軌憶の旅 Ⅲ
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遥か遠方まで広がる、やわらかな陽光に色づいた大地。広大な緑色の絨毯のように見える平原は、しかしところどころに深い淵が刻まれており、かつてこの地で激しい戦いがあったことを物語っていた。
この先に待ち受けるのは、無辺の荒野。ゆえに、己の進むべき道を見失い、迷う召喚士も少なくない。
そんな話を聞いて何を思ったのか、ユウナは唐突に仰向けに寝転ぶ。
その姿は、この地に残る数々の記憶を───父の遺志を、全身で感じ取ろうとしているかのように見えた。
「わたしは……迷わないよ」
空を見上げ、ユウナは呟く。
それは彼女の決意だった。誰にも侵すことのできない、ただひとつの、気高く尊い意志だった。
平原に足を踏み入れてからほどなくして、道の端に小さな店が開かれているのを見かけた。以前訪れた時は───とはいえ十年前だが───何もなかったはずだが、こんな場所で商いとは珍しい。
ザナルカンドに向かうにつれ、道のりは更に険しくなる。ありがたく利用させてもらおうと、覆い布を捲って中を覗き込んだ。
こぢんまりとした店構えに反して、品揃えはかなり豊富なようだ。アイテムポーチの中身を思い浮かべながら、さて何を買い足そうかと考え始めたその時、店の奥から控えめな声で呼び止められた。
「キルヒェ様……?」
顔を上げると、店主と思しき男性が目を見開いてこちらを凝視していた。
どこかで見たことのあるようなその顔に記憶の糸を辿り、キルヒェは小さく息を飲む。以前よりずいぶんと窶れ、髪もほとんど真っ白になっていたけれど、その穏やかで理知的な眼差しには確かに覚えがあった。
「もしかして……トマさん?」
キルヒェがその名を呼ぶと、彼は熱に浮かされたようにおぼつかない足取りでカウンターの外へと足を進めた。そして咄嗟に駆け寄るキルヒェの手を取るやいなや、力が抜けたようにすとんと座り込んでしまう。
「やはり、キルヒェ様でいらっしゃいましたか……。あ、ああ……あの日のことを、私は一体どう償えばよいか……」
同じようにその場にしゃがんで視線を合わせると、キルヒェは震える背に手を添えた。
「トマさんのせいじゃありません。悪いのは『シン』です。私は私の意思で、あの村に向かうことを決めました。だから、そんな風に自分を責めないで」
「しかし、フィオ様は……」
繋がれたままの片手に籠められた力に、長らく抱え続けてきたであろう深い自責の念を感じる。宥めるように微笑んで、キルヒェは静かに話し始める。
「あれから、色々なことがありました。すごく遠回りもしました。だけど、またフィオに会って、話をすることが出来たんです。こうしている今も……一緒にいてくれています」
ここに、と、キルヒェは自身の胸に手を当てる。ああ、と苦しげにあえいで、トマはぽろぽろと涙を溢した。
「私たち、少しも後悔なんかしてません。だから、トマさんが謝らなきゃいけない理由なんてないんです」
「キルヒェ様……」
「それに、私のほうこそ申し訳ないと思ってたんですよ。あの時は動揺してて、お別れもきちんと出来なかったから。あれからどうしてましたか? 聞かせてください、トマさんの話」
トマはわずかな逡巡を見せるが、やがて決心したように涙を拭った。気持ちを落ち着けるように深く息をつき、静かに語り始める。
「あのあと……私は行商をやめ、自宅のあるベベルで商いを始めました。妻の容態が芳しくなく、出来るだけそばに居てやりたいと思ったのです。フィオ様のことは……申し訳ございません、どうしても話すことが出来ませんでした。彼女にまで業を背負わせる気には到底なれず……」
それでいいのだと、キルヒェは頷く。病臥している人間をあえて苦しめる必要はない。しかし、彼がその事実をたった一人で抱え続けてきたことを思うと、胸が押し潰されそうだった。
