夏は、夜。
月のころは、さらなり。闇もなほ。
螢のおほく飛びちがひたる、
また、ただ一つ二つなど、
ほのかにうち光りて行くも、をかし。
雨など降るも、をかし。
蝉が喧しく鳴いている夏の早朝。
この季節は昼まで寝ようにも蝉が騒がしく、頭が痛い。そのうえ、じっとしていても肌が汗ばむせいで好きに眠れない。だからと言って何かをするにしても、すべてを溶かすような暑さのせいで何もかもに対して億劫になる。季節の中で夏は、一番必要ないと思う。
「剣ちゃん! 今日は隊首会だよ〜! 起きて~!」
蝉に負けないぐらいの騒がしい声が「いっそのことこのまま溶けてしまいたい」と怠惰で支配された頭に響いた。
「ほ~ら! 剣ちゃんも早く着替えて〜!」
既に死覇装へと着替えを済ませたやちるが布団へ横になったまま動かない俺の腹へと飛び込んだ。
「……分かってる」
俺は気怠い体を起こし、欠伸を一つ零した。
早く支度しないと遅刻をしてしまうのは分かってはいるが、面倒臭くて焦りが一切生まれてこない。重い瞼が再びゆっくり落ちてくる。
「分かってるなら、はやくはやく〜!」
やちるは、そんな俺を急かすように腕を引っ張り、立ち上がらせようとする。仕方なく俺は立ち上がり、死覇装が仕舞ってある棚へと歩いた。
棚は引き出しが開かれたままになっており、死覇装はそこに投げ入れられている。中には棚の中へ完全に収納されておらず、床に付きそうなほど垂れて下がっている物もある。寝間着の帯を解き、腕を抜くとバサッと音を立てて床に落ちた。それを拾い上げ、適当に棚の引き出しへと放り投げる。俺はその中から無作為に死覇装を手に取り、腕を通す。袴に足を入れ、帯を腰より少し低い位置で結ぶ。
次に、棚の上の段から覗いている白い隊長羽織を手に掴み、引っ張った。上の段も同様に引き出しは開きっぱなしだ。引っ張り出した隊長羽織を死覇装の上に羽織る。
ふと、胸元へ目を下ろすと切断された部位が修繕してある縫い目が目に入った。表の白い生地に目立たないように白い糸で綺麗に縫われているため、遠眼からはまったく気付けない。だが、裏側は滅紫色の生地であるため、白い糸ははっきりと視認できる。それでも、慎ましくそこに存在する縫い跡。それが、あいつ——
春宮らしいと思った。
春宮優紫。数か月前に俺が負った胸の傷を治療した四番隊隊士の名前だ。傷を負った際に、損傷したこの隊長羽織を修繕したのも
春宮だ。
治療を受けた日、二週間後に傷を見せに来いと言われ、その時に修繕した隊長羽織を受け取ることになった。これを受け取った後は特別理由もなかったため、会うことはなかった。同じ隊に所属していなければ、隊長と一般隊士という役職の違いから意図的に会おうとしなければ偶然に出会うことはそうそうない。
普段の俺なら顔も名前もその出来事も、すぐさま忘却の彼方へと追いやっていた。しかし、なぜだか
春宮のことは忘れることなく、頭の中に留め続けた。理由はなぜだ、と問われたら答えられない。
ただ一つ分かることは、
春宮からは他の奴らのように俺へ向ける畏怖の感情を感じられず、それを心地良いと思ってしまったこと。その心地良さは、やちるや一角、弓親を始めとする十一番隊の連中から感じるものと似ていた。だから俺は、
春宮のことを少なからず気に入っているのだろう。
その事実が初めは受け入れられず、「隊長羽織を人質に取られているからだ」と頭の中で理由付けをしていた。──こんなもの、傷を付けても汚しても失くしてもまったく心に響くこともないのに。それでも俺は、自分が納得できる理由が欲しかった。
「本当に遅刻するよ! オジイちゃんに怒られちゃうんだからね!」
無意識に、そこの縫い目へ指をそわせて物思いに耽っていた。
やちるの声に、ハッとする。隊首会も面倒だが、それに遅刻して総隊長に説教されるのはもっと面倒だ。
