げんしん
ちか、ちか、と数度瞬いて視界が元の色を取り戻す。真っ白に焼けた思考がゆっくりと落ち着きを取り戻し、未だ荒い息を零すだけの身体の隅々にまで意識を巡らせていくのが分かる。絶頂の余韻に震える肌をぺたりとくっつけあって、おなじ体温を分け合う時間は好きだ。けれど、その直前の、快楽によって何もかもが塗りつぶされる瞬間だけは、何度身体を重ねても好きになれないなと鈍いながらも動き出した脳の片隅で呟く。己が己であれない、自己をコントロールできないということは、綾人にとってひどく恐ろしいものなのだ。何もかもをこの手で操りたいというほどのものではないが、少なくとも、自分自身の感情やこころの動きくらいは把握しておきたい。そういった七面倒な己の性を綾人は自覚していたし、それを彼との情交のために無視することも構わないと思っていた。
はふ、と未だ熱持つ息を吐いて、背後から綾人を押さえつけていた体躯がゆっくりと動く。今日は綾人の希望で、獣のように四つん這いになった綾人を背後からトーマが犯すという体位で身体を重ねていた。とはいえ、途中からは快楽に力が抜けきり、ほとんどうつぶせに横たわるだけになってしまった綾人の四肢は床に縫いつけられ、一切逃げることができずに身体を貪られたのだが。
ずるりとトーマのそれが抜け出ていく感覚に、ぞわぞわと腹の奥が蠢きそうになる。数度極めたとはいえ、体力も十分の若い身体にはいとも容易く熱がともってしまうだろう。今宵はここまでだとお互いに分かっていたから、熾火を掻き起さないよう細心の注意を払っているのが伝わってきて、くふくふと笑みがこぼれてしまう。そういう律儀なところが可愛くて仕方ない。その振動が伝わったのか、トーマは困ったように「若、」と声をかけてくるが、その声音だって砂糖より甘いのだからお相子だ。隠すことなく笑みを浮かべたままで、背後を振り向く。
「トーマは可愛いね」
「……どこをどう見たらそうなるんですか」
「どこもかしこも、だよ」
大方、ぺしゃりと褥に押しつぶされた綾人を犯し続けたことで、自身の理性のなさだとか、そういった点を内省しているのだろうけれど。それだって綾人が許したのだから、責められるべきはきちんと「待て」をしなかった綾人の側だろう。そうやって自省し続けられる誠実さや生真面目さが彼の美徳でもあるので、無理に言い聞かせることこそしないけれど。綾人の意思でもあることは、今夜もきちんと言葉にしておかなければならない。
「私が望んだことだから、いちいち気にしなくてもいいんだよ」
「それでも……オレは、気にします。若の分まで」
もう何度目か、数えるのも飽いたほど繰り返したやり取りは今回も変わりなく。何とはなしに視線を合わせてお互いに吹き出してしまう。分かっていて、分かられていて、それでも貫くのならそれもまたよし。己に従わせるためにトーマを愛しているわけではないし、トーマもまた、唯々諾々と綾人に従うだけの存在ではない。だから、このやりとりはここまで。あとは寝るための準備をして、朝までの短い時間を、甘い語らいと休息に宛がうだけだ。もちろん、彼の腕の中で。
「お身体を拭きますから、あまり動かないでくださいね」
「よろしく頼むよ」
「お任せください」
