まだ日が緩やかに落ちる季節ではあるが、残業で閉じこもっていた執務室の戸を開くと辺りはすっかり暗闇に包まれていた。
「お疲れさまでしたー!」
「お疲れさま」
「お疲れー」
一緒に残業を乗り越えたみんなへ言葉を贈ると、口々に同じ言葉が返ってくる。
「
名前、ありがとね! 助かったわ。今度何か奢るから。気を付けて帰りなさいよ」
「はい。お疲れ様でした」
松本副隊長は口を大きく開いてわたしの名前を呼び、手を振っている。わたしはそれに小さく頭を下げて、執務室を後にして帰路についた。
夜道を歩くたびに疲労感がどっと押し寄せてくる。やっと帰れるのに足取りが重い。
「はあ……」
無意識に溢れたため息が夜の静寂へ溶けていく。
(今日は、疲れたなあ……)
松本副隊長が隠し持っていた期限間近の書類を日番谷隊長が午後のおやつ時に発見した。今日中に仕上げるように、と日番谷隊長に叱られた松本副隊長に助けを求められて、断ることができなかった。
松本副隊長がちゃんと書類業務を管理していれば、しなくて良かった残業。"疲れ"を作った張本人だけど──
(憎めないんだよね……)
いつも明るくて頼りになって、お姉さんのような松本副隊長。面倒みは良いが、仕事のことになると少し怠惰なところもある。だが、そこも松本副隊長の愛嬌。
そう思うけど、疲労感は消えやしない。
でも自分から手伝った以上、文句は言えない。
(今日は、お風呂にゆっくり浸かろ……)
一つ深呼吸をして、気持ちを下げないために俯いていた顔を上げると綺麗に輝く月が目に映った。
気が付かなかったが、そういえば灯がなくとも歩けるほど足元は明るく照らされていた。
頭上に輝く月に気付けば、それまで聞こえなかった虫たちの声も聞こえてくる。リリリリ、と鈴を転がすように歌っている。
月の光が静かに揺れるその下で、ふいにある人の笑顔が脳裏に浮かんだ。
「……」
わたしは踵を返し、自室とは反対方向へと歩き始めた。
*
わたしが向かったのは、ちかちゃんの部屋。
闇夜に浮かぶ綺麗な月を見ていると、ちかちゃんと一緒に同じ月を見たくなったのだ。
(ちかちゃん、いるかな?)
こっそりと部屋の明かりを窺うが、すでに真っ暗だった。部屋の中から霊圧は感じない。どこかに出かけているらしい。
期待感に胸を膨らませていた分、気持ちが深く沈んでしまう。特に約束をしていたわけではないのに。
(先に電話すれば良かったかな……)
諦めて、自室に帰ろう。
「……はあ」
寂しい。なんて、言うことが許されるのかは分からないけど、会えないと思うと余計疲れが増した気がした。
「僕に何か用だった?」
突然聞こえてきた声に肩がびくりと大きく跳ねた。慌てて振り返ると、そこにはちかちゃんの姿。
「ちっ、ちかちゃん……! びっくりした! 全然、分かんなかった……!」
「うん。
名前の霊圧が僕の家の前にあるのが分かったから、ちょっと気配を消してここまで来てみた」
目を少しだけ細め、左側の口角だけ上げて笑っているちかちゃん。
「それで、僕に何か用だった?」
にこりと笑い、わたしの返答を待っている。いつものように優しい顔だけど、すこし悪戯な表情にも見えた。
「あ、えっと、月が綺麗だったから……ちかちゃんとお散歩したいな、と思って……」
「お散歩?」
「うん」
ちかちゃんは顎に手を当て、斜め上を見ながら「うーん」と小さく唸っている。なんだか居心地が悪くなり、俯いて指先をいじった。
「僕、さっきまで月を眺めてたんだよね」
「……そ、そうだよね」
ちかちゃんからはそれ以上の言葉はなかった。ぎゅっと心臓が締め付けられるように痛くなってくる。
わたしは本当に自分勝手だ。勝手に期待して、勝手に傷付いて。
「じゃ、じゃあ……おやすみ、ちかちゃん」
ここに立ち尽くしたままでは、ちかちゃんも困ってしまう。急いでここから去ろうと足を動かそうとした時に、目の前にちかちゃんの手のひらが広がった。驚いてしまい、また肩を大きく跳ねるとちかちゃんの笑い声が聞こえてくる。
「ごめん、ごめん。
名前が可愛かったから、意地悪しすぎちゃった。ごめんね」
俯いていた顔を上げるとちかちゃんは優しい顔をしていた。片方の手でわたしの頭を撫でる。じわり、と目に涙が滲みそうになった。一度、ぎゅっと目を閉じてそれを払い除け、差し出されているちかちゃんの手のひらに自分の手を重ねる。
「美しい月は、何度見たって飽きないからね。それに、誰と見るかでその美しさも変わるものだよ」
ちかちゃんはわたしの手を拒むことなく、ぎゅっと優しく握りこんだ。
「僕も
