いていなかった。
三人は指定された地区一帯をそれぞれ手分け、調査をすることにした。数字で見れば八十地区あるうちのたった十地区だが、実際にはかなりの広範囲である。一角と弓親が三地区ずつ、じゃんけんで敗けた
なつめが四地区を担当することになった。
「女の子を思いやる気持ちとかないの?」
「女の子がどこにいんだよ」
「こ・こ! 一角の目の前!」
「はい、はい。こんなところで喧嘩しない」
「だって一角が!」
「僕たちの目的を忘れたのかい? そんな大声を出していたら目立つだろ?」
「そうだぞ。うるせえぞ、
なつめ」
「あーもう! むかつく!」
地団駄を踏んだ
なつめはいつもの調子で、不満を全身で露わにしていた。自分のよく知る
なつめに戻っていることに一角は、道中のことはもう頭にはなかった。
調査を開始し、半日は経過したが怪しげなものは一切見当たらず。飽き飽きするほど毎日朝晩関係なく出現していた虚もその日は一体も現れなかった。一角は伝令神機で十二番隊へ中間報告を送ると自分と近い地区の調査に当たっていた
なつめに合流するために歩き出した。
なつめの霊圧を辿りながら、一角は欠伸をもらす。
思っていたより随分と味気のない任務だ。何かの尻尾を掴むまでこの任務は続くのだろうか。それは少し面倒だ、と心の中でごちた。
なつめの姿が見えてくると何やら三人の男に囲まれていた。
なつめは自分と同じ十一番隊。第三席である自分の下の第四席に身を置いている。本来の実力順ならば四席は弓親だった。だが、弓親自身のこだわりで五席に落ち着いている。「空いてるならあたしが四席でもいいよね。弓親は五が良いみたいだし、あたしも六は縁起悪くて好きじゃないもん」という
なつめの我儘が通ったとは言え、その実力を一角は十分に知っていた。
男たちからは霊圧が感じられるが、それはほんの僅か。一体何の話をしているのかは分からないが、普段上官として稽古をつけている体格の良い部下たちと比べたら体付きも十分ではない。追い払うことなど造作もないだろう。一角は速度を変えることなく、
なつめの元へと向かって歩いた。
くわっ、と大きな欠伸がもれた瞬間、男の一人が
なつめの腕を掴んだ。他の二人が一角の視線を遮るように立ち、そのままどこかに連れ去るように
なつめを引っ張って行こうとした。ちらりと見えた
なつめの顔は顔面蒼白だった。そこで、ようやく一角は足を早めた。
「おい」
声の調子を下げ、声をかけると男三人は振り返った。
「俺の連れだ」
斬魄刀の鍔を親指で持ち上げて刃を見せ、凄みながら言うと男三人は顔を見合わせた。霊圧も高めて三人へ当てつけると、圧倒的な力の差を感じた男たちは掴んでいた
なつめの腕を振り払うように離し、逃げて行った。
「呆気ねえ奴らだな」
「……」
「あんなのに屁っ放り腰になっててどうすんだよ」
「……」
「それで更木隊第四席が務まんのか?」
「……」
「……何だよ。本当に腹が痛いのか?」
いつもなら反発してくるはずの
なつめは黙したまま俯いていた。一角が顔を覗き込むと、変わらず顔色は悪かった。
「大丈夫……ありがとう……」
手を大きく震わせながら弱々しい声で
なつめは呟いた。緊張の糸が解けたのか、足の力が抜けて倒れそうになる
なつめを一角は片手で抱き止めた。
「危ねえな。本当に大丈夫かよ」
「……ごめん。……すぐ大丈夫に、なるから」
自分の腕の中にいる
なつめは何かに怯えているように見えた。一角は初めて見る
なつめの様子に少し戸惑った。
理由は分からないが何処かで休んだほうが良いだろうと辺りを見渡していると、空がゴロゴロと唸り声を上げる。見上げると嵐が来る前のように重暗い鉛色の雲が空を覆っていた。
