軌憶の旅 Ⅲ
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辛くもシーモアを退けたキルヒェ達は、マカラーニャの森に身を潜めていた。
今のところ、追手の気配はない。しかし、ユウナを取り巻く現状はきわめて不芳だった。聞けば、キルヒェがあの部屋に捕らえられている間、反逆の罪で裁判にかけられ、刑まで執行されたのだという。そういった状況を鑑みれば、仲間が誰ひとり欠けることなく生き残れたのはむしろ幸運ですらあった。
一人になりたいと言い残して森の奥へ向かったユウナの様子が心配だったが、ティーダと共に戻った時には普段の気丈さを幾分取り戻していた。
旅に加わった頃はどこか頼りなかった少年が、今やガードという枠を越えてユウナの支えになっている。そのことを、改めて実感する。
「夜が明けたら、出発します」
それが、ユウナが出した結論だった。
その答えを、無意識のうちに予感していたように思う。彼女の揺るぎない眼差しは、確かにブラスカの面影を宿していた。
彼女はきっと、何があろうとザナルカンドに辿り着く。キルヒェは、記憶を取り戻して初めて、アーロンが強引なまでに旅を続けようとする理由を悟った。賭けたかった───いや、賭けねばならなかったのだ。真実を知ったユウナと、ティーダが選び取る未来に。
全員の顔を順に見渡したユウナの視線が、最後にキルヒェで止まった。どこか探るような、何かを確かめるような、そんな表情だった。
彼女が言わんとしていることは分かる。いずれにせよ、折を見てきちんと説明したいと思っていた。静かに頷き返して、キルヒェは口を開く。
「みんな……少しいいかな。ちゃんと、話しておきたくて」
仲間たちも内心気になっていたのだろう。突然の話に疑問を呈する者はなく、それぞれがどこか納得した様子で手頃な場所に腰を下ろす。
「結論から言うと、私はみんなが言う『キルヒェ様』だった。あのスフィアに映っていたのは……私」
キルヒェは、これまでの出来事を掻い摘んで話した。出自やシーモアとの出会い、召喚士の旅とガードの死。そして、ブラスカ達との旅のこと……。
唯一、究極召喚の真実については話さなかった。彼らには、他ならぬ自分の目で確かめて判断して欲しい───アーロンはそう考えている。キルヒェも同じ気持ちだ。
「───結局、『シン』に接触したところで、ブラスカさんを助けることは出来なかった。それどころか、自ら危険に飛び込むような真似を……。あの瞬間、自分の身に何が起こったのか分からない。けど、それがきっかけで記憶を失ったんだと思う」
そう言って、キルヒェはアーロンに視線を向ける。わずかな思案の後、彼はおもむろに口を開いた。
「あの時、俺は地上から飛び立つお前を見ていた。しかしブラスカが『シン』にトドメを刺す瞬間、何かが爆ぜるような閃光と共に、お前は忽然と消えた。その後、消息を掴もうと試みたが……結局、それきりだった」
召喚士の力を使って『シン』に接触したことで、転移や毒気といった影響が通常よりも強く作用したのだろうか。
突発的な閃光の理由は分からないが、心当たりがないわけではない。あの黒いもやを纏った存在を認識した瞬間、何かに弾かれるような強い衝撃に襲われた。その正体は、未だ明確ではないけれど。
「……とりあえず、今話せるのはこのくらいかな。いろいろ、驚かせちゃってごめん。でも、私がみんなと旅したキルヒェであることに変わりない。だから、今まで通り接してくれると嬉しいな」
そう締め括ったキルヒェの左肩に、ふと温かいものが触れる。視線を向けると、隣に座っていたユウナがキルヒェの肩口に顔を埋めていた。彼女にしては珍しい、まるで子供のような仕草で。
「ユウナ?」
声を掛けると、ユウナは細い腕を伸ばしてキルヒェに縋り付いた。
「わたし……知らなかった。キルヒェが父さんのこと、そんな危険を冒してまで守ろうとしてくれたなんて……」
細く震える声に、キルヒェは堪らずユウナを抱き締め返す。
「ユウナとティーダの話、たくさん聞いたよ。まさか、こんな風に一緒に旅できるなんてね……」
顔を見たことすらなかった彼らのことが、ずっと気がかりでならなかった。たった一人の父親を失った子供たち。あんな無謀なことをしなければ、せめてこの十年を共に過ごすことも出来たかもしれないのに。