炎の元素が温めた湯に手ぬぐいを浸し、彼の手が綾人の体中を慰撫していく。汗も精も涙も涎も、べったりと肌を汚していたものがぬぐい取られていく感覚は、性交の快楽とは違ってとろとろと弱火で煮こまれているような心地になる。全身をくまなく愛されて、大事に大事に扱われている感覚は、何度繰り返しても胸の底をじんわりと温めてくれた。それくらいは自分で、と思わなくもないが、トーマの「綺麗に整えたい」性格は綾人の身体のことにまで及んでいるらしく、以前綾人が自力で身体を清めたところ物凄く物足りないような顔をされてしまったので、今となっては綾人もされるがままでいる。奇特な趣味だと思わないでもない。けれど、この肌に触れ綾人の全身を愛でるトーマの手つきは余りにも心地よく、翡翠の瞳が幸福に蕩ける様を見てしまえば、それをわざわざ諫めることもできず。結局はこうしてされるがままになっている。それもまた、受け入れて許すという綾人の愛であるし、綾人を己の望むように整えたいというトーマの数少ない欲であるから。
それに、と休みなく手を動かす忠実な家司に気づかれぬよう、綾人は静かに目を伏せた。この赦しが、そのような分かりやすい理由だけであったら、どんなによかっただろうか。
(背中――腰、臀部、太腿に降りて……ああ、来た)
暖かい布が汗を拭って、その後で。当たり前のように、柔らかな感触がひとつ、ふたつ。綾人に伺いをたてるでもなく、何か意図を込めるでもなく、トーマの唇はごく当たり前に綾人の肌に触れる。正しくは――そこにうっすらと残された、かつての刺客による手傷に。
脚も、腹も、胸にも。二の腕や、細かいものまで含めれば左の耳朶にまで。何度となく様々な刺客による奇襲を受け、全てを退けてきた綾人の身体には、いくつもの傷跡が残されている。それらはすべて完全にふさがっており、常にはほとんど見えないほど薄まってはきているものだ。綾人自身すら日頃は忘れてしまっているものもいくつかある。
しかし、もともと肌が薄いからか、体温が上がり発汗するようなときにはその傷が浮き上がって見えてしまうらしい。それに気づいてから、綾人は他人の前で肌を晒すようなことをできる限り回避するようになった。この傷は綾人の油断や未熟さの証明でもあるし、それらを見てしまった相手が心を痛めないとは限らない。特に妹や、綾人を大事にしているこの家に仕えるものたちにだけは見せられないと気を付けてきた。入浴や息が切れるほどの運動――鍛錬なども、なるべく他者の目のないところで行うようにと心がけてきたのだ。
とはいえ、体温が上昇し、鼓動が早くなり、汗をかく――それは勿論、こういった性行為でも同様であるので。肌を重ね、絶頂を繰り返すうちに自然と肌に浮かび上がるその傷跡を、綾人自身は気にしてすらいなかったが、そうはいかないのがこのトーマという男である。
(痛くも痒くもない、と言っても、関係はないのでしょうね)
いつからそうであったのかは綾人も覚えてはいない。ただ、こうして行為が終わったあと、彼の手に身をゆだねるのが当たり前になったころに、不意に気付いた。肌に触れる、唇の感触。羽根が触れるような微かなそれを、初めこそもう一度のお誘いかと思い誘惑をし返してみたこともあった。けれど、それは間違いだった。彼は、綾人に何かを伝えるためにそれをしているわけではない。
(まったく、難儀なこと)
綾人に対する何の意図もなく、誘蛾灯に惹かれる虫たちのように当たり前の様子で口づけを落としていくトーマ。それがさらなる愛欲の誘いで在ったほうがまだよかった。常には見えない、全身に刻まれた傷跡のすべてに口づけていく、だなんて。何とも熱烈で、偏執的な、愛の表出だろうか。あるいは、独占欲とも呼べるかもしれない。もしくは、信仰とも。
彼自身がそこまで気づいているのかは分からないが、その傷跡を見つめるとき、常には眩いひかりを宿す翡翠の瞳にほの暗い焔が揺れていることにだって、綾人はとうに気づいている。そうして、それが、綾人を罵倒し嗤う政敵らに向けるそれによく似た色をしていることにも。
そういうときのトーマの瞳には、怒りよりも侮蔑や憎悪の強いような昏い感情と、そしてそれを上回る綾人への忠節と独占欲とが、彼の身の内に宿る元素と結びついて炎のように揺らめくのだ。鮮やかな朱金の炎は思わず息を呑むほど美しいのだけれど、トーマ自身すらも燃やし尽くしてしまうのではないかと少しばかり不安になってしまう。
