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げんしん

 ふと、意識が浮上するのを感じた。心地よい眠りのふちからゆっくりと引き上げられるような感覚に抗うように寝返りを打つも、生来眠りからさめやすい意識はあっさりと目覚めてしまい、目を開く前に淡く嘆息した。寝起きが良いというのは、世間一般から見ればよいことなのだろう。けれど、綾人のそれは眠りの浅さの証明のようなものだった。それでいて寝つきも悪いのだから、睡眠が下手だと言われても仕方がない。よく言われるような、二度寝に微睡むという体験もほとんどしたことがなく、綾人にとって覚醒は一日の仕事の始まりに過ぎないのだ。それが嫌だと感じることこそないが、どうにも、起き上がりたくないなという灰色の感情は僅かに胸の底を重くする。特に今日のように、ベッドに一人でいるような朝は。
「……トーマ、」
 はあ、ともう一度息を吐いて、ようやく目を開いた。広くも狭くもない寝室の窓からは、穏やかな朝日が差し込んでいる。シーツには抱き合って眠ったはずの彼の残り香が微かにあるばかりで、つまらないなと身体を起こした。ドアの向こう、ふんわりと漂う味噌の香りは彼の仕込む朝食のそれだろう。綾人より遅く寝入ったはずであるのに、彼より早く起きだして食事や服の用意までしてくれている彼の奉仕ぶりには頭が下がる思いである。以前までのような雇用関係ではないというのに、綾人の真っ当な生活を守ってくれているのは、トーマのその心配りだ。誰よりも綾人自身がそのことを理解して、日々感謝の気持ちを新たにしている。
 けれども、それはそれとして。
 やはり、ひとりで目覚める朝の寒々しさは、いただけなかった。

「あ、綾人さん、おはようございます! 今日は……って、んっ、あの、ちょっと……!」
 用意されていたルームウェアを身に纏い、適当に洗面を終えリビングに向かうと、やはりすでに朝食の用意は済んでいた。きらきらと眩い金の髪が差し込む朝日を反射していて、思わず目を細めてしまう。太陽そのもののような笑顔も、同じくらいまぶしい。今日もかわいいな、と浮かんだ思いに身を任せて、ご飯をよそう彼の顎を指先で浚う。挨拶を返すよりも先に、まずは彼の唇を奪い、何やら文句を言おうとする口内にするりと舌先を潜り込ませた。
「っ、ン、ゃ、とさ……ッ」
「ふ、っ……」
 同じ歯磨き粉の味がするなあ、とか。やっぱりトーマの口は少しおおきい気がする、とか。ぼんやりと考え事をしている間に水音が少しだけ大きくなる。おや、と思う間もなく腰を抱き寄せられ、後頭部をぐっと支えるように手を添えられた。ちゅ、じゅる、と朝から響かせるにはいささか淫靡な音に彼の本気を察して、綾人はうっすらと瞳を開いた。
「ぁ、は……!」
 じい、と綾人の目を射抜く、鮮やかな翡翠色。口づけた瞬間からずっと綾人のことを見つめていたのだろう瞳は、驚きをとっくに通り越して、燃えるような炎を宿しているようにすら見えた。焼け付くような想いが、真っすぐに注がれているのだと、言葉などなくとも実感できるほどに熱く、深い、欲。それを知らしめるように口づけは深くなる一方で、いつの間にか綾人の口内には彼のぶあつい舌が攻め込んできていたし、決して逃げられないよう腰も頭も抑えられているような強さで身を寄せられていた。
「ふ、ぅ……ん、ン……~~ッ」
 すでに綾人の息は上がってしまって、こく、こく、とトーマの唾液を呑み込みながら必死に足を踏ん張っているような状態だ。上あごをやさしく舐められ、舌を吸いだされたうえで弄られれば、腰すらかくりと力が抜けそうになる。朝から交わすには情熱的過ぎる口づけの嵐に翻弄されるまま、閉じることを忘れた瞳をぼんやりと蕩けさせていくことしかできない。息が苦しい、けれどそれがきもちいい。顎がしびれて力が入らない。引っ張り出された舌を仕舞うこともできず、トーマが満足するまで、綾人はただただ口づけに溺れさせられていた。
「は、ぁっ……は、ッ……」