「これからも……ガード、お願いできますか?」
少し身を起こして、ユウナはキルヒェを見つめた。深い海のような青と、アルベド族特有の緑。それぞれの願いを背負った瞳が、森が放つ淡い光を受けて輝いている。
「何言ってるの、当たり前でしょう」
そう言って笑ったキルヒェは、潤んだ声をごまかすように、彼女の背に回した手に力を込め直した。
「なあ、キルヒェ」
ティーダが、珍しく遠慮がちな声を上げる。
「十年前にもガードやってたって言ってたよな? でも、ユウナの親父さんのガードだったことは覚えてなかったんだろ? じゃあ、それって……」
彼の疑問はもっともである。十年前に旅をしていた、ブラスカではない召喚士。それはおそらくキルヒェ自身のことだ。だが、それを決定づけるには、記憶の混乱が起こった理由を知らなければならない。
「私にも、まだ分からないことがたくさんあるんだ。だから……確かめに行こうと思う。たぶん、答えはこの森の中にあるから」
話を終えたキルヒェは、振り返って木立の合間へと目を向けた。こうしている今も、確かに感じるのだ。この向こうでキルヒェを待っている、彼女の気配を。
同行を申し出たアーロンと二人、森の深部へと足を進める。
スフィアの泉より更に奥、一見して何の変哲もない茂みの一部に違和感を覚えて立ち止まった。簡易的な結界によってカモフラージュされているが、人がやっと一人通れる程度の細い小径が続いているようだ。
水晶の草葉を掻い潜って進んだ先に現れたのは、神秘的な森の中でもひときわ異質な光景だった。
淡い光を放つ祈り子像。鮮やかな羽毛を纏った女性の背中を模したレリーフが、大きな円状のスフィアの中に納められている。
ふと、その傍らにひっそりと置かれている花束に気付く。とうに枯れ、色褪せてはいるが、完全に朽ちることなく形を保っていることから、供えてからそれほど月日が経っているわけではなさそうだ。
この花を手向けたであろう人物の顔が脳裏を過る。と、俯いていたキルヒェの視界の隅に、ふわりと幻光虫が舞い集った。
「───やっと、ちゃんと話が出来るね。キルヒェ」
目の前に浮かび上がったのは、紛れもないフィオの姿だった。
一目でいいから会いたい。会って、その声をもう一度聞きたいと、どれほど願ったことだろう。姿も、声も、十年前と少しも変わらない。
名前を呼び返そうとしたが、出来なかった。込み上げる感情に喉元を締め上げられ、音にならない吐息が虚しく漏れる。
そんなキルヒェの肩を、ふいに皮手袋の感触が包んだ。
「……フィオ、と言ったか」
キルヒェに寄り添うように並び立ち、代わりに言葉を発したアーロンに、フィオはそっと会釈を返した。
「キルヒェのこと、ありがとうございます。それから……ごめんなさい」
「礼を言わねばならんのは俺達の方だ。本来ならば、こうして再会することも叶わなかっただろうからな」
フィオは曖昧に微笑んだだけだったが、その無言が肯定を意味していることは分かった。やはり、『シン』との接触時にキルヒェを救ったのはフィオだったのだ。
「正確に言えば、私が介入しなくてもキルヒェは一命を取り留めていたの。でも、肉体だけ助かってもだめ。究極召喚が『シン』に成り代わる衝撃に負けて、精神が粉々になってしまう。それを元に戻すには、壊れた記憶を再構築する必要があった」
そう言って、フィオは一度口を噤む。瞬きの落ちる速度には、わずかな躊躇いが感じられた。
「完全には無理でも、頑張ればある程度は復元出来たと思う。でも、私はあえてそれをしなかった。代わりに、架空の記憶で満たしたの。『シン』を構成していたたくさんの幻光虫から、誰かのものに似た、けれど誰のものでもない……そんな記憶を作り出して」
フィオの話を聞きながら、キルヒェは異界での出来事を思い返す。何も映し出さなかった空間。自分の半生だと信じていたものは、フィオが作り出した幻だった。本来の記憶を取り戻した今、それをやっと認識することが出来る。
フィオの行動の理由を、キルヒェも、そしてアーロンも問わなかった。
もし自分が彼女の立場だったら、やはり同じ選択をするかもしれない。辛い離別に満ちた記憶を捨て、新たな人生を歩んで欲しい。それがたとえ、自分や他の大切な誰かを忘れることであっても。
「それから、ここで……ずっと、ひとりで待ってたの?」