「それから程なくして、ブラスカ様がナギ節を齎して下さりました。風の噂でガードの方のお名前を聞いた時、きっとあなた様に違いないと……。妻が亡くなったのは、その半年後のことです。穏やかな、最期でした」
「そう……それじゃあ、奥さんと一緒にナギ節を過ごせたんですね」
「ええ、本当に……どんなに感謝してもしきれません」
言葉にすることで、幾分苦悩が和らいだのだろうか。まだ眦を赤く染めていたが、語り終えたトマの表情は先ほどよりも穏やかに見えた。
「その後は行商を再開し、今度はこのナギ平原に拠点を構えることにしました。私に出来ることなどたかが知れていますが、少しでも召喚士様のお役に立てれば、と……」
「お気持ち、とても嬉しいです。ありがとう、トマさん」
一旦言葉を切って、キルヒェは背後を振り返る。店の入口にはアーロンが立っていたが、何かを察したのだろう。興味深げに首を突っ込んで店内を見回していたティーダやリュックを押しやって、自らも店を後にした。
誰も居なくなったのを確認して、キルヒェは改めてトマと向き合う。
「私は今、三度目の旅をしています。ブラスカさんの娘の、ユウナという召喚士のガードとして。これからガガゼトを越えて……また、ザナルカンドへ向かうつもりです」
そこまで話して、もう一度口を噤む。誰かにこのことを打ち明けるのはこれが初めてだ。けれど、彼になら話してもいいと思えた。
「トマさん、私……この世界から『シン』を消す方法があるって信じてるんです」
トマはわずかに目を見開いた。呼吸こそ乱さなかったが、その表情には確かな動揺が浮かんでいる。
「十年前にトマさんが言ってくれたこと、とっても嬉しかった。あの言葉の意味、ガードになってやっと分かりました。私はこれ以上、召喚士を死なせたくない。誰も犠牲にならずに、完全に『シン』を倒す方法……必ず見つけます。だからトマさん、終わらないナギ節が来たら、その時は一緒にご飯でも食べましょう。何か、あったかいものでも」
「キルヒェ様……」
再び滲みかけた涙を、トマが指先でそっと拭う。先ほどとは違う、希望を帯びた涙だった。
「不思議ですね。キルヒェ様がおっしゃると、どんな夢物語も実現出来るような気がして参ります」
柔和に微笑むと、トマは一呼吸置いてキルヒェの目をしっかりと見つめ直した。
「正直に申し上げますと、これ以上ご無理なさらないでいただきたいというのが本音でございます。しかし周囲がどんなに止めようと、あなた様は大義を成し遂げようとするのでしょう」
「心配かけてごめんなさい。でも、その通りなんだと思います。私はもう、前にしか進むつもりはありません」
「ええ、分かっておりますよ。ですが、どうかお忘れなきよう。そのナギ節は、キルヒェ様あってこそ。必ずや、お戻りくださいませ。何もお力になれないことが歯痒いですが、せめてこの約束が、あなた様をスピラに繋ぎ止める杭となりますよう……旅のご無事、心より願っております」
キルヒェは頷いて、トマの両手を今一度しっかりと握り締めた。力になれないと彼は言うが、断じてそんなことはない。
今も、昔も。人の想いという目に見えないものに支えられ続けている。糸のように絡み合った縁はキルヒェの根底に根を張り、ともすれば揺らいでしまいそうな心をしっかりと抱き留めてくれる。
キルヒェが望む世界は、彼らが笑顔で生きる世界だ。今度こそ、そんな日々が訪れるよう……トマとの約束を、深く胸に刻み込んだ。
その後、トマにチョコボを借りたため、中央部までの道のりは容易に乗り切ることが出来た。
当初は宿の手配までをも申し出てくれていたのだが、この大所帯ではさすがに気が咎めると断り、代わりに回復アイテムの類を分けてもらうに留めた。
