休憩中に塩大福を摘んでいると伝令神機がピピピと短く鳴った。食べかけだった塩大福を口の中に放りこみ、大福の粉で汚れてしまった指先を手拭いで拭く。伝令神機を取り出し、開いてみると志乃ちゃんから電子書簡が届いていた。
《書類仕事つまんない》
それだけ書いてあった。項垂れている志乃ちゃんが頭に浮かび、つい笑ってしまう。ピピピ、とまた伝令神機が鳴る。
《今日の昼定食なんだろうね?》
届いた電子書籍は、また志乃ちゃんからだった。
《何だろうね? 志乃ちゃんは何が食べたい?》
そう打ち込んで返信を送る。そのタイミングでまた伝令神機が鳴った。着信画面に表示が切り替わり、今度は違う音で鳴り響く伝令神機に驚いてしまい、通話ボタンを反射的に押してしまった。伝令神機の画面には、「ちかちゃん」という文字。慌てて耳に当てると、すぐにちかちゃんの声が聞こえてきた。
『出るの早いね』
「ちょうど伝令神機を触ってて……」
くすくすと笑っているちかちゃんの声に顔がほんのり熱くなってくる。まるでちかちゃんの電話を待ち侘びているみたいだ。正直言うと、いつでも待ち侘びているけど。
『突然電話してごめんね。休憩中?』
「うん。休憩中だよ」
『そっか。良かった』
「どうしたの?」
『
名前と出かけたい場所があってね。来月の休み希望はもう出した?』
ちかちゃんの誘いに手を上げて喜んでしまいそうになった。一緒に出掛けられると思うと、とたんに高揚感に包まれる。
「まだだよ」
『じゃあ、後で連絡するからその日で希望出してもらって良い?』
「うん!」
『元気な声だね』
また、くすくすと笑うちかちゃんの声が聞こえてくる。意識はしていなかったが、声に喜びが出てしまっていたらしい。
『何か良いことでもあった?』
分かっているのに、ずるい。
「うん……とっても良いこと」
わたしがそう言うと、ちかちゃんは「良かったね」と言いながら楽しそうに笑っていた。
「どこに出掛けるの?」
『まだ内緒。泊まりで一泊二日だから準備しておいてね』
「お泊りなの?」
『うん。そうだよ』
「どこにお泊りするの?」
『だから今は内緒だよ』
くすくすと笑い、ちかちゃんは「じゃあまた後で連絡するね」と通話の終わりを告げた。電話を終えても、とくとくと胸が幸せそうに鼓動する。着信履歴にある、ちかちゃんの名前を見ながら頬を緩ませていると、また伝令神機が鳴り響き、着信を知らせた。通話ボタンを押し、伝令神機を耳に当てる。
「もしもし、ちかちゃんどうしたの?」
『残念、弓親さんじゃないよ~』
茶化すような声は志乃ちゃんだった。てっきりちかちゃんが何かを伝え忘れたのかなと、思ってしまい確認もせずに電話に出てしまった。
『
名前、ひどいなあ。返事もくれないし、電話したら弓親さんと間違えるし』
「ご、ごめんね。さっきまでちかちゃんと電話してて……」
志乃ちゃんに謝りつつも、またわたしは嬉々とした声を隠しきれていなかったらしい。志乃ちゃんにも「何か良いことあった?」と聞かれ、わたしはつい先程あったことを頬が熱くなるのを感じながら話し始めた。
*
その後、ちかちゃんから連絡のあった日程で休み希望を提出し、無事に希望通りの休みが取れた。
ちかちゃんと出かけられるなら、どこだって嬉しい。でも、ちかちゃんがわたしと行きたい場所はどこだろうと考えると好奇心が抑えられない。当日がやってくるまでわたしは、まるでなぞなぞのヒントを得るかのように「どんなところに行くの?」「海? それとも山?」「現世?」とちかちゃんを質問攻めにしていた。その結果、分かったことは「海と言うより山」「尸魂界のどこか」ということだけ。
お出かけ当日、ちかちゃんが部屋まで迎えに来てくれた。秋らしい落ち着いた色の着物に身を包んでいるちかちゃんに胸がときめく。わたしの着物はまだ少し夏っぽかったかな、と思っていると「よく似合ってるね。可愛いよ」と優しく微笑まれ余計に心臓が世話しなく鼓動していた。
そわそわしながら、ちかちゃんの隣を歩いていると辿り着いたのは貴族の別荘が多くある地区だった。別荘だけではなく高級な宿も多くあるが、一泊だけでもとんでもない額だった気がする。瀞霊廷通信で特集が組まれていたことがあるが、その時にとんでもない数の数字が並んでいたのをよく覚えている。それは、一般隊士の給与でも席官の給与でも中々払えそうにない額だった。わたしはちかちゃんの手を握って、引き留めた。
「ちかちゃん、あの、この先って……」
「うん?」
優しい声で返事をし、首を傾げるちかちゃん。その仕草にきゅんと胸が疼いたが、甘さに浸ってる場合ではない。
