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げんしん

 神里の家には、家人たちの住まう区画も存在している。自身の家を持ち、そこから奉公に来る者たちも当然いるのだが、例えばトーマのように、主の私生活に深くかかわっているような――少なくとも、やろうと思えば暗殺を試みられるような立ち位置の人間たちは、神里家の中で寝起きすることが多い。これは主たちを守るという意味であると同時に、家人ら自身の身の安全にもつながっており、きな臭い政争を共に被ることになる家人らへの気遣いのひとつだった。トーマのように身寄りがないものにとっては、衣食住の食(まかない)と住(寝床)が保証されているという時点で申し分ない環境である。もちろん、これが強制されているわけでもなく、トーマとて外に部屋を持ってはいる。それだけの蓄えはあるし、何より主たちからも外の世界を見聞きすることや羽根を伸ばすことは奨励されているのだ。主たる存在と同じ空間に四六時中いなくてはならないというのは息が詰まるでしょう、と微笑みながら、さらさらと住居の申請書――トーマの身元保証人として登録されているのは神里綾人そのひとであるので、申請には彼の許可がいるのだ――を記す主の言葉は、今もよく覚えている。
『ようやく自由を得られましたね』
 悪戯っぽく細められた瞳に嘘はない。柔らかな声音にも。いつもの揶揄いにも取れるような、棘のひとつすらもない、ただの軽口を紡ぐ彼は、トーマがそれを望むことをまるで待っていたかのように手早く手続きを行ってくれた。あれよあれよという間にトーマの住処はひとつ増えて、その場所も今ではそれなりに気に入っている。とはいえ、それでも、一年のうちのほとんどを屋敷で過ごすことに変わりはないのだが。その様を見ては不思議そうにする主には、きっと何一つ伝わっていないのだろう。
 主の傍に仕える。そのために傍に侍る。物理的な距離だけが全てではないけれど、朝も夜もともにいられる、それを望まれ、同時に許されている、ということは――相手を敬愛すればこそ、幸福なことなのだ。それを主に許されていることこそが、従者としては何よりも誇らしい。
 もちろん、それが誰にとってもそうであるとは思わない。トーマの中の敬愛の気持ちがただそれを喜ばしく受け入れているだけだと言われれば、きっとそうなのだろう。それでも、その気持ちに嘘はなく、彼らの傍に居られることの幸福は日々深まるばかりであって。朝から夜まで、時には夜を徹して、生活の中心が主たちの存在であること。誰より傍に在ってよいと、彼らに存在を受け入れられていること。それがどれほどにこの心を満たすのか、誇らしさに胸を焼くのか。トーマ以外の誰にもきっと伝わるまい。主にだけはせめて伝わってほしいと願ってはいるけれど、この年になるまでついぞ成功した様子はなかった。
 だからこそ、トーマは。
 主のこの悪癖を、どうしようもないほど愛おしく思うのだ。
「――……、」
 モンドをはじめ、他国へ渡るために書類の数々。神里綾人の署名がすでに入った命令書までついた、トーマが国外へ行くために必要なあらゆる文書たち。安全に渡航するための手配や滞在先での世話についてまでも。トーマをこの家から追い出す――この国を離れさせ、主を捨てさせるための手続きすべてがいつでも始められるようにと揃えられたそれらを、ただ無言で見つめる。
 ここは、綾人の私室である。執務室ですらない。そのうえで、時折清掃に入るトーマが見てもよい場所に、あえて残されているものたちだ。もう何度目になるだろうか、とそれらを手早くまとめ直し、きちんと元あった場所へと置いた。ため息一つを残して再びてきぱきと手を動かしながら、果たして主は、どのような顔でこれらを用意したのだろうかと考えを巡らせる。
 揃えらえた証拠。見てくれと言わんばかりに。まるで主が、トーマを手放したがっている、とすらも取れる。それを察せと言われているようにも。