「……歩けるか?」
「……」
なつめは俯きながら小さく首を振った。
「……はあ……しょうがねえなァ」
どう接するのが正しいかは一角には分からない。なるべくいつもと同じ調子で話すことを一角は心掛けたほうが良いだろうと何となく思った。
普段なら
なつめに対してこんなことは絶対にしないが、と心の中で前置きを置いて
なつめの背に片腕を回し、もう片方を両膝に入れると胸の前で横抱きにして抱えた。
なつめから何か文句を言われるかと思ったが、黙して目を閉じたまま一角に身を委ねていた。そうこうしているうちに雨が降り始め、一角は
なつめを抱えてどこか雨が凌げる場所を求めて走った。
小さな洞窟を見つけ、一角はそこに入ると
なつめを下ろす。洞窟に入った数秒後に本格的に激しい雨が降り始めて、雨音が辺りに響き渡った。土壁に寄りかかって休んでいる
なつめを横目に一角は伝令神機で弓親と連絡を取った。弓親も何処かでこの大雨を凌いでいるようで、雨が弱まったら落ち合うことになった。
「……」
「……」
なつめは先程よりも少し顔色は良くなっているように伺えたが、お互い何も言葉を発さずしばらく時が過ぎた。
雨は激しさを増すばかり。今の状態の
なつめを連れてこの中を移動するのは気が引けた。一晩はここで過ごすことになりそうだ、と一角が思ったところで、突然
なつめが口を開いた。
「何も、聞かないの……?」
なつめは膝を抱えて座り、自分の足先を見つめながら一角へ言葉を投げ掛ける。
「聞いて欲しくねえって顔してるくせによくそんなことが言えるな」
図星だった
なつめは、ぎこちなく笑った。
「お前が言いたくなければ言わなくて良い。話したければ聞いてやるから話してみろ」
「……」
一角の言葉に
なつめは口をつぐんだ。数分程そのまま、
なつめは何も言葉を発しなかった。ようやく踏ん切りがついた
なつめは小さく口を開いた。
「……あたし、さ」
一角は頷くこともなく、雨音でかき消されてしまいそうな声を聞き逃さないように耳を傾けた。
「……流魂街の生まれらしいんだけど……母親も、父親も、気付いた時にはもういなくて……色々あったんだ。助けてくれる人もいたけど、その人もすぐいなくなっちゃって……誰かにそばにいて欲しいって思った時もずっと、ずっと、一人で……」
なつめは震える声で続けた。
「それで、小さい時に、この辺りで……さっきのあいつらみたいな奴らに……襲われたことが、あって……」
道中、浮かない顔していた理由はこれかと一角は一人で納得した。馬鹿になんかしたりしなかったから、素直に話せば良かったのに、とも思った。まあ普段の自分の態度からでは、言い出せなかったのかもしれない、と一角は自分の視野の狭さを思い知った。
「一人で、生きていけるように強くなりたい、って思ったの……。だから、頑張って死神になって……、一番怖かった十一番隊に配属されたけど……頑張って、強くなったのに……やっぱりあたしは弱いままで、一人じゃ何もできなくて……っ」
大きな涙を絶え間なく零して泣く
なつめの姿はとても痛々しかった。手の甲で拭っても拭っても、涙は溢れ続けていた。
「あたしは、ただ一人でも生きていけるように強くなりたいだけなのに……!」
なつめの悲痛な叫びは、一角の胸を苦しめた。
──
なつめも、ああ見えて苦労してるからね。少しは優しくしてあげなよ。
ある時、弓親は一角へそう告げた。一角の
なつめへの対応に"優しさ"がないと言うわけではなかった。男の割合が圧倒的に多い更木隊に身を置く
なつめのことを一角はそれなりに気を遣っているつもりだった。
──あんなのに優しくして堪るか! もっと調子乗るに決まってんだろ!