そう思うと、ようやく焦りが生まれてくる。足早に洗面所へと向かい、寝癖が付いている髪を整える。ごわついた髪の毛をいつものように数本の束に分け、毛先へ小さな鈴を付ける。
「待って、待って~! あたしも手伝う!」
やちるは俺の肩によじ登り、鼻歌を歌いながら鈴を毛先に付け始めた。
すべての毛先に鈴を付け終え、頭を振って確かめる。俺の頭の動きに合わせて、鈴がちりんちりんと鳴っている。
「かんせ〜い!」
「行くぞ」
大股で足早に玄関へと向かう。二人で並んで草履を履き、玄関の扉を開いた。
むわっとした熱気が俺の体を包みこむ。すぐに扉を閉じ、家の中へと引き戻りたくなった。深いため息をつき、意を決して足を一歩踏み出す。
「剣ちゃん、ダッシュ! ダッシュ〜! 急げ〜!」
背中に乗っているやちるに急かされながら、一番隊へと駆けた。
*
やちるのせいで道には迷ったが、なんとか隊首会には間に合った。総隊長の説教は免れ、隊首会を無事に終えることができた。
今は、十一番隊への道のりを一人で歩いている。なぜ一人かというと、やちるは総隊長の長い話が始まる直前に「遊びに行って来るね」と言い残してどこかへ行きやがった。元々隊長の集会だから副隊長のあいつが参加する必要性はないのだが、いつもより長かったつまらない時間から逃げたやちるへの苛立ちが勝った。胸に渦巻くこの苛立ちをどう解消してやろうかと思考を巡らせる。
「あっ、更木隊長!」
ざっ、ざっ、と草履で地面を撫で付けながら歩いていると、不意に前方から名前を呼ばれた。
「……
春宮」
そこにいたのは
春宮だった。何やら細々とした物が入っている箱を二つ重ねて両手で抱えている。そして、はち切れんばかりに膨らんでいる白い袋を腕にぶら下げている。誰が見ても『無茶な荷物の運び方』であるのは一目瞭然だ。
「おはようございます。お久しぶりで、きゃっ!」
微笑みながら俺のほうへ駆けて近付こうとした
春宮は体勢を崩し、よろめいた。咄嗟に駆け寄り、小さな体が地面へ打ち付けられないように右腕で抱き留める。
春宮の腕から飛び出してしまった箱を左手で何とか捕らえた。少し箱から物が溢れて地面へと落ちたが、何かが壊れるような音はしなかった。白い袋は
春宮の腕に引っ掛かっており、落下は免れている。想定できた最悪の事態を防ぐことができ、一つため息をついた。自分の胸の中では状況を上手く飲み込めていない
春宮が目をぱちくりさせている。
「危ねえだろ」
「も、申し訳ございません……! ありがとうございます……。助かりました」
春宮は申し訳なさそうに小さい体をさらに小さくさせ、頭を下げて俺に謝罪する。左手で掴んでいた箱を抱え直し、腕に閉じ込めていた
春宮を解放した。
「お前はもっと利口な奴かと思ってたけどよ、案外横着なんだな」
「何回も往復するのが手間だと思って……割れ物はなかったので一人で運べると思っちゃったんです……。お恥ずかしいところをお見せしてしまいました」
春宮は恥ずかしそうに頬を赤らめ、項垂れている。そんな姿に小さく笑みが溢れた。
「わ、笑わないで欲しいです……」
今度は不服そうに眉頭に浅い皺を作っている。
生真面目な奴かと思っていたが、自分のように何かへ対して面倒だと思う心もあるようだ。
春宮の人間味があるところに触れることができ、嬉しく思った。
(——なんで、どうして……俺は嬉しがってんだ……)
頭に浮かんだ自分では答えの出せない問いに小さく頭を揺らして振り払い、口を開く。
「どこに運ぶんだ? これは」
「四番隊の物品倉庫です」
「俺が持つ」
「え! でもっ、更木隊長もお仕事が……!」
「また転んだらどうすんだ」
「うっ……」
痛いところを突かれた
春宮は困った顔を見せ、申し訳なさそうにしながら俺を上目遣いで見上げた。
「では……お願いしてもよろしいでしょうか?」
「ああ」
その袋も貸せ、という意味で右手を開いて
春宮へ差し出す。
春宮は持っていた白い袋の取手を両手で握り、首を振った。