去り際のトマの表情が、まだ脳裏に焼き付いている。苦悩を簡単に拭い去ることは出来ないが、その瞳には確かな希望の種火が宿っていたように思う。
よかったね───胸の中で、あの子が微笑んだような気がした。
その日の夜、仲間たちが寝静まった頃合いを見計らって、キルヒェはいつかそうしたようにベッドを抜け出した。
目が冴えてしまったせい、というのも、確かにある。けれどそれ以上に、淡い期待が胸を占めていた。それはどこか予感めいていて、根拠もなくキルヒェを突き動かす。
だから、ロビーに見知った影を見つけた時は、思わず笑い声を漏らしてしまった。
「あ……ふふふっ」
しかし、夜分だということを思い出し、すぐさま口元を押さえる。
自分が笑われたと思ったのか、長身の男は薄明かりの中でも分かるほど深く眉間に皺を寄せた。
「何だ」
低く抑えた声が夜気を震わせる。聞き慣れた声のはずなのに、無性に懐かしく、同時に新鮮に感じられた。
「ごめんごめん……あのね、そうだったらいいなって、思ってたの」
「そう、とは」
「アーロンと、ちょっと話がしたいと思って。だから、あの日みたいに偶然起きてたりしないかなって期待してた。でも、まさかほんとに居るなんて……もしかして、偶然じゃなかった?」
キルヒェの言葉に小さな溜め息をついて、アーロンはこちらに背を向ける。
「馬鹿を言うな」
そう短く呟くなり、さっさと屋外へ続くドアへと向かってしまった。それが照れ隠しであることを理解しているキルヒェは、密かに笑いながら彼の後に続く。
外気は霊峰の冷気をまとってキンと冷えていた。上着にブランケットを引っ掛けてきて正解だ。魔法に頼れば体感温度のコントロールもある程度可能だが、今はまだ、この場所に満ちるありのままの空気を感じていたかった。
公司の建物から、少し離れた場所に腰を下ろす。
清澄な大気は星々の光を余すことなく地上に届ける。濃紺の織物に小さな銀の粒をばら撒いたような空に、キルヒェは感嘆の息を漏らした。
隣に感じる温もりも心地よく、共にこの星空を見上げる存在が側にいることが純粋に嬉しかった。それが彼であれば尚更。
しかし、満たされる胸中とは反対に、話すべき言葉はなかなか見つからない。語るには多すぎて、その中の何かを選び取るのは困難だった。
「変なの……話したいことが山ほどあったはずなのに、こうして顔を合わせると、何から話していいか全然分からないなんて」
同じように空を見上げていたアーロンの視線が自分に向けられるのを、気配で感じた。
「十年前もそう……もっと、いろんな話をすれば良かったな」
「たとえば?」
「うーん、なんだろうね? 好きな色とか、食べ物とか、どんな子供だったとか……そういうくだらない話」
共に旅をする中で、日常では得られないような強い絆で結ばれた。それは確かだ。しかしその代わりに、誰しもが当たり前のように交わす他愛のない会話をする機会はさほど多くなかったように思う。
先を急ぐ旅だったし、何よりかつての自分はどこまでも必死で、頑なだった。
「あの頃は目の前のことだけで精一杯で、そんな余裕など無かったからな。だが、あの時お前が自分のことを打ち明けてくれて良かったと思っている。……さすがに、シーモアとの関係までは知り得なかったが」
「あれ、もしかして、やきもち?」
「どうかな」
滲んだ笑いに震える語尾に、胸の奥のほうがさざめく。それは決して嫌な感覚ではなく、むしろふわふわとした心地よい浮遊感に覆われている。
「なんかさ……全部思い出してみて、すごく不思議な感覚なんだよね。確かに十年前の記憶なんだけど、最近経験したことのような気もして」
フィオにスフィアを手渡され、記憶を追体験したのはつい先日のことなのだ。無理もない。
「でも、やっと本当の自分になれた気がする。だから……ありがとうね。ルカでアーロンが見つけてくれなかったら、私はきっと、後悔すら出来なかったから」