「だから、その、わたしには……とても支払えそうにないから」
わたしが言いたいことを悟ったちかちゃんは、ふき出して笑い始めた。そんなに笑う理由が分からず、ぽかんとしながら眺めていると、ちかちゃんは胸元から一枚の紙を取り出した。
「これ、副隊長から貰ったんだ」
「やちるさんから?」
覗き込むとそこには、“温泉旅行招待券”の文字が書かれてあった。
ようやくなぞなぞの答えが分かった。
「抽選会で同じ温泉旅行の招待券が三枚も当たったんだって。すごい運だよね。それで僕と一角にも一枚ずつ分けてくれてね」
握っていたちかちゃんの手がわたしの手を優しく包み込み、ぎゅっと握られた。
「だから心配しなくて良いよ。ごめんね、黙ってて。
名前の驚いた顔が見たいなあ、って思ってね」
「……期待に添えない顔してたかも」
そう言うと、ちかちゃんは口角を上げて笑った。
わたし、どんな顔してたんだろう。変な顔じゃなければ良いな。
「さあ、行こうか」
「うん」
ちかちゃんに手を引かれ、止めていた足を再び動かした。
*
「わあ……! ちかちゃん、露天風呂があるよ!」
旅館に到着し、女将さんに案内してもらった部屋には個室の露天風呂があった。室内からも露天風呂と紅葉が一望でき、とても美しい景色だった。
「本当だね」
ガラス窓に近付いて、外を覗き込んでいると顔の近くにトンとちかちゃんの手が置かれた。
「折角だから、一緒に入る?」
「……え」
わたしとちかちゃんが一緒に温泉に?
お互いが幼い頃、流魂街で過ごしていた時は川で水浴びを一緒にしたりしているときはあった。でも、成長した今は当たり前だが肌を晒すようなことはなかった。わたしたちは兄妹だから変な意味ではないとは分かっているが、目的地が温泉であることをついさっき知ったため心の準備をしている暇もなかった。事前に知っていれば、「そんなこともあるかな」なんて妄想をしていたけど。
「それとも、ゆっくり一人で入りたい?」
「う、ううん! ちかちゃんがいいなら! 折角だもんね……!」
ちかちゃんは、わたしの頭を撫でると優しい顔で微笑んだ。
「じゃあ、景色が良く見えるうちに入ろうか」
景色が良く見えるということは、お互いもよく見えるというわけで——
ああ、きっと顔真っ赤だ。わたしだけ意識してみたいでますます恥ずかしくなってくる。
ちかちゃんはカラカラとガラス窓を開き、少し冷える秋風に髪の毛を靡かせていた。
*
体を洗う浴室と露天風呂はガラス窓で隔てられていた。
ちかちゃんに「先に入ってて良いよ」と言われ、露天風呂に浸かっていると背後からカラカラと扉が開く音が聞こえてくる。裸足で歩く足音が近づくにつれ、胸の高鳴りは高くなる。
「温泉どう?」
わたしたちしかいないから当たり前だけど、ちかちゃんの声が聞こえ、もう体が壊れてしまうんではないかというほど心臓が暴れていた。
「と、とろとろしてて、気持ち良いよ」
「じゃあ僕も。お邪魔します」
ちゃぽ、と音を立てて、ちかちゃんも少し間をあけてわたしの隣で温泉へと浸かる。個室だから良いかな、と思って巻いたタオルにお湯もにごり湯だから大丈夫だけど、やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしい。
「本当に、いいお湯だね」
正直、一人で入ってちかちゃんを待っている間も一緒に浸かっている今も温泉を楽しむ余裕なんてない。
「景色も美しくて良い眺めだね。こんな良い思いは滅多にできないし、副隊長に何かお礼しないとね」
「そ、そうだね」
俯きながら言葉を返すのに精一杯でいると、ちかちゃんに顔をちらりと顔を覗き込まれる。
「ちゃんと景色眺めないと勿体ないよ」
「う、うん……」
瞼を閉じて、深呼吸。顔を上げ、瞼をゆっくり開くと目の前に広がる真紅に染まった紅葉。秋の風が優しく吹き付け、木から落ちた紅葉が一枚、はらはらと舞いながら湯舟に落ちた。ちかちゃんはそれを指先で拾いあげて、少し見つめた後に小さく声をもらして笑う。紅葉を手に持って、眺めているだけでこんなに絵になる人はいないと思う。おまけに今は濡れた髪を顔にかからないように後ろへすき上げていて、普段より野性的に見える姿はとてもとても心臓に悪い。
ああ、なんでこんなに格好いいんだろう。
わたしを落ち着かせてくれないちかちゃんを今は独り占めできていることが嬉しい。横顔をじっと眺めていると、ちかちゃんは手に持っている紅葉をわたしの頬へ近づけた。目を細めて、優しく微笑む。
「そっくりだね」