 何分が経ったのだろうか、ようやく口づけをほどいたときには、綾人の身体はくったりとトーマに凭れてしまっていたし、たらりと口の端から垂れた舌先は力なく、とろぉ……とふたりの唾液が垂れ落ちるままになってしまっていた。それを再度軽く口づけ吸い上げたトーマは、舌先も口内に押し込んでくれる。けれど、そのささやかな――先ほどまで交わしていたそれに比べれば児戯にも等しい刺激にさえ、ひくりと喉が震えてしまう。
 その様があんまりにも滑稽だったのか、ぴたりと身体をくっつけあって、上がった息を整える綾人の背中をゆっくりと撫でていたトーマは、僅かな呆れに愛おしさを混ぜ込んだ甘ったるい声で小さく笑った。
「綾人さん、ほら、ちゃんと挨拶しましょう」
「ん……お、はよう」
「はい、おはようございます」
 うれしそうに耳元に口づけが落ちる。ちゅ、と鳴らされるリップ音は可愛いけれど、にこにこと笑いながら追加で耳朶を甘噛みしていく男は可愛くない。かわいくはないのだけれど、そういうところも、どうしたって愛おしいのだ。ぜんぶ分かっているから、この年下の男はどんどんと可愛くなくなっていくし、それを許してしまう綾人は、もうどうしようもなく彼に恋をしていた。
「急にどうしたんですか、びっくりしましたよ」
「ぁ、っ……挨拶、だよ、これも」
 吐息がかかる距離で囁きかけられれば、当然のごとく綾人の肩がぶるりと震える。耳孔に吹き込まれる吐息が緩やかな熱を生み、それがぞわぞわと背筋を伝っておりてゆくのが分かって、よくないと小さく首を振った。それをまた笑った男が、今度は頬に、こめかみにと順々にくちびるで触れてゆく。ご機嫌斜めな恋人を宥める意図はあけすけで、分かりやすすぎて、こころがいともたやすく解かれそうになる。好きで好きで仕方ないと言わんばかりにやさしく触れられて、口づけられて、それでも臍をまげて居続けられるほど綾人は頑なではなかったし、正直なところ、目覚めた瞬間の胸の底の凝りは先ほどの口づけのさなかにあっという間に溶けて消えてしまっていたのだ。ちょっとした悪戯のつもりが何倍にもなって仕返しをされてしまったような気がして、流石にその愚かすぎる考えから目をそらすようにトーマの頬へ口づけを返す。
 驚いたようにぱちりと瞬いた瞳が、次いではにかむように蕩ける様を真正面から見せつけられて、綾人は、いよいよもって正直に笑うことにした。愛おしさを堪えるのも、拗ねたふりをするのも、もう限界だった。さみしさなど吹き飛んで、いとしさばかりがあたたかく胸を満たしている。さながら魔法のように、あっという間に彼の灯す火がこころを暖めていた。
「あのね、トーマ。……今日も、好きだよ」
 ひそり、耳打ちするように告げれば抱きしめる腕はますます強くなる。トーマはそのまま、ぐりぐりと首筋に頭を押し付けるように懐いて、ついでに首筋や耳裏に唇をくっつけては小さく吸い付く。それからぱっと持ち上げられた顔は見事に赤く染まっていて、その素直さにまた恋心が熱くなった。こんこんと湧き出るその想いは尽きることなく、手足の先までたっぷりと満ちていくような心地さえした。かわいい、いとしい――そのひとことには到底収まらないほど、おおきくて、あたたかな気持ち。トーマだけが与えてくれる、おしえてくれるもの。その気持ちに突き動かされるまま彼の背中に腕を回せば、ますます顔を赤らめくしゃりと笑み崩れた男はそっと綾人の唇を奪った。
「オレも、大好きです」
 じゃれつくように、下唇を食みあう。ちょんと舌先をくっつけて、少しだけ絡めてみて。唇のうすい皮膚同士をくっつけて笑う。子ども同士がするような幼いそれは先ほどまでのどろりと深い情欲に満ちた口づけとはまた違って、ふんわりとした快さを与えてくれる。たかだか口同士を合わせるだけの行為がどうしてこんなにも気持ちよくて、幸せなのか。答えを探す必要すらない問いかけに意味はなく。綾人はどこか甘い吐息をひとつ零し、そろそろ朝食にしようと言いたげな男の唇に、もう一度だけと口づけを贈った。
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