記憶を失い、気ままに生きた日々は平和だったが、埋めようのない穴をずっと胸に抱えているようでもあった。
今は違う。召喚士だった自分。ブラスカのガードだった自分。そして、ユウナのガードである自分。ばらばらだった記憶と魂がひとつになって、キルヒェという人間を形づくっている。
「まさか、お前からそんな言葉が聞けるとはな」
「私はもともと素直な性格なんですー」
わざと拗ねたように口を尖らせるキルヒェに釣られて、アーロンは小さく笑った。しかし戯れのような気配はすぐに薄れ、二人の間には余韻を含んだ静寂が満ちる。
「……正直に言おう」
「え?」
「あの時、俺は柄にもなく浮かれていたんだ。お前にまた会えたことに」
星明かりの中、張り詰めた糸が緩むように、彼は隻眼を細めた。研ぎ澄まされた太刀のように鋭い男だが、時折こうして柔らかい表情を見せることがある。十年前も、こんな風に───。
「あ……」
その時、体内をふわふわと漂っていた暖かな感覚が、胸の中心をめがけて一気に収束してくるのを感じた。
過去と現在。彼と過ごしたかけがえのない時間。交わした言葉と抱擁。その時身の内に湧き上がった感情。結び付いたそれらは宝石のようにきらきらと光を放ち、キルヒェの内側をまばゆく照らす。
「なんだ?」
唐突に何かに気付いたような声を漏らしたキルヒェに、アーロンは訝しげな視線を向ける。くすりと笑って、キルヒェはなんでもないと首を振った。
「大したことじゃないの。ただ……嬉しかったんだなって。あの日ルカで出会って、一緒に旅して、私が恋をしたアーロンと、私が知ってたアーロンが同じ人だっていうことが」
高い襟の下で、アーロンが密かに息を詰めるのが分かった。しかしそのことには触れずに、キルヒェは変わらぬ声色で続ける。
「正直、最初はちょっと驚いたよ。だけど……ああ、十年経っても変わらないものってあるんだって気付いて。きっと、私はそういうところを好きになったんだなって……。それがなんだか、無性に嬉しかったの」
さっぱりとした気持ちで語り終えたキルヒェとは対照的に、アーロンは言い淀む。表情こそ変わらないが、瞬きの乱れにわずかな動揺が見て取れた。
「お前……しかし、それは……」
「今も気持ちは変わってないよ。記憶がなくても、私は私だって言ってくれたのはアーロンでしょ?」
飛空艇の通路での告白。ムードもへったくれもなくて、改めて思い返すと少し笑ってしまう。
あの時は、一方通行でも構わないと思っていた。むしろ、そうあるべきだと。けれど記憶を取り戻した今、キルヒェの心は、残された時間を彼と共に歩むことを望んでいる。
あの日取れなかった手を、携えたい。しがらみに囚われ、諦めてしまった時間を紡ぎたい。たとえ、どんなに短い間でも。
「何度も言うが、俺は死人だ。この旅が終われば……異界へ向かう」
「だから、無責任に誰かを好きになったりは出来ない? 私のこと、考えて言ってくれてるなら嬉しいよ。でも、誰だっていつかは死ぬ。それが早いか遅いかってだけ。……もしかしたら、私がうっかりガガゼトの崖から落っこちて、アーロンより先に異界行き、なんてこともあり得るかもしれないし?」
彼の場合、その期限が明確になっているというだけだ。考えようによっては、むしろ唐突な別れよりずっといい。大抵の場合、覚悟も気持ちの整理もつかぬまま手を離さなければならないのだから。
「残りの時間、全部欲しいなんて言わない。ただ、その心のほんのひとかけらだけでいいの。私に対して気持ちがないならきっぱり諦める。だから、お願い……本当の気持ちを聞かせて」
揺るぎない目で、本気なのだと訴えかける。
時が止まったような時間がしばらく続いたが、やがてアーロンは観念したように小さく息をついた。
「……想いは、とうの昔に伝えたはずだが」
「え?」