自分は確かそう返した気がする一角は、今やっと弓親が言いたかったことを理解した。
弓親は、
なつめの過去を知った上で自分にそう言ったはずだ。なぜ自分だけが何も知らなかったのかと一角は疑問を持った。その疑問は胸の中に僅かなモヤが立つ。
いや、違う。知ろうとしなかった。それなのに自分だけ除け者だと思うのも甚だ可笑しい。
一角は、過去の自分の言動から目を背けたくなった。
「……ごめん、こんな話して」
「……」
一角は、
なつめが十一番隊へ配属された春を思い出した。
十一番隊の配属を志願するのは大体、好戦的で腕っぷしに自信がある者、強さを求める者、強さへ憧れる者、そして更木隊の尾を借りようとする不届者だ。
当時の
なつめは周りの威圧感に圧倒され、身を縮こまらせていたのを良く覚えている。前述した特徴のどれにも当てはまるようには見えなかった。戦いになると目の色を変える者もいるが、
なつめはそれにも当てはまらなかった。一角は、毎年数人は必ずいるただの興味本位や度胸試しで入隊を志願した者なのだと判断した。しばらく経てば異動を申し出てくるか、死神自体を辞めてしまうだろう、とそう思った。
だが、
なつめはそれを申し出てくることはなかった。そして今もうこうして十一番隊にいる。しかも着実に力を付けていき、今は自分と同じ席官として肩を並べている。
「……やっぱり、全部今の嘘。忘れて?」
今にも泣きそうなのを耐えながら笑う目の前の
なつめは、今までどれほどの苦しみや不安を自分よりも小さい体で耐えてきたのか。
どれほどの想いを胸に閉じ込めてきたのだろうか。
それを思うと、なぜだかやるせなくなり、焦燥感に駆られた。
「お前は一人じゃねえだろ」
「え……?」
なつめは目を見張り、伏せていた顔を上げて一角を見つめた。一角も真っ直ぐに
なつめを見つめ返す。
「俺らがいる」
一角ははっきりと真っ直ぐな声で言い放った。瞬きも忘れてしまうほど
なつめは自分を見つめる一角の嘘と偽りも見えない瞳に目を奪われた。
「……」
一角の言葉をゆっくりと噛み締めた
なつめの頬に、ゆっくり一筋の涙が流れた。
「一人で生きていける奴なんていねえよ。話だけじゃお前の過去はよく分からねえけどよ」
薄暗い洞窟で
なつめの頬を伝う、その涙は
なつめの心を表すかのようにきらりと光った。
「今は俺らがいるだろ」
「……うん。そうだね。ありがとう、一角」
柔らかさを取り戻した
なつめは笑った。涙の輝きも増した気がした。
ふと、一角は何も知らないながらも怯えている
なつめに断りもなく触れてしまったことを思い出した。
「さっきは悪かったな」
「え? ……何の話?」
「事情を知らずに勝手に触れただろ」
「……本当だね。……でも、一角は平気だった」
まだ活気はなかったがいつもの無垢な笑顔を
なつめは一角へ向けた。自分へ純粋な信頼を寄せてくれている
なつめに一角は先程生まれたばかりのモヤは消えた。その代わり、妙に胸の辺りが擽ったく感じた。
「すごく、安心したから……だから、ありがとう……」
穏やかに顔を綻ばせて笑う
なつめに"俺ら"とは言ったが、一角はできれば自分が護ってやりたいと思った。同じ十一番隊に所属する手前、余計なお世話かもしれなかったが、自分が思っていたよりも随分と繊細で傷付きやすい彼女の不安や悲しみを自分が取り除いてやりたい。苦しさから自分が護ってやりたい。
いや、護ると誓った。
それ以上の理由はなく、単純かも知れなかったが、その日から一角にとって
なつめの存在は大きく変わったのだった。
*
護ると誓ったのに、"俺"が壊した。
一角の中で自分に対しての怒りも募っていく。
「……」
「ハッ!」
