げんしん
雨のにおいがした。不意に鼻先をかすめたその気配に、はっと顔を上げたトーマは、けれどすぐに視線をおろして嘆息した。外に干してあった敷物はすべて回収しておいたはずで、今日は他に何か濡れて困るものを出してはいないはず。思いつく限りの雨の対策を数えて、うん、と小さく頷く。その拍子に肩が揺れないよう、できる限り注意をして。
家司として、考えるより先に片付けなくてはと身体が動き出しそうになったのは仕方のないことだけれど。それをうまくいなして、止められたことだけは自分を褒めてやりたかった。
「……、」
すう、すう、と耳元に落ちる微かな吐息。ぴったりと身を寄せ、無防備にからだのすべてを委ね、眠るひとの温もりがじんわりと半身を温めている。トーマの左肩にこうべを預けるようにして、常日頃から政務に忙殺されるひとが、ほんのわずかな休息を味わっている。その得難い時間を、トーマの行いで無為にせずに済んだのだから。
ふかい寝息に覚醒の気配がないことを確認したトーマは、少しだけちからをぬいて、うすくらい室内に視線を走らせた。散らばった紙束、乾きかけた墨、荒れた筆先。文鎮は机の下かどこかだろうか。適当に放られた報告書も、あとで机に積んでおかなくてはとぼんやり考える。常よりもひどく散らかっているように見えるその執務室には、疲れ切った主のこころがあらわれているようにも見える。それを整え、あたため、彼がふたたび凛と立つことができるように助けるのが、トーマの役割だ。彼が彼ののぞむように在る、そのために。寸暇の休息を共に過ごして、主のこころが満ちるときを待つ。彼が、なりふり構わず息を吐いて、甘えられる場所など――もう、この、ふたりきりの部屋ひとつなのだから。
分厚い雨雲に遮られ、執務室はひどく暗い。灯りを灯すことも忘れて政務に没頭していたのだ。あらゆるものが散らばった部屋の中央に座した彼の背中が、ぽつんと、暗がりの中に在る様を想像してみれば、なんだかひどく胸がつかえるような心地がする。せめてひとりではないのだと、そう伝えられたら。彼を支えるものは、いつも隣に在る。トーマも、綾華も。終末番たちも。必要な時はいつだって呼んでほしいと思うのに、そう伝えているのに。うまく伝わらない歯がゆさをかみ殺して、いちずに仕えてきた、今がその結果なのだろう。
すり、と甘えるように彼のつむじに頬を寄せてみる。やわらかく重ねられたてのひらは、刀と筆とに刻み付けられた胼胝がいくつもあって、その白魚のような肌をいびつに盛り上がらせている。その努力を、その奉仕を、その矜持を、ただただいとおしむように。トーマは、勲章だらけのてのひらを、そっと指先で撫でて、笑った。
家司として、考えるより先に片付けなくてはと身体が動き出しそうになったのは仕方のないことだけれど。それをうまくいなして、止められたことだけは自分を褒めてやりたかった。
「……、」
すう、すう、と耳元に落ちる微かな吐息。ぴったりと身を寄せ、無防備にからだのすべてを委ね、眠るひとの温もりがじんわりと半身を温めている。トーマの左肩にこうべを預けるようにして、常日頃から政務に忙殺されるひとが、ほんのわずかな休息を味わっている。その得難い時間を、トーマの行いで無為にせずに済んだのだから。
ふかい寝息に覚醒の気配がないことを確認したトーマは、少しだけちからをぬいて、うすくらい室内に視線を走らせた。散らばった紙束、乾きかけた墨、荒れた筆先。文鎮は机の下かどこかだろうか。適当に放られた報告書も、あとで机に積んでおかなくてはとぼんやり考える。常よりもひどく散らかっているように見えるその執務室には、疲れ切った主のこころがあらわれているようにも見える。それを整え、あたため、彼がふたたび凛と立つことができるように助けるのが、トーマの役割だ。彼が彼ののぞむように在る、そのために。寸暇の休息を共に過ごして、主のこころが満ちるときを待つ。彼が、なりふり構わず息を吐いて、甘えられる場所など――もう、この、ふたりきりの部屋ひとつなのだから。
分厚い雨雲に遮られ、執務室はひどく暗い。灯りを灯すことも忘れて政務に没頭していたのだ。あらゆるものが散らばった部屋の中央に座した彼の背中が、ぽつんと、暗がりの中に在る様を想像してみれば、なんだかひどく胸がつかえるような心地がする。せめてひとりではないのだと、そう伝えられたら。彼を支えるものは、いつも隣に在る。トーマも、綾華も。終末番たちも。必要な時はいつだって呼んでほしいと思うのに、そう伝えているのに。うまく伝わらない歯がゆさをかみ殺して、いちずに仕えてきた、今がその結果なのだろう。
すり、と甘えるように彼のつむじに頬を寄せてみる。やわらかく重ねられたてのひらは、刀と筆とに刻み付けられた胼胝がいくつもあって、その白魚のような肌をいびつに盛り上がらせている。その努力を、その奉仕を、その矜持を、ただただいとおしむように。トーマは、勲章だらけのてのひらを、そっと指先で撫でて、笑った。
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