「全部持っていただくのは申し訳ないです! こちらの袋は私が持つので、更木隊長はそちらの箱をお願いしてもよろしいですか?」
「分かった」
「ありがとうございます」
俺が頷くと
春宮は歩き始めた。
春宮のすぐ隣を並んで歩く。
「……」
いつもの速度で足を進めることができない。理由なんて簡単だ。俺と
春宮では、歩幅がまったく違う。それが原因で不規則な足運びになってしまい、先程の
春宮のように足を絡ませて転んでしまいそうだった。
横目で
春宮の様子を窺う。
春宮が右足を前に出したら、俺も右足を前に。その足が着地したら、俺も着地させる。左足が前に出たら、左足を。そうやって意識しながら歩幅を合わせ、ゆっくり歩く。
後頭部で一つに結われている
春宮の髪が歩を進めるたびに揺れている。歩き方に少し慣れてきた頃に、それを目で追っていると
春宮が俺を見上げた。
春宮の葵色の瞳に俺が映っている。
「更木隊長のおかげで日陰ができて、涼しいです」
目を細めて、にこりと柔らかく笑う
春宮。その笑顔に心臓がどきりと跳ねた。
俺を挟んで
春宮と太陽は対角線に並んでいる。俺が太陽からすっぽりと
春宮を隠しており、
春宮のほうには日陰ができていた。
「あ、ごめんなさい。更木隊長を日除けにしているような言い方になってしまいましたね」
「偶然にもそうなってるしな、構わねえよ」
「暑くないですか?」
「暑くねえよ」
本当は暑い。強い日差しに肌がチリチリと焼け焦げている感覚がある。
でも、今はそう言ったほうが良い気がした。
「これぐらいでへばってたら、外歩けねえだろ」
「ふふっ。それもそうですね」
これも暑さに負け、今朝だらだらと眠っていた俺が言えたことではない。そんなことを知らない
春宮は、俺に同調して笑っていた。そんな
春宮の顔にはうっすらと汗が滲んでいる。自分よりも体が小さく、細く、白い、
春宮のほうがこの暑さにぶっ倒れてしまいそうだ。
春宮は箱を抱えている俺の腕を見つめ、もう一度俺の顔を見上げた。
「更木隊長とこうして並んで歩くのは、初めてなのでなんだか不思議な感覚です」
「同意見だな」
「更木隊長は体が大きくて羨ましいです」
「そうか?」
「はい」
「大体が周りの奴らの体格に合わせて作られてるから意外と不便だぞ」
俺の言葉に
春宮は腕を組んで考える仕草を見せた。
「確かに、そうかもしれないですね。なるほど。体が大きい方は、そういった悩みもあるんですね」
「……まあ。こうやって誰かの日除けになれるなら、体がデケェのも良いかもしれねえな」
俺の言葉を聞いた
春宮は肩を揺らし、くすくすと笑っている。
春宮が作る穏やか過ぎる雰囲気に心を柔くされてしまう。この空気に包まれていると、ずっと胸の中に渦巻いていた苛立ちが何処かへと消えてしまった。
初めは
春宮も他の奴らと同じだろうと思った。自分よりも背も高く、体格もはるかに違う。性別も、霊圧も、筋力も、違う。普通ならば俺はまったく違う生き物に見えてしまうのも当然だ。実際に、その違いを見せつけるような態度を俺は取った。それでも
春宮は、他の奴らのように俺を怖がって逃げ出すことも、距離を取るようなことも、異端者を見るような目を向けることもない。しっかりと俺の姿を映す
春宮の目は、俺の気分をとても心地良くさせる。
「更木隊長を日除けにしているところを見られてしまったら、十一番隊の方々に叱られちゃいますね」
「……想像付いちまうのが鬱陶しいな」
「ふふ。相変わらず、愛されていらっしゃいますね」
また
春宮は平然と愛を語る。前にも愛とやらについていろいろと言われたが、いまいち理解ができない。
「あいつらにギャーギャー言われんのが嫌なら背伸ばして、お前が俺の日除けになることだな」
「……今からでも巻き返せますでしょうか?」
「さァな」
「更木隊長は普段、どんなものを召し上がっていますか?」
「そんなこと聞いてどうすんだ」