男は口角を上げてニヤリと笑うと左拳を一角の顔面に向かって殴り掛かった。一角はそれを左手のひらで掴んで防ぐ。同じように一角も右拳を振りかぶり、男の顔面へ振り下ろした。男はそれを顔面で受けると、殊更怪しげに笑った。男の左鼻から、すうっと血が流れる。男はそれを舌で舐めると両足を素早く一角の腹部へ向かって蹴り上げる。それを寸前のところで交わし、一角は後ろに飛んだ。ゆるり、のらり、と男は立ち上がる。
まるで鏡の前に立っているかのように錯覚するほど、自分と瓜二つだと一角は思った。だが、胸の中にあるものは全く違う。同じであって堪るものか。
何も言葉を交わさず二人は斬魄刀を鞘から抜き、構えた。雲の切れ間から月明かり差し込み、男の目が蒼く光る。それと同時に二人は地面を蹴り、鍔迫り合いが始まった。金属がぶつかり合う音が静まった辺りに響き渡る。
戦いを好む一角は普段であれば、いかに自分がこの瞬間を楽しむかだけを考えながら戦っただろう。だが、今はただ目の前の男を殺すことしか考えていなかった。一角を突き動かすものは"自分"への怒りだった。
「ハハハッ! 楽しいなァッ! お前もそう思うだろ!?」
「……」
男の左頬を裂けば、自分の左頬が裂かれる。右胸を裂けば、自分の右胸が裂かれる。実力は五分五分。だが、僅かに男のほうが上だった。
力任せに振り下ろされる刃を鞘で受けるが、単純な力比べに負けてしまい鞘が後方へと吹き飛ばされる。
「……ッ!」
一角に隙が生まれてしまう。その隙を逃すことなく男は大きく振りかぶると光の速さで振り下ろす。何とか後ろに身を引くが、男の刃は一角の胸から腹部にかけて大きく切り裂いた。噴き出た赤い鮮血が音を立てて地面を濡らす。
皮が裂けた箇所がドクドクと大きく脈打つ。足が思わずふらつくが、一角は斬魄刀を地面に刺して耐える。倒れるわけにはいかなかった。
一歩遅れていれば、致命傷だった。息の根も止められていたかもしれない。
「……チッ」
一角は小さく舌打ちをつき、息を荒くしながらも男を再び見据えた。
「こんなもんが原種の実力かよッ!」
男は声を上げて笑うと顔の正面で柄と鞘を繋ぐと、空に浮かぶ雲も吹き飛ばすような声で叫んだ。
「延びろォ! 『鬼灯丸』!!」
唱えられた解号と共に鬼灯丸は柄と鞘が繋がり、槍状へと変化する。
「延びろ『鬼灯丸』ッ!」
一角も遅れて飛ばされた鞘を拾い上げ、男と同じように解号唱えて鬼灯丸を変化させた。
二人は同じように槍の鬼灯丸を構える。辺りに久しぶりの静寂が訪れた。
先に男が動く。
攻撃を見切るために一角は身構える。だが男は風を切って一角の真横を走り、通り過ぎて行った。
「てめェ……ッ!」
一角の真後ろには、
なつめが地に伏している。一角は瞬時に男の狙いを理解し、すぐに身を翻して男の背を追った。手を伸ばすが、男を掴むことはできずに空を切った。次にもう片方の手にある鬼灯丸で男の頭の横を刺し、一角は叫んだ。
「裂けろ『鬼灯丸』ッ!!」
槍状だった鬼灯丸は解号と共に、三節棍へと変形し男の首に鬼灯丸が絡みついた。
「俺の名を名乗るなら目の前の戦いに集中しやがれ! よそ見してんじゃねェよ……!」
そのまま
なつめから引き離すように引っ張る。男は後ろに倒れ、一角は身動きを封じるように首へ絡ませた鬼灯丸を握る手に力を込めた。その力に鎖がギシリと音を立てた。
「
なつめに手を出すんじゃねェ……!」
地が唸るような一角の声に男は肌に粟が生じ、ぶるりと一瞬身体が震えた。
だが、すぐに可笑しそうに大きく声を上げて笑った。
「……もう、手は出させて貰ったけどなァ」
一角は全身の血液が逆流したかのような憤りに我を失いそうになった。
(……殺してやる。……俺が、この手で)
ただ殺意ばかりが募っていく。
どうやって相手の命を奪ってやろうか、と戦いの最中で胸を躍らせながら考えることは常だった。相手を痛ぶって殺してやりたい、こんなこと思うのは今までになかった。何より一角は、自分が楽しむ以外の目的で戦うのは今この瞬間が初めてだった。