やっと絞り出した声は、情けなくなるほど弱々しく掠れていた。
雷平原でメイチェン老人が話していたのは、間違いなくフィオのことだろう。ガードとして旅をすることは、死を覚悟することでもある。しかし、それにしても彼女の言動は度を越しているように思えた。『死人は祈り子になれるのか』……まるで、自分の死を予見していたかのような。
「最初から、祈り子になるつもりだったの? だから、異界には送らないでって……」
最後まで言い切ることが出来ず、キルヒェは胸元で手を握り締める。肩に置かれた手に込められた力が、わずかに強まったような気がした。
その様子にやんわりと目を細めながら、フィオは場違いなほど穏やかな声で切り出す。
「最初から、ってわけじゃないよ。でもね、私……ガードになるって決めたくせに、本当はキルヒェを守り切る自信がなかったんだ。自分に力がないこと、分かってたから。それで、ある時ふと思ったの。祈り子になれば、キルヒェの力になれるんじゃないかって。……結局、ジァンが耐え切れずに像を持ち出しちゃったんだけどね」
フィオは足元の花束に視線を落とす。やはり、これを持ってきたのはジァンなのだろう。
どうして、そこまで自分の身を捧げられるのか。やるせない想いに固く拳を握るが、召喚士であった自分にそれを咎める資格はない。
「そんな顔しないで。私が死んだのは、自分の弱さのせい。祈り子にだって、私が望んでなったんだから。キルヒェの気持ちも考えずに勝手に記憶を奪って、むしろ恨まれてもおかしくないんだよ」
「恨むなんて……そんなこと、するはずない……!」
引き攣れた喉が絞り出した叫びが、澄んだ空気を震わせる。命を懸けて……いや、懸けるべき命を失ってもなお自分を守ろうとしてくれたフィオを、どうして恨むことが出来ようか。
「……人は物事の形や、結果にばかりに囚われてしまう。でもね、魂だけの存在になって、やっと分かった。本当は、どんな小さなことにも……一見何気なく思える瞬間にすら、同じだけの価値があるんだって。傍から見れば、私は道半ばで命を落とした不運なガード。だけどそんなの、単なる結果に過ぎない。私は確かに生きて、ブリッツをやって、キルヒェと過ごした。その事実の方が、何倍も大事なんだよ」
時間という自然の節理から永久にはじき出された彼女の精神は、少女の姿に対してあまりにも達観している。けれど、そう言って笑ったフィオの表情は、確かに生前の無邪気さを宿していた。快活で朗らかな、あの笑顔。
「ねえ、私を受け入れてくれる? 今度こそ、キルヒェの力になりたいんだ」
フィオが淡く透き通った手を差し伸べる。無論、そのつもりだ。だがその前に、訊いておかねばならないことがある。
「その前に……ひとつだけいいかな。架空の記憶だってフィオは言ったけど、私はその中に、確かにフィオの存在を感じた。ブリッツが好きなのも、ガードとして旅をしたことも。それに、あの歌を覚えてたことだって……」
自分の口から自然と放たれた台詞に、違和感を覚えたこともある。確か、リュックと話していた時のことだ。「数で勝負できる自分たちが少数派を攻撃するのは、弱い者いじめみたいでカッコ悪い」───昔、フィオが同じことを言っていた。
「妹がいたこと、前に話したよね。『シン』の襲撃で離れ離れになったって。記憶を失ってる間、一度だけ夢を見たんだ。荒波に揉まれながら、誰かの手を必死に握り締める夢。あれは……私の記憶? それとも……」
ずっと、どこか似ているような気がしていた。けれどそれは願望だ、フィオに妹の面影を重ねているに過ぎないのだと自分を戒めていた。あの状況で生き残っているはずがない。たとえ生き残っていたとしても、体の弱かったあの子がブリッツの選手になれるはすがない……そう言い聞かせて。
けれど、瞳の色とその奥に宿る利発さに、どことなく見覚えがあった。髪はもう少し暗い色だったはずだが、成長とともに変わることもあるだろう。日に焼けて明るくなったのかもしれない。
そうやって、共通点を探そうと思えばいくらでも出来る。それもまた事実だった。
「そっか……私、祈り子としては新人だから。あんまり上手に出来なくて、自分の思念も混じっちゃったんだね。キルヒェの名前だって、きっと私自身が忘れることを拒んだから……」