「同じものを食べれば更木隊長のように背が伸びるかな、と思いまして……」
「別に変わったもん食っちゃアいねえよ」
じめじめとした夏独特の纏わりつくような暑さは、いつの間にか気にならなくなっていた。
*
四番隊の物品倉庫へ辿り着き、
春宮が戸を開くと中から薬品の匂いが香ってきた。
春宮の後に続き、中へ入ると戸のすぐ近くに長机が置いてあるのが見えた。
「ここで良いのか?」
「はい。あとはそれぞれの保管場所へ補充するだけなので、その机へ置いていただければ大丈夫です」
春宮に確認を取り、抱えていた箱を机の上へ置いた。
「更木隊長、ありがとうございました。助けていただき、とても助かりました」
春宮は柔らかく笑い、頭を深々と下げて俺に礼を告げる。
「あ、ああ……」
頼まれてもいないのに自分自身が率先して誰かのために行動をし、こんなに丁寧に礼を伝えられたことは初めてだった。戸惑いが混ざる返事になってしまう。俺はそれをごまかすように言葉を続けた。
「次からは大道芸みてェな運び方はやめておけよ」
「しょ、承知いたしました……」
茶化すような俺の言葉に眉を下げて困った顔で
春宮は笑った。恥ずかしさからなのか、ほんのり頬が赤く染っている。
「そうだ!」
今度は
春宮がごまかすように手を叩き、声を上げた。
「更木隊長、甘い物は苦手ではないですか?」
何を言い出すのかと思えば、突然味の好みを聞かれた。まっすぐ俺を見つめながら、返答を待ち遠しそうにしている。
甘い物は、苦手ではないが自分から進んでは食べない。やちるに付き合わされて食べる程度だ。
「好んで食べたりはしねえが……嫌いじゃアねえな」
「良かった」
俺の返事を聞くと、
春宮は嬉しそうに手を合わせて笑った。そして、小首を傾げて俺を見上げる。
「少しこちらでお待ちいただけますか?」
「……ああ」
「すぐに戻ってきますので!」
俺が頷いたのを見て、
春宮は足早に部屋から出て行った。
「……」
春宮がいなくなった部屋は、しんと静まり返り、室温も下がったような気がした。手持ち無沙汰だったため、物品倉庫をじっくりと見渡す。壁に沿って、天井に届くぐらいの高い棚が配置されている。その棚には薬品や包帯などの治療に使う物品が綺麗に陳列されていた。
ふと、十一番隊の倉庫が頭に浮かんだ。そこには、普段あまり足を運ばない。やちるのかくれんぼに付き合った際に、覗いたことが数回ある程度だ。自隊の倉庫は掃除が行き届いておらず埃や蜘蛛の巣があり、どんよりとした雰囲気。置いてあるのは、鍛錬や稽古で使う竹刀や木刀。しかも、それは出し入れしやすいように出入り口のすぐ近くに置いてある。奥のほうは、宴会で使った物などのガラクタの山。
隊が違うだけでこんなに景色が違う。自分と
春宮が取り巻く環境は、まったく違うと改めて気付かされてしまった。
「お待たせしました、更木隊長」
春宮が出て行った時と同じように小走りで帰って来た。駆けたことで荒くなった息を深呼吸で整えている。三回ほど深呼吸をして、両手を俺へ差し出した。
「これ、助けていただいたお礼としてなのですが……良かったら受け取ってください」
春宮の手のひらの上には透明な袋に入れられた薄黄色の小さな塊が乗っている。初めて見る物だった。袋は赤い紐で封がされているが、ほんのり甘い香りが漂ってくる。
「……これは何だ?」
「シフォンケーキです」
「し、ふぉ……?」
「焼き菓子です。現世では、おやつとして親しまれているそうですよ」
尸魂界の甘い物と言えば、パッと思い浮かぶのは大福や金平糖だ。そのどれとも似ていない姿をしているそれが現世の食べ物と聞いて納得した。どうりで見たことがないはずだ。
「……」
「私の手作りなので、更木隊長がそういうものに抵抗がなければ良いのですが……」
俺が凝視したまま、