彼に似合うのは、やはり陽の光と風の匂いだ。太陽の色をした灯火で果てしない夜闇を照らす強さこそが、彼のもっとも愛されるべき美徳なのだから。百人の人間に聞けば全員がきっとそう答えるだろうという確信すらあった。それほどまでに、彼の熱は、陽だまりのような明るさは、綾人の生涯において唯一無二のものなのだから。
そう思うことができるのは、神里家当主の綾人と、トーマの家族であり友人としての心だ。
そうして、その焔を――彼に似合わぬ薄暗く重たい欲の発露を、どうしても愛おしく感じてしまうのは、情を交わし恋をするただの綾人の心だった。
(……私にとっても、これは、難儀でしかない)
二の腕の傷に口づけが降る。そのまま、あとは耳朶に吸い付いて今宵もこの儀式は終わりを迎えるだろう。綾人の肌に残る他人の痕跡を、執拗なまでに上書きしようとするような口づけが。綾人の全身を己の欲望のままに整え終えて、その成果に満足したトーマは、あの朗らかな笑顔で綾人をそっと抱きしめるに違いない。そのどちらも、綾人にとってはどこまでも愛おしい、トーマという人間の一面だった。
だからこそ、今夜もその手のひらと唇を受け入れる。温かな情も、絡みつく執着も、そのどちらをも手放せなくて、眩暈がするほどいとおしいから。
決して誰にも――トーマ自身にすらも悟らせるつもりはない言葉を肌の下に押し隠して、綾人は、ただ静かに藍紫の瞳を瞼に仕舞う。四肢の力はとっくに抜けきって、あとはトーマの満足をまつばかりだった。その腕の中で意識を溶かして眠りに落ちていく幸福を今夜もまた味わうことができるのだと思えば、自然と唇が緩んでしまう。
「若、終わりましたよ。……さあ、どうぞ」
差し伸べられた腕は今夜も変わりなく、この世のどこよりも綾人を蕩けさせる熱に満ちていた。
とうてい口には出せないその歪んだ悦びを肌の下にすべて押し隠して、今日も素知らぬ顔をする綾人だって、とっくに恋に溺れているのだ。道を過つほどの余裕さえないまま、まっすぐに、ふたりで。
それでも、トーマを求めることを辞められないのだから、あるいは綾人の方が重傷なのかもしれなかった。
はふ、と未だ熱持つ息を吐いて、背後から綾人を押さえつけていた体躯がゆっくりと動く。今日は綾人の希望で、獣のように四つん這いになった綾人を背後からトーマが犯すという体位で身体を重ねていた。とはいえ、途中からは快楽に力が抜けきり、ほとんどうつぶせに横たわるだけになってしまった綾人の四肢は床に縫いつけられ、一切逃げることができずに身体を貪られたのだが。
ずるりとトーマのそれが抜け出ていく感覚に、ぞわぞわと腹の奥が蠢きそうになる。数度極めたとはいえ、体力も十分の若い身体にはいとも容易く熱がともってしまうだろう。今宵はここまでだとお互いに分かっていたから、熾火を掻き起さないよう細心の注意を払っているのが伝わってきて、くふくふと笑みがこぼれてしまう。そういう律儀なところが可愛くて仕方ない。その振動が伝わったのか、トーマは困ったように「若、」と声をかけてくるが、その声音だって砂糖より甘いのだからお相子だ。隠すことなく笑みを浮かべたままで、背後を振り向く。
「トーマは可愛いね」
「……どこをどう見たらそうなるんですか」
「どこもかしこも、だよ」
大方、ぺしゃりと褥に押しつぶされた綾人を犯し続けたことで、自身の理性のなさだとか、そういった点を内省しているのだろうけれど。それだって綾人が許したのだから、責められるべきはきちんと「待て」をしなかった綾人の側だろう。そうやって自省し続けられる誠実さや生真面目さが彼の美徳でもあるので、無理に言い聞かせることこそしないけれど。綾人の意思でもあることは、今夜もきちんと言葉にしておかなければならない。
