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げんしん

 トーマの朝は早い。日が昇る前から起きだして、まずは主たちの朝の準備を行う。洗面用の冷たく清らかな水、料理人たちが献立を考え抜いた朝食、その日の予定に合わせた衣装。もちろん、トーマひとりで全てを管理しているわけではないが、それぞれの専門のものたちが誂えたそれらを、主君へと差し出す栄誉ある役割を任されているのがトーマだ。勿論これはトーマと主たちの間にある信頼と、これまでこの家のために方向を続けてきた結果によるもの。主の私的な部分に触れる人間は、できるだけ数が少ない方がいい。そうして、神里綾人というひとにとって、その立ち位置にいられる「無害」な存在としては、今のところトーマが最も適任なのだ。これがもう少し増えれば主も雑務をいくらか手放して楽になれるのだろうけれど、その信頼に耐えうるだけの人間を見つけ出し育成するという時間と労力を考えたとき、主の天秤はいともたやすく現状維持に傾いてしまうのだ。彼の多忙さを思えば、それも致し方ないと苦く思う。その片隅にじわりと滲む、優越感と罪悪感が一緒くたにまじりあった欲については、今日も見ないふりをした。
 朝の冷ややかな空気の中、小さく鳴き交わす鳥たちの声が静かな神里家の庭に響く。透き通る水の気配を含んだ空気をひとつ吸い、音もなく主の私室前に膝をついた。
「――若、起きていらっしゃいますか」
 返事はないが、室内ではすでに気配が動いている。トーマがこうして朝の声をかけるようになってから主が寝坊したことなど一度としてない。起き上がれないことはあったけれど、あれはあれでまた寝坊してというような問題ではなかったので別とする。ともかく、彼の主は朝にも夜にも強く、自制心や理性がかたちを成したような人であるので、今日も今日とて当然のごとくすでに目を覚まし活動しているのだろう。それを確認してすらりと障子を開けば、やはり、布団の上に起き上がりさらさらと書き物をする姿がある。手元の紙は何かしらの雑記用なのだろうが、寝床の中で墨を用いること、薄い浴衣に羽織すら被らずいることの双方にきゅっと眉を寄せたトーマの表情を見て、はたりと長い睫毛が上下する。ゆっくりと笑みを形作った唇からは、耳に心地よい涼やかな笑音が零れた。
「ふふ、すまない、思いついたことをどうしても書き留めておきたくてね。――おはよう、トーマ」
「おはようございます。若が謝るようなことじゃないですよ。……それより、ひと段落ついているのならお召し物を」
 眠りの残滓すらない瞳を覗き込むように布団脇に腰を下ろし、準備しておいた衣装を取り出す。確か今日は公務で少しばかり装いを整える必要があったはずだ。これでよいかと視線ひとつで伺えば、素直に手元を片付けた綾人が立ち上がる。さっと布団を脇へと寄せ、姿見の方へと移動した主を追って背後に控える。
「今日は肩が凝りそうだ。……頼むよ、トーマ」
 はい、と頷き服飾を担当する者が用意したそれらを丁寧に検める。淡い溜息にも似た息を零した主は、些かのためらいもなく肩から衣を脱ぎ落した。ごくわずかな衣擦れの音とともに、目前に晒される、白い背中。ほの明るい朝ぼらけの光の中で、まるで絹のように滑らかに浮かび上がる、その肌に。
「……」
 ああ、本当に。この立ち位置を、他の誰かに任せるなど、トーマはずっと許せそうにない。少なくともトーマより長く彼との関係を築いているような者でなければ、誰にも、譲れそうにはなかった。
 主の背後という隙を許される優越感と、それがトーマに対して許されてしまうことへの罪悪感、喜びと後悔に痛みとを加えてかき混ぜたような重く粘つく感情を振り切る様に、ぐっと喉の奥に力を込め「それ」を見つめた。そうしなければ、みっともなく主を呼んで縋ってしまいそうだった。
(――若、若、オレは)
 この背中を、柔らかな肌を、その真ん中に刻まれたうすくも確かな傷跡を――炎の元素が彼に刻んだそれを。他の誰かに見られる、なんて。今もまだ、トーマには耐えられそうにない。
 己の罪の証が、未だにそこには宿っている。それを知っていてなお、主はその背中を無防備なまでにトーマの目の前に晒す。無言のうちに責めているわけでも、忘れるなと戒めるためでもない。むしろ彼は、トーマがそうすることに対して、今のように鏡の中で細い眉を寄せることもある。もう痛くもかゆくもないし、気にする必要などないと、何なら口にされたことも一度だけある。彼が慰めのためにでまかせや適当を口にすることはないから、それはこころからの言葉なのだろう。それでもトーマは、その傷跡を見るたびに、赦されてはいけないと己を戒めるのだ。
 許されてはいけない。たとえ主が赦したとしても、己が己を許すことなどあってはならない。彼の傍にいることに、喜ぶばかりではいけないのだ。これは、彼の罪なのだから。
 守るべき主を傷つけて、今もなおその傍らを許されている。のうのうと、彼の前にこうべを垂れている。仕えることの喜びとそれを許せずに燃える自責に胸の内側は嵐のように荒れ狂うが、それすらも見通す透徹な瞳を主は持っている。
 その上で、このままならない感情のすべてを理解した彼は、トーマだけを選び続けているのだ。
 その事実を強く強く噛みしめて、未だに自己の感情に振り回される醜い様を主には見られたくなくて。視線を振り切る様に目を伏せたトーマは、黙々と手を動かし必要な衣を丁寧に着付け始めた。


 鏡の向こう側で、ぐしゃりと、柘榴でも踏み潰すかのように彼の表情が崩れるのを見ていた。悔恨、慚愧、痛みと悲しみと、己への怒りがぐるぐるとその翠を彩る様を、見ていた。たまらなく愛おしくもどかしく、綾人の手の届かない場所で勝手に傷つく従者には困ったものだ。毎朝、毎度、彼が彼自身によって傷つけられる様を見せつけられている間、綾人には何もしてやれないのに。
 求められたならいくらでも手を差し出そう。言葉を紡ごう。彼が求めるものならば与えてやりたいと思う。それだけの奉仕と忠節を差し出し続けてきてくれたのだから、彼のそれは報われるべきなのだ。最も傍に置いて、重用して、こうして彼の求めるままに無防備に背中を晒すなどという、命を預けるような真似までして。そこまでしてもなお、彼のこころは綾人の手の届かないところにある。
 どうしたって伝わりはしないし、お互いに何も届かない。ある意味では似たもの同士なのだろうか、などと思考の片隅で戯言を転がしつつ、従者の顔に戻ったトーマに手伝われながら支度を終えていく。今日も変わらぬ「神里綾人」を作り出していく。
(トーマは、知らないままでいい)
 業務へと意識を切り替える刹那、彼の熱い指先が背中のその場所をなぞるのに合わせて、ぱちりと言葉がはじけた。
(この傷跡に残る熱は、いつだってあなたを感じさせて――だから、消えなくてもいい、なんて)
 彼のこころの傷を何度も掻きむしって流血させるような、余りにも自分勝手な願い事。トーマの欠片を常に抱いているかのような心地が手放せないまま、それが彼を傷つけるのだと知っていながら、今日も綾人は彼の手に身を委ねて。傷跡ひとつでその心をぐちゃぐちゃに乱され、泣き出す寸前の子どものような顔を晒す男の指先で、不毛で薄暗いだけの朝を終えるのだった。


お題/夜の創作お題bot @odaiibot
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