「え?」
「真っ赤で、
名前にそっくり」
赤い顔をちかちゃんにからかわれ、今度は違う意味で心臓が落ち着かなくなる。
「お、お風呂に入ってたら誰だって顔赤くなるよ……!」
「あはは! そうだね」
「……ちかちゃんって、わたしのことからかうの好きだよね」
「
名前が可愛いから。つい、ね」
「可愛いって言えば、良いって思ってる……」
「そんなことないよ」
からかわれるのは恥ずかしい。でも、楽しそうに笑ってくれるちかちゃんが嬉しいって言ったら変な子だと思われちゃうかな。
*
「牛鍋、美味しかったね!」
「そうだね。いつもより
名前たくさん食べてたもんね」
「箸が止まらなくて……」
「お腹苦しくない?」
「うん。平気だよ」
夕食を食べた広間から部屋への帰り道。ちかちゃんと言葉を交わしながら歩いていると、ピピピと伝令神機が短く鳴った。電子書籍が届いたらしい。伝令神機を取り出し、差出人を確認する。
「志乃ちゃん?」
「うん! 『弓親さんとの』……」
書かれていた文字を目で追い、読み上げていたがそこから先は声に出すことはできなかった。不思議に思ったちかちゃんが伝令神機を覗き込む。「あっ」と伝令神機の画面を隠したが間に合わなかった。
そこに書いてあるのは、《弓親さんとのデート、楽しんでる? 行き先、どこだった?》という言葉。ちかちゃんと出かけることになったと伝えると何度も「デート」と言われ、その度に訂正していたのだが、ここでちかちゃん本人に伝わってしまうとは思わなかった。
「これは、志乃ちゃんが勝手に……!」
ちかちゃんは口角を上げ、少し悪戯な顔で笑った。
「どう? 僕とのデートは楽しい?」
「これは違うの……!」
「違うの? 僕もデートだって思ってたけど」
返事に困っているわたしを見て、ちかちゃんはまた楽しそうに笑う。その笑顔は一角さんや他の人にも見せる笑顔ではない、きっとわたしだけしか知らない笑顔。からかわれても、この笑顔をみたら何も言えなくなってしまう。
「楽しくなかった?」
もう一度問われ、わたしは首を振る。
「とっても楽しいよ」
「良かった。志乃ちゃんにさっき撮ってた牛鍋の写真送ってあげたら? そのために撮ってたんでしょ?」
「うん」
ちかちゃんは、何も言わなくてもお見通しだ。そんなにわたしは、分かりやすいのだろうか。わたしはちかちゃんが考えてることは何もわからないのに。今日の目的地だって全然当てられなかったし。
そんなことを考えながら、自分の隣を歩いているちかちゃんを横目でじっと見つめていると目が合ってしまった。慌てて目を逸らし、志乃ちゃんに写真を送るために伝令神機を操作すると笑い声がまた聞こえてくる。
《温泉だったよ。とっても楽しいよ。夕飯は牛鍋でした》と打ち込み、ちかちゃんがこちらを見ていないのを確認してから《志乃ちゃんのバカ! デートじゃないって言ったのに! さっきの文章、ちかちゃんに見られたんだからね!》と添えて送信した。
部屋に戻ると、白い布団が二つ並んで敷かれてあった。その布団を見ていると、楽しかった一日がもう終わってしまうのだと寂しくなってくる。寝てしまえば、明日は帰る日。今日は心の距離もいつもより近く感じていたせいか、終わってしまうのが悲しかった。
「一緒にお風呂にも入ったし、今日は一緒の布団で寝ようか」
そんな寂しさにちかちゃんは気付いたのか、からかうような表情ではなかった。
「うん……」
頷くと優しく撫でてくれるちかちゃんは、我慢していた涙が自然と頬を伝ってしまうような優しい笑顔をしていた。
*
しっかりわたしたちが休めるように綺麗に布団を敷いてくれたのに、一つ使わないのは申し訳なさがあった。でも布団に寝転んだちかちゃんが掛け布団を捲って、「どうぞ」と言われるともうそんな考えはどこかへと言ってしまった。
「お邪魔します……」
本来なら、一人用の布団に大人二人が入るのは少し無茶だったかもしれない。
「昔は二人で丁度良かったけど、今はちょっと狭いね」
「……やっぱり一人で寝ようかな」
「大丈夫だよ。もうちょっとこっちおいで?」
ちかちゃんの腕が背に回り、腕の中に引き寄せられる。
「ほらね、これで大丈夫」
「うん……」
先程よりちかちゃんのぬくもりを深く感じた。こうして、ちかちゃんのぬくもりを感じながら寝るのは久しぶりだった。小さいときは暗闇が怖くて、蝋燭の灯がないと眠れないわたしが眠るまで優しく抱き締めてくれていた。
「ちかちゃん、おやすみ」
「うん。おやすみ」
やっぱり、こうしてちかちゃんと一緒に眠るのは何よりも幸せに感じた。
終