「覚えていないか? 十年前のあの日、この場所で……。ふっ、誰かさんにはまともに取り合ってもらえなかったがな」
今度はキルヒェが絶句する番だった。もちろん、忘れるわけがない。が、あの時と今とでは状況が異なる。
彼の想いを軽んじていたわけでは決してないが、月日が経てば気持ちは移ろう。敬愛する主と戦友を同時に失い、自らも死人となり、ジェクトとの約束を果たすべくもうひとつのザナルカンドにまで至った。そんな日々の中で、淡い恋心が記憶の奥底に追いやられてしまうのはごく自然なことのように思えたのだ。
「あれは……だって、その、単純にそんな場合じゃ……それに、もう十年も前だし……っていうか、人は簡単変わるってアーロンも言ってたじゃないっ」
権力に固執し、変貌したかつての友を見てそう呟いたのは、他でもないこの男だ。しかし当の本人は肩をすくめ、小さく首を傾げてみせる。
「おかしいな。今しがた、十年経っても変わらないものがあると言っていたのは誰だったか」
「それとこれとは……」
どうしてそうやって、すぐに揚げ足を取るかなあ。そう返そうとして口を開きかけたキルヒェは、しかし二の句を継ぐことが出来なくなってしまった。絡み合った視線が、あまりに鮮烈だったから。
「あの日、ルカの喧騒の中でお前の歌声を聴いた俺の気持ちが分かるか? 別の人間として生きているなら、それを尊重すべきだと自分に言い聞かせもした。だが……お前の仕草や言葉、思考の端々に、何度もかつての面影を見出した。その度に、俺がどれほど高揚したか知っているか?」
アーロンの口調はあくまで冷静だった。しかし低く抑えた声の奥に、熾火のような熱が密かに滾っている。
「この十年間、お前のことを忘れたことなど一日たりともなかった。こうして再びまみえることなど永久に叶わないと思っていたが、それでもお前を想っていた」
ブランケットからはみ出た手を掴まれる。彼の肉体はとうの昔に生者としての役割を終えているというのに、その手は目眩を覚えるほどに熱く、力強かった。
「残りの時間までは求めないとお前は言うが、そんなもので済ませてやるものか」
琥珀の瞳の奥、身に纏う衣と同じ色の熱情が燃えている。随まで焦がすような烈火の熱にあてられて、言葉はおろか、瞬きひとつ落とすことが出来ない。
「……全部、くれてやる。こんなちっぽけな男に残されたものなど、何もかも」
目の前に火花が散ったような錯覚に陥る。それは告白だった。剥き出しの心臓を差し出すような、痛いほどに真っ直ぐで、純粋な愛の言葉だった。
表面張力で保っていた涙が、ぽろりと一粒零れる。人差し指でそっと掬い上げて、アーロンはふと表情を緩めた。
「言っておくが、俺はそこまで出来た男ではないぞ。一度その手を取ってしまえば、去り難くなるのは俺のほうだからな」
「その時は、私が送る。だから……心配しないで」
「ああ、そうしてくれ。送られるならお前がいい」
凪いだように穏やかな声に、胸が締め付けられる。握られた手に、キルヒェはそっと力を込めて返した。
「アーロン、私……」
「キルヒェ」
遮るように名前を呼ばれる。これ以上、言葉は必要ないと言われているようだった。
おもむろに伸びてきた手が、髪のあわいに差し入れられる。引き寄せる力に従って、キルヒェはアーロンの胸へと頬を寄せた。肩からブランケットがはらりと落ちるが、寒さは微塵も感じなかった。
背中に回される腕は優しくも揺るぎなく、胸の内を甘く掻き乱す。込み上げる愛しさに身も心もばらばらになりそうで、衝動のままに逞しい体へと縋った。
暗闇の中、大小ふたつの影がその輪郭を溶かして混ざり合う。温度も、吐息も、感情さえも。互いを隔てる何もかもを取り払って、ひとつになってしまいたい。
夜が深まり、星々が雲に隠れてしまうまで。重なり合った影は、ぴったりと寄り添ったまま離れることはなかった。