「私が望んだことだから、いちいち気にしなくてもいいんだよ」
「それでも……オレは、気にします。若の分まで」
もう何度目か、数えるのも飽いたほど繰り返したやり取りは今回も変わりなく。何とはなしに視線を合わせてお互いに吹き出してしまう。分かっていて、分かられていて、それでも貫くのならそれもまたよし。己に従わせるためにトーマを愛しているわけではないし、トーマもまた、唯々諾々と綾人に従うだけの存在ではない。だから、このやりとりはここまで。あとは寝るための準備をして、朝までの短い時間を、甘い語らいと休息に宛がうだけだ。もちろん、彼の腕の中で。
「お身体を拭きますから、あまり動かないでくださいね」
「よろしく頼むよ」
「お任せください」
炎の元素が温めた湯に手ぬぐいを浸し、彼の手が綾人の体中を慰撫していく。汗も精も涙も涎も、べったりと肌を汚していたものがぬぐい取られていく感覚は、性交の快楽とは違ってとろとろと弱火で煮こまれているような心地になる。全身をくまなく愛されて、大事に大事に扱われている感覚は、何度繰り返しても胸の底をじんわりと温めてくれた。それくらいは自分で、と思わなくもないが、トーマの「綺麗に整えたい」性格は綾人の身体のことにまで及んでいるらしく、以前綾人が自力で身体を清めたところ物凄く物足りないような顔をされてしまったので、今となっては綾人もされるがままでいる。奇特な趣味だと思わないでもない。けれど、この肌に触れ綾人の全身を愛でるトーマの手つきは余りにも心地よく、翡翠の瞳が幸福に蕩ける様を見てしまえば、それをわざわざ諫めることもできず。結局はこうしてされるがままになっている。それもまた、受け入れて許すという綾人の愛であるし、綾人を己の望むように整えたいというトーマの数少ない欲であるから。
それに、と休みなく手を動かす忠実な家司に気づかれぬよう、綾人は静かに目を伏せた。この赦しが、そのような分かりやすい理由だけであったら、どんなによかっただろうか。
(背中――腰、臀部、太腿に降りて……ああ、来た)
暖かい布が汗を拭って、その後で。当たり前のように、柔らかな感触がひとつ、ふたつ。綾人に伺いをたてるでもなく、何か意図を込めるでもなく、トーマの唇はごく当たり前に綾人の肌に触れる。正しくは――そこにうっすらと残された、かつての刺客による手傷に。
脚も、腹も、胸にも。二の腕や、細かいものまで含めれば左の耳朶にまで。何度となく様々な刺客による奇襲を受け、全てを退けてきた綾人の身体には、いくつもの傷跡が残されている。それらはすべて完全にふさがっており、常にはほとんど見えないほど薄まってはきているものだ。綾人自身すら日頃は忘れてしまっているものもいくつかある。
しかし、もともと肌が薄いからか、体温が上がり発汗するようなときにはその傷が浮き上がって見えてしまうらしい。それに気づいてから、綾人は他人の前で肌を晒すようなことをできる限り回避するようになった。この傷は綾人の油断や未熟さの証明でもあるし、それらを見てしまった相手が心を痛めないとは限らない。特に妹や、綾人を大事にしているこの家に仕えるものたちにだけは見せられないと気を付けてきた。入浴や息が切れるほどの運動――鍛錬なども、なるべく他者の目のないところで行うようにと心がけてきたのだ。
とはいえ、体温が上昇し、鼓動が早くなり、汗をかく――それは勿論、こういった性行為でも同様であるので。肌を重ね、絶頂を繰り返すうちに自然と肌に浮かび上がるその傷跡を、綾人自身は気にしてすらいなかったが、そうはいかないのがこのトーマという男である。