独りごちるように呟いて、フィオは俯かせていた顔を再び上げる。引き結んだ唇が、彼女の意志が簡単に覆せるものではないことを物語っていた。
「……ごめんね。その質問に答えることは出来ない。肯定すれば、キルヒェは同じ人間を二度失ったことになる。否定すれば、二人の大切な人を失ったことになる。私はどっちの悲しみも、キルヒェに味わわせたくない
「うん……分かった」
いずれにせよ、フィオが大切な人であることに変わりはない。キルヒェは頷いて、一歩進み出ると両手を彼女に向かって伸ばす。
「覚えてて……キルヒェ」
空間を滑るように浮遊しながら、フィオはゆっくりとキルヒェに近付いた。永遠に成長することのない少女の体が、触れたところから光の粒となってキルヒェの中に吸い込まれていく。
「私はいつも、キルヒェの味方だから……」
今際の際と同じ言葉を残して、フィオは消えた。
いや、彼女の存在は今もこの胸の中に息づいている。むしろ今までよりずっと近く、深い繋がりを感じることが出来る。
「ありがとう、フィオ……今度こそ、一緒にザナルカンドに行こう……」
キルヒェは自分自身の体を抱き締めた。
記憶、そして魂。どんなに求めても欠けていた部分が、ようやく本来あるべき姿を取り戻したような気がした。
「あのさ……ありがとうね。フィオのこと、覚えててくれて」
拠点に戻る途中、キルヒェはふいに足を止めた。
仲間たちに事情を語った時、キルヒェはフィオの名前を出さず、単に「自分のガードが」と説明しただけだった。
けれど、アーロンは覚えていたのだ。十年前、ただ知っておきたいと言って聞いただけの、見ず知らずの少女の名を。
「召喚士として旅立つ前の日、あの子に聞いたんだよね。もし『シン』がいなかったら何がしたい、って。湿っぽくしたくなかったのに、逆に困らせちゃって。それで私、自分だったら歌とか歌って呑気に暮らしたいー、なんて言って……。きっと、そのことを覚えててくれたんだろうね」
記憶を失くし、別の人間として歩んだ十年間は、フィオがキルヒェだけに与えてくれたナギ節だったのだろう。
自分が『シン』を倒すつもりでジョゼを発ったはずが、実際は多くの人に支えられてばかりだった。
「……ルカでお前と再会した時、旅に連れ出すことに迷いが無いわけではなかった」
「へえ? とかいう割に、強引だった気がしますけどねえ?」
キルヒェが茶化すように言えば、アーロンは小さく肩を揺らして笑った。
「俺だって、見たことのない顔で笑うお前を目の当たりにして、わざわざ非情な現実を突き付けてやろうと思うほど鬼ではないさ。しかし、このままではかつてのお前に顔向け出来ないと思ってな。……いや、ただの言い訳に過ぎんな。すべて、俺の望んだことだ」
「言ったでしょ。一緒に来たこと、後悔なんかしてないって。記憶が戻っても、その気持ちは変わらないよ」
あの時アーロンと再会しなければ、キルヒェは今も平穏な日々を送っていただろう。しかし、仮初の人生は穏やかであると同時にどこか空疎でもあった。それに、何かの拍子に記憶を取り戻す可能性も否定出来ない。すべて終わった後に思い出して、後悔に苛まれるよりずっと良い。
「それにしても……十年、かあ」
あっという間だったような気もするが、あらゆることを様変わりさせるには充分すぎる年月だった。
ナギ節が始まり、そして終わった。ユウナとティーダは成長し、今度は自分たちが『シン』を倒すべく旅をしている。そんな中で、外枠たる世界だけが不自然なまでにあるべき形を保っている。
ふと、泳がせていた視線を目の前の男に移した。
彼がなぜ死人になったのか、直接的な理由を聞いたわけではない。けれど、薄々察してはいた。何も変えられないと分かっていても、立ち向かわずにはいられなかったのだ。ブラスカを死なせたくない一心で『シン』に飛び込んだキルヒェと同じように、彼もきっと。
「お前が気に病むことはない。他の選択など取りようがなかったんだ。俺も、お前も」
「分かってるよ、分かってるけど……」
留めようとする唇を押し開いて、後悔の言葉が溢れそうになる。アーロンが弱音を嫌うのは、その無力さを誰よりも思い知っているからだ。そんな彼に気持ちをぶつけたところで、余計に苦しめることになる。それは分かっているけれど。
「……それでも、一緒に居たかった」
共に時を過ごせたとして、何を変えられたわけでