CiT Side Story
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Breezy(A Melody from the Sea)
久々に本でも読もう、と思ったのは実行委員の仕事が一段落したからで、更にそれをするためにわざわざ中庭までやってきたのは、ここ数日降り続いた雨が嘘のように晴れ上がったからだった。
昼下がりのこの時間帯、生徒たちはまだ食堂でまったりと過ごしているのか、人通りはまばらだ。
陽射しは強く、直に浴びていたら少し汗ばんでしまうくらいだろう。しかし、あちこちに植えられたプラタナスの葉が程良く日光を遮ってくれるおかげで、中庭は過ごしやすい気温に保たれている。
空いているベンチの内、よく乾いているものに腰を下ろした。風もほとんどなく、勝手にめくれるページに悩まされることもない。
鮮やかなハードカバーを開く。図書室を入ってすぐの「話題の新刊」のコーナーに、この本はあった。普段ならそのまま通り過ぎて目的の本を探しに向かうのだが、思わず足を止め、手に取ってしまった。表紙に描かれた海の水彩画が、なんとなくあの場所に似ているような気がしたのだ。
純粋に物語だけを楽しむ本というのは、ずいぶん久し振りに読む気がする。冒頭は、主人公の女性が海辺の町へ辿り着くシーンから始まった。彼女の乗った列車は海を横断する橋の上を走っていて、ちょうどこのフィッシャーマンズ・ホライズンのような感じだろうかと、実際に見た風景と架空の場所を重ね合わせる。
物語が次の場面へと差し掛かろうとした時、突然ベンチが小さく揺れ、意識が現実へと引き戻された。空いていたニカの右隣に誰かが座ったようだ。視線を向けると、その人物は軽く片手をあげて微笑んだ。
「よっ」
「なんだ、ゼルかぁ」
「えー、なんだよぅ。隣がオレじゃ不満ってか?」
腕を組みながら口を尖らせる。その子どもっぽい表情に、ニカは思わず噴き出した。
「ごめんごめん、そうじゃなくて! 知らない人かと思って、ちょっとびっくりしたから」
何気なく向けた視線の先、ゼルの足元に、革張りの大きなケースが置いてあるのに気付く。その見覚えのある形にニカは、あっと声を洩らした。
「もしかして、練習?」
セルフィ企画のコンサートに、ゼルがギターで参加することはすでに聞いている。今回の騒動で学園祭は出来なくなったものの、ニカたち実行委員は、そのコンサートに向けて引き続き準備を進めているのだ。
「おう。そろそろ本気出さねぇと、セルフィに怒られちまうからな」
「どんな曲やるの? 聴きたいなぁ」
「うーん、まだあんまし弾けねぇんだよな……」
そうは言いながらも、ゼルは楽器を取り出し、手早くチューニングを済ませる。手慣れているな、とニカは思った。彼の自宅のリビングにギターが置いてあったことを、おぼろげながらも思い出す。
ケースは開くと蓋が直立するように出来ていて、ゼルはそこへ立て掛けるように譜面を置いた。
グローブに覆われていない指先が、弦を弾く。拍子は8分の6。元々は踊りのための曲なのだろうか。跳ねるような、軽快なリズムが特徴的だ。伴奏だけなので曲の全体像までは掴めないが、明るく、異国的ながらもどこか懐かしいメロディが聴こえてきそうだ。
晴れやかな陽気に、心地良い音楽。ニカは少し微笑むと、手元の本を再び開いた。
「あっれ、」
暫くしてふと音楽が止み、代わりに聞こえてきた声に、ニカは顔を上げる。
ゼルはうーんと唸りながら、コードを押さえ直し、確かめるように音を出した。次は切りの良い小節まで戻って、少しゆっくりと。二回ほどそれを繰り返すことで手応えを得たのか、よし、と頷き、元のテンポで演奏を再開させた。
今度は上手く行ったらしい。スムーズに流れ出した音楽に、ニカもほっとして読書を再開した。
……しかし。
「……ありゃ?」
先ほど躓いた箇所に差し掛かった瞬間、またもやゼルの手が止まった。同じようにゆっくりと確認し直し、何事もなかったかのように弾き始める。……また止まる。少し戻って、もう一度。なんだかニカの方まで調子が狂って、気付けば同じ文を何度も追っていた。ぐるぐる、ぐるぐる、進まない音楽。進まない読書。
そんなことを何度か繰り返した頃、耐え切れなくなったニカがついにくすくすと笑い出した。
「ゼル、大丈夫?」
「うー……ここんとこが難しくてよぅ。おっかしいなぁ、こないだは出来たんだけど……」
その部分だけ弾くのは出来ても、続けて演奏するとなると難しいということなのだろう。ああでもないこうでもないと試行錯誤していたが、ついにゼルはギターを持ったまま、どかっと背もたれに身を預けてしまった。
「あー、ちっとも出来やしねぇ! やめだ、やめ!」
「えーっ、諦めちゃうの?」
「そもそもこんな天気だからいけねーんだ。あったかくて、ボーッとしてきちまう」
曇ってたら曇ってたで、どんよりしててやる気が出ない、なんて言いそうなものだが……と思ったが、余計なことは言わないでおく。
ぐったりと不貞腐れていたゼルだったが、そうだ! と何かを閃いた様子で勢いよく身を起こした。ギターを構え直し、先ほどより緩やかな速度で手を振り下ろす。
初めのフレーズを聴いた瞬間、あ、と思った。
流れるようなアルペジオ。フレットを滑る指が、時折キュッ、と小気味良い音を立てる。メロディらしいメロディはないけれど、音のひとつひとつが寄せては返す波のようにきらめき、そして消えてゆく。そんな音楽だった。
少し、風が出てきた。力の抜けた指から逃れたページがパラパラと捲れ、ついにはぱたん、と軽い音を立てて閉じる。
(あ……寝ちゃう……かも)
瞼が次第に重くなって、ニカは二度、三度とゆっくり瞬いた。さわさわと木の葉が擦れ合う音も、かすかな波音のように聴こえるような気がする。
重量に逆らえず下がりゆく頭が、やがてこつん、と暖かいものに触れた。
「お、おいっ、ニカ……?」
頭上から、少し慌てたような声。しかしニカの意識は、ほとんどこの中庭を離れつつあった。
再び流れ出す音楽に乗って、心だけで旅に出よう。アルクラド平野を南に突っ切って、海岸沿いに大好きなあの街へと。
あの景色を一人で見るのは勿体無いから。だからもう少しだけ、この肩を借りていることにする。優しい音楽と波の音に包まれながら……そして隣の彼が微笑む気配を感じながら、そんな事を思った。
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