(痛くも痒くもない、と言っても、関係はないのでしょうね)
いつからそうであったのかは綾人も覚えてはいない。ただ、こうして行為が終わったあと、彼の手に身をゆだねるのが当たり前になったころに、不意に気付いた。肌に触れる、唇の感触。羽根が触れるような微かなそれを、初めこそもう一度のお誘いかと思い誘惑をし返してみたこともあった。けれど、それは間違いだった。彼は、綾人に何かを伝えるためにそれをしているわけではない。
(まったく、難儀なこと)
綾人に対する何の意図もなく、誘蛾灯に惹かれる虫たちのように当たり前の様子で口づけを落としていくトーマ。それがさらなる愛欲の誘いで在ったほうがまだよかった。常には見えない、全身に刻まれた傷跡のすべてに口づけていく、だなんて。何とも熱烈で、偏執的な、愛の表出だろうか。あるいは、独占欲とも呼べるかもしれない。もしくは、信仰とも。
彼自身がそこまで気づいているのかは分からないが、その傷跡を見つめるとき、常には眩いひかりを宿す翡翠の瞳にほの暗い焔が揺れていることにだって、綾人はとうに気づいている。そうして、それが、綾人を罵倒し嗤う政敵らに向けるそれによく似た色をしていることにも。
そういうときのトーマの瞳には、怒りよりも侮蔑や憎悪の強いような昏い感情と、そしてそれを上回る綾人への忠節と独占欲とが、彼の身の内に宿る元素と結びついて炎のように揺らめくのだ。鮮やかな朱金の炎は思わず息を呑むほど美しいのだけれど、トーマ自身すらも燃やし尽くしてしまうのではないかと少しばかり不安になってしまう。
彼に似合うのは、やはり陽の光と風の匂いだ。太陽の色をした灯火で果てしない夜闇を照らす強さこそが、彼のもっとも愛されるべき美徳なのだから。百人の人間に聞けば全員がきっとそう答えるだろうという確信すらあった。それほどまでに、彼の熱は、陽だまりのような明るさは、綾人の生涯において唯一無二のものなのだから。
そう思うことができるのは、神里家当主の綾人と、トーマの家族であり友人としての心だ。
そうして、その焔を――彼に似合わぬ薄暗く重たい欲の発露を、どうしても愛おしく感じてしまうのは、情を交わし恋をするただの綾人の心だった。
(……私にとっても、これは、難儀でしかない)
二の腕の傷に口づけが降る。そのまま、あとは耳朶に吸い付いて今宵もこの儀式は終わりを迎えるだろう。綾人の肌に残る他人の痕跡を、執拗なまでに上書きしようとするような口づけが。綾人の全身を己の欲望のままに整え終えて、その成果に満足したトーマは、あの朗らかな笑顔で綾人をそっと抱きしめるに違いない。そのどちらも、綾人にとってはどこまでも愛おしい、トーマという人間の一面だった。
だからこそ、今夜もその手のひらと唇を受け入れる。温かな情も、絡みつく執着も、そのどちらをも手放せなくて、眩暈がするほどいとおしいから。
決して誰にも――トーマ自身にすらも悟らせるつもりはない言葉を肌の下に押し隠して、綾人は、ただ静かに藍紫の瞳を瞼に仕舞う。四肢の力はとっくに抜けきって、あとはトーマの満足をまつばかりだった。その腕の中で意識を溶かして眠りに落ちていく幸福を今夜もまた味わうことができるのだと思えば、自然と唇が緩んでしまう。
「若、終わりましたよ。……さあ、どうぞ」
差し伸べられた腕は今夜も変わりなく、この世のどこよりも綾人を蕩けさせる熱に満ちていた。
とうてい口には出せないその歪んだ悦びを肌の下にすべて押し隠して、今日も素知らぬ顔をする綾人だって、とっくに恋に溺れているのだ。道を過つほどの余裕さえないまま、まっすぐに、ふたりで。
それでも、トーマを求めることを辞められないのだから、あるいは綾人の方が重傷なのかもしれなかった。