春宮の手から受け取らないため少し不安そうな表情を浮かべていた。次第に差し出された手が俺から引いていってしまう。俺が右手を差し出すと、不安そうな顔はすぐに晴れた。俺の手のひらに焼き菓子が乗せられる。現世の菓子は、まるで綿のように軽かった。少し握って見ると、感触は絹のように柔らかい。
(
春宮の体も軽くて……すごく柔らかかった。──って、何を考えてんだ……俺は……)
なぜかその柔らかさに
春宮を抱き留めた時の記憶が唐突に思い起こされた。女の体だからそんなの当たり前だ。女の体に触れるのは別に初めてではないのに、変に意識してしまっている自分がいた。小さく頭を振って、あらぬ方向へと向き始めている思考を止めた。
「……もらって行く」
「傷みやすいので、今日中に召し上がってください」
「ああ」
春宮は嬉しそうに微笑んだ。その笑みにまた先程の記憶がすぐに呼び起こされ、妙に恥ずかしくなってしまった。悟られないように顔を逸らす。これじゃあまるで女を知らない生息子のようだ。
「じゃあ、俺は帰る……」
「はい。本当にありがとうございました」
とたんに居心地が悪くなってしまい、目を合わせず適当に別れを告げた。
春宮は変わらず、穏やかな口調で再度俺へ礼を告げる。視界の隅で深々と頭を下げている姿が見えた。
春宮が顔を上げる前に背を向け、戸に向かって歩く。背中に視線を感じ、無意識に振り返りそうになった。だが、さらに熱く感じる頬に、俺は振り返らずに倉庫を後にした。
そのまま一度も立ち止まらずに歩き、四番隊の隊舎を出た。真っ直ぐ十一番隊に向かって歩を進める。
「いたいた! 剣ちゃーん!」
春宮から受け取った焼き菓子を眺めながら歩いていると、やちるの声がどこからともなく聞こえた。視線を上げたと同時に右肩が重くなる。
「やちる。お前、どこに行ってたんだ」
右肩から顔を覗かせているやちるのほうへ軽く顔を向ける。
「えへ〜! 内緒! ……あー! それ!」
俺の問いは軽く受け流される。やちるはすぐに俺が手に持っている焼き菓子を見つけると指を差し、嬉々として声を上げた。
「食うか?」
「……ううん。剣ちゃんが食べなよ」
やちるの手が届く位置に持っていくが、首を振って断られる。甘い物を見ると了承を取る前に手を伸ばして真っ先に口に入れてしまうやちるにしては、かなり珍しい態度だった。
「何だ? 腹痛えのか?」
「痛くないよ」
口角をあげて何やら楽しげに笑っている様子からして、嘘ではなさそうだ。
「腹減ってねえのか?」
「もうすぐお昼の時間だからお腹はすいた!」
「じゃあ、これ食えよ」
「食べないの! これは剣ちゃんが食べるの!」
頑なに食べようとしない理由が見つからず、少し不気味だった。
視線を右手の焼き菓子へ戻す。封をするのに使われている紐が、俺の歩みに合わせて揺れている。それのせいか、頭の中に揺れていた
春宮の艶やかな黒髪が思い起こされた。本当に自分はどうかしてしまったらしい。何を見ても
春宮に関連付いてしまう。それもきっと、全部この暑さのせいだ。
一つため息をつき、紐を解く。封が開かれるとふんわりと香ばしくて甘い香りがした。慎重に力を加減しなければ潰してしまいそうなほど柔らかい焼き菓子を袋から取り出し、鼻に近付けて匂いを嗅ぐ。先程よりも強く香る匂いに食欲がそそられた。
一口齧り、咀嚼する。食べやすい適度な甘さで作られており、食べやすい。優しく口に広がる甘みに、胸の辺りが温かく包まれるような感覚があった。この感覚は、前にも味わったことがある。
「剣ちゃん、美味しい?」
「……そうだな」
二口目、三口目と休みなく食べてしまい、あっという間に平らげてしまった。
「良かったね。剣ちゃん」
——全部なくなったから、もう大丈夫。
春宮を思い出して、調子が狂うことはないだろう。焼き菓子がなくなってしまった右手を見つめながらそう思った。
鋭い日差しが相も変わらず俺の肌を焼こうと照り付けているが、胸にひんやりとした小さな消失感のようなものが広がっていく。
それでも、俺は何も気付いてないふりをした。