一角は鬼灯丸でさらに男の首へと絡ませ、そのまま男を引き上げると遠方の岩へと投げつけた。男と岩がぶつかり重い音が響く。その一帯に土煙が登る。
土煙が晴れる前に、男は飛び出してきた。
「楽しくなってきたじゃねェか!」
三節棍へと変化させた鬼灯丸を振り回しながら迫ってくる。
「そうだ! それで良い! その腹ン中に隠してやがるもの全部出してみろよッ!!」
再び始まる金属同士がぶつかる音は先程より激しく、戦いはしのぎを削るものだった。
霊圧と霊圧が衝突し、暴れ、空気が揺れた。
木々の葉が音を立て、地に亀裂が走り、雲の流れが早くなる。
刀がお互いの肌を裂き、血が流れる。それでも双方は気にも止めず、ただ目の前の自分に刀を振い続けた。
「……くッ」
男は違和感に気付き始める。
先程は確かに男の力が一角を上回っていた。
だが、今は重症を負わせたはずの一角に男は翻弄されている。鍔迫り合いに力が押し負け始め、一角の攻撃を防いだ時の衝撃が強く腕に残る。
霊骸は原種と良く似た姿形をしているが好戦的でそれは血に染まれば染まるほど顕著になっていく。確かにそのとおりだった。しかし、一角はそれを更に凌駕していた。
一角から繰り出された強烈な一撃を男は鬼灯丸で塞ぐが、その鬼灯丸ごと破壊され、今度は一角が男の胸から腹部にかけて大きく切り裂いた。同じ場所に負わせた傷だったが、一角が身を裂かれた時より勢い良く鮮血が噴き出る。
「……クソッ」
男は衝撃に身体をふらつかせ、膝をついた。
息を荒々しく吐き出し、肩を上下させている。激しく咳き込むと多量の血を吐いた。
一角は男の胸ぐらを掴み上げる。
「お前は"俺"が絶対に許しちゃならねえことをした。泣いても、叫んでも、気を飛ばしちまっても、ぶっ壊れちまうまで逃げられると思うなよ」
一角は龍が宿る瞳で眼光を凄ませた。男は息を呑み、一瞬動きを止めた。しかし、負けじと刺すような瞳で一角を睨み返す。
「ッ、……お前は"俺"だ! お前の中にあるアイツに対するこの感情も全部お前のものだッ! 許す許さねえもねえ! 全部"俺"だッ!」
自分と同じ存在が抱く感情を理解ができない男は、胸ぐらを掴む一角の手を払い除けるとただ叫んだ。
「お前もアイツを自分のものだけにしてェんだろッ!?」
「……」
「アイツが自分以外の誰かに笑うたびに、その誰かも! アイツのことも! 壊したくなってんだろッ!?」
「……」
「お前がいるから"俺"がいるんだッ!」
一角は眉を一つも動かすことなく、声荒げ続ける男を静かに見下ろしていた。
「……お前も"俺"なら覚えてるだろ。俺があの日に自分へ誓ったことを」
「……!」
再び、男の頭の中に記憶が蘇った。ひゅっと息を飲む音が聞こえ、男は俯いた。
「違ェ……俺は……違ェ、アイツを……俺は」
譫言のように男はブツブツと何かを呟いている。
「……分からねえって言うなら、お前に俺を殺せねえ」
「俺はッ! お前よりも強いッ! お前には護れなかった! 俺がアイツを護るッ!」
男はもう自分が何を目的としていたのかが分からなかった。胸の中にあるものは目の前の自分への憎しみ。そして、渇望。
男は折れた鬼灯丸を両手に握り締め、立ち上がると口を大きく開いた。
「ッ卍解──」
男は声を張り上げるが、それ以上言葉は続かなかった。
「……お前には、もう
なつめは護れねえよ」
一角は男の喉元へ突き刺した刃が月明かりを浴びて光った。さらにぐっと深く喉元へ沈め、切り裂くように刃を引き抜いた。
湧水のように勢い良く血液が噴き出し、二人の全身が赤く染まっていく。
「お……お、俺はッ……
なつめが……
なつめの、こ……ことがッ……」
孔が開いた喉から、ひゅーひゅーと音を漏らしながら男はそれだけ呟いて、地に倒れた。
力無く横たわる男の身体は崩れていき、死覇装と紅い玉だけがそこに残った。
「……」