名前と見たいって思ってたよ」
「……ありがとう、ちかちゃん」
例え嘘だとしても、情けだとしても、その言葉が嬉しかった。
*
ちかちゃんと手を繋ぎ、夜空を見上げながらゆっくり夜道を歩く。
「月、綺麗だね」
「今日は十五夜だからね」
「そうだったんだ!」
「知らずに月見の誘いに来たの?」
「う、うん……そうです……」
わたしの言葉を聞いた、ちかちゃんは小さく声をもらしながら笑っていた。
「
名前は、かわいいね」
その言葉に心臓がスキップするように跳ね始める。もう痛みはなかった。
ちかちゃんの一言にショックを受けたり、ドキドキしたり、わたしは本当に単純だ。
「じゃあ、月見らしいものはまだ何も食べてないんじゃない?」
月見らしいもの、どころか晩御飯はまだ何も食べていない。残業中に松本副隊長からお煎餅や大福をもらったが、もうすっかりお腹は空っぽ。でも、本当の事を言ってしまえば心配させてしまう気がしたからそれは心の奥へしまった。
わたしが頷くと、ちかちゃんは前を指差した。そこには、甘味屋さん。今の時間であれば通常は店仕舞しているはずだが、まだ明かりがついており、営業中の立て看板も店の外へ出ていた。
「こんな時間までやってるんだ!」
「十五夜だから今日は特別らしいよ。僕もまだそれらしい物を食べてないから、一緒に食べようか」
「うんっ」
手を繋いだまま並んで歩き、暖かな光をともしている甘味屋さんへ向かった。
「わあ~……美味しそうだね」
お店には色々な種類の美味しそうなお団子が並んでおり、それを見ているとお腹がグウっと声を上げる。
「……!」
慌てて、お腹を引っ込める。宥めるようにお腹に手を当てるがわたしの焦りなんかまったく伝わらず、今度はクウッと小さく鳴いてしまう。ちかちゃんの視線を感じ、熱が顔に集まってくる。
「ふふっ。見てるとお腹すいちゃった?」
「う、うん……」
店員さんにも聞こえてしまったようで微笑まれた。
ああ、恥ずかしい。ますます顔が熱くなっていく。
「じゃあ……これとこれ、二串ずつお団子ください」
ちかちゃんは店員さんにお月見団子として売り出されているみたらし団子と二色団子を指差し、注文した。
「ちかちゃんも二串食べるの?」
「そうだよ」
「いいの?」
「何が?」
ちかちゃんは小さく顔を傾けると、さらっと細い髪が揺れる。
「ちかちゃん、夜八時以降基本は食べないようにしてるって」
「よく知ってるね。
名前に話したことあったかな?」
「瀞霊廷通信の後記に書いてあったから……」
「"基本"だからね。今日は、"特別"」
お団子を食べるのも、二串注文したのも、わたしに合わせてくれているのだろう。申し訳なさもあるけど、ちかちゃんの気遣いがどうしようもなく嬉しかった。
店員さんに「おまちどうさま」と二串ずつ乗せられたお皿二つを手渡される。お皿には、みたらし団子と二色団子がそれぞれ乗っている。二色団子は、てっぺんに黄色いお団子とその下に白いお団子が二つある。黄色いお団子の中は白餡で、白いお団子はこし餡らしい。そしてその傍には、うさぎを模した小さなお団子。「サービスです」と店員さんが言っていた。
それを持って、わたしたちは店の外に置いてある縁台へ座った。
「うさぎのお団子、かわいいね」
「そうだね」
ちかちゃんを散歩に誘いに来ようと思った時はそこまで深く考えてはいなかったが、十五夜という特別な日に特別な物を自分にとって特別な人と食べられることを実感し、幸せな気持ちがこみ上げてきた。空でわたしたちを見下ろしている大きくて綺麗な月がますます美しく見えてくる。
ちらり、とちかちゃんの様子を窺うとちかちゃんもわたしと同じように月に目を奪われていた。
「月が綺麗だね」
隣にいるわたしへ向けて言ってくれている言葉なはずなのに、ちかちゃんは月よりも遠くを見つめている。心はここにないように感じる横顔に別の誰かへ向けている言葉に聞こえてしまった。
「……そうだね」
ちかちゃんは、本当は誰と月が見たかったのだろうか。
ちかちゃんが他の誰かに想いを馳せていることを知りながら、それでもわたしはこの時間を一緒に過ごしたかった。たとえ、わたしへ向けてくれる優しさが、その人の代わりだったとしても。
考えなければ良いことを考えてしまい、わたしの胸はまたチクチクと泣き始める。
「ねえ、ちかちゃん」
「うん?」
「本当に月が綺麗だね」
「……
名前がそう見せてくれてるのかな」
「そうだと、いいな……」
それでも、名前を呼ぶと優しい瞳で見つめてくれて微笑んでくれるあなたのことがわたしは大好きなの。
終