 トーマとて、それを疑わなかったわけではない。ただ、主のやり方ではないなと思わなくもなかった。彼ならば、いかなる内容でも直截に口に出すだろう。少なくとも、主である彼がそれを「命令」するというのなら、きちんと伝えることこそが彼にとっての誠意であるからだ。だからこそ、初めは主の意図が読めずに困惑した。次に、何故このようなことをするのかと主のことを考えた。――今は、その不器用さに、胸の奥がつんと痛んで、愛しさがさざ波のように沸き上がってくるようになってしまった。
(若は、そうまでして、オレを)
 手を離すということが、どういう意図で行われるのか。もう必要ないという冷たい失望か、こんなものいらないと放り投げるような激情か、そのどちらも、主の本質からは程遠いのだろう。だって、トーマの主は。
(オレの幸せを願って、なんて――本当に、不器用な)
 トーマの幸せが、ここにはないと思っている。本当のさいわいを、ここではない場所で見つけられると。帰るべき場所に帰すべきだと。この身体に流れる自由の風を、追い求めるべきだと。
 それがトーマの幸いだと思っている。そしてそれを口にしても、トーマは否定する(当然のことだが)と思っているので、それを遠回しに表現している。いつでも出ていけますよ、帰っていいんですよ、なんて。傍から見れば、忠義を試すような残酷な行為と取られても仕方のないことをする。他の誰にどう思われたとしても、彼にとっては関係ないのだろうけれど、どうにもやり方が不器用すぎていけない。ますます離れがたくなるのだと、彼自身は気づいてすらいないのだろう。
 愛されている。それも、とても深く。手を離したいと思われるほど。それを確信しているトーマだからこそ、この決して言葉にされないやり取りがどれほどの意味を持っているのか噛みしめることができるのだ。トーマのことを、愛しているから遠ざけようとする。幸せになるべきだと思っているから、主の考える幸せを与えようとする。ある意味で傲慢な、そうしてどうしようもなく不器用なやり方で。
 恐らくは、この家と国とを巡る血みどろの巻き込みたくないと思われている。彼の庇護下に置くよりもずっと安全に、より自由に。
 そういうところを知れば知るほどに、離れがたくなる。そばに置かれる幸福を、その奇跡のような価値を、思う。彼の傍に在ることでもしかしたら自分は彼を苦しめているかもしれないと思いながらも、そう思われれば思われるほどに、彼の中のトーマの存在がどれほどのものなのかを感じて胸が苦しくなる。愛されているのだ。じりじりと、焦げ付くような熱でそう思う。
 愛しているから、そのこころと正反対のことをしようとする。それができてしまう。彼は、それを選べる人間だから。それでも、今日この瞬間まで、その手段をとろうとしていない矛盾について、主たるひとがどう受け止めているのかまではトーマには分からない。ただ、都合よく受け取ってしまいたいと、甘い陶酔にも似た感情が抑えられずに笑みとなって零れるばかりだ。
「……っと、こんなもんかな」
 きちんと清められた部屋を眺め頷く。あとは夕刻に帰る主を迎えて、彼の妹とともに食事をしてもらえば、彼の一日も終わりに差し掛かる。風呂の支度と寝床を整え、主とおやすみの挨拶を交わして、そうしてまた明日がやってくる。主が手放せなかった明日が。彼らとともに居られる幸福な日が、また始まる。
 その前に、と。トーマは脇に寄せて置いた書類を手に取った。主からの遠回しな愛に、トーマはいつだって応える準備はできている。それを今日も変わらずに伝えなくてはならない。
「ねえ、若。オレはまだ、ずっと、ここにいたいんですよ」
 ゆら、と揺らめく炎の元素を眺めて、トーマは笑う。燃え尽きていく主からの不器用な愛に満ちた絶縁状の灰すら残さぬように、大事に、いっとう愛しいものを扱う手つきで、己の覚悟を宿した神の目を繰る。もう何度も、何度も、繰り返されてきたやり取りを今日も変わらずに遂げたトーマは、翠瞳の中に踊る火影を閉じ込めるように目を閉じた。

「オレの幸福は、いつだって若の傍にあるんです」


お題/夜の創作お題bot @odaiibot
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