浴びた血液で一角の視界が赤く染まった。刃で至るところを裂かれ、血を吸って重くなった死覇装を脱ぎ捨て、一角は上裸になる。死覇装で顔に掛かった血液を拭うと、そのまま男の死覇装へ被せるように投げた。
振り返り、倒れている
なつめへ目を向ける。血色の悪い顔が一角の心臓を痛める。一角はゆっくり
なつめの元へと歩いた。
後もう少しのところで一角は大きく咳き込んだ。口を覆った手のひらには血液が付着する。目の前が暗く閉ざされそうなのを、何度も何度も頭を振って抵抗する。
倒れた
なつめの元へやっとの思いで辿り着き、規則的な呼吸をする
なつめに一角は酷く安堵した。
抵抗を抑え付けるために拘束された両手首には鬱血痕。衣服は激しく乱れ、健康的で清らかな
なつめの肌が暴かれている。露わになった首筋には見るに耐えない傷口がある。他にも痛々しい歯形がいくつもある。晒されている秘部からは赤い血液が流れていた。
その姿に護れなかったことへの罪悪感が更に強くなった。口約束を交わしたわけでもない。だが、あの日の
なつめの笑顔が脳裏に浮かんでは、胸を強く締め付けて、呼吸もままならない。
「
なつめ……」
口から溢れた情けない自分の声に一角は少し目が覚めた。
自分の全ての言動の根元にある
なつめの感情を既に一角は気付いている。もうそれは無視できないほど大きなものになっている。
護れなかったからといって、逃げる出すわけにはいかない。
一角は自分の手のひらに付着した血液を眺め、袴で拭った。
なつめの傷口へ鬼灯丸の血止め薬を塗り、乱れてしまった
なつめの死覇装を整える。そして、これ以上傷つけてしまわないように大事に大事に抱き上げた。
気を緩めれば倒れてしまいそうな身体に鞭を打ち、一角は足を引き摺りながら一歩一歩踏み出した。
ふらふらと左右に揺れながら歩く一角の目の前に何かが軽やかに着地し、霞む視界に一つの影が現れた。
足元からゆっくり顔へと視線を持ち上げるとよく知った──けれど知らない人物が佇んでいた。
「……
なつめ?」
その人物の名を呼ぶと、一角を見つめる瞳が蒼く光った。
自分と男のように、
なつめの姿と瓜二つ。
(クソッ……
なつめの霊骸か……)
一角は重い頭で冷静に現状を瞬時に整理した。
なつめの実力や斬魄刀の能力をよく知る一角は、この状態で
なつめの霊骸と戦うのは流石に分が悪い。
「チッ……」
なつめだけでも逃す方法はないかと考えながら舌打ちをつく。
「……」
黙したまま無表情の彼女は、ゆっくりとこちらへ近づいて来る。一角は眉間の皺を深くして身構え、後退りをしながら間合いを取った。
そんな一角に少し哀しげな表情を浮かべた彼女は一角から視線を外す。彼女は一角の後方を真っ直ぐに見据えながら歩いた。
一角の真横で一瞬立ち止まり、一角の腕に抱かれた
なつめを羨ましげな目で見つめる。彼女が口を小さく開くと、突然強い風が吹いた。風圧に顔を顰めながら、一角は彼女の唇の動きを追った。
──ひとりにしないでね。
風の音にかき消されてしまったが、彼女の唇は確かにそう動いた。
彼女が口を閉じ、瞬きをすると彼女はまた無表情に戻った。彼女は歩き出し、そのまま一角を通り過ぎて行き、立ち止まった。
彼女は男が倒れた場所をじっと静かに見つめている。
仇討ちと称して襲ってくるかと一角は考えた。だが、彼女の背中からは敵意も殺意も全く感じられない。
「……」
一角は彼女へ背を向け、再び足を進め始めた。
──バサッ。
数歩進んだところで何かが倒れる音が後ろから聞こえた。
足を止め、振り向くが、もうそこには彼女の姿はない。二人が見に纏っていた死覇装と二つの紅い玉が寄り添うように落ちているだけだった。
一角は暫くそれらを見つめた後、彼らへ再び背を向ける。
「……ひとりにしねえよ」
そして、腕に抱いた
なつめと共に前へ、前へ、と進み続けた。
続
【龍龍相搏】
龍と龍が戦うように、強い者同士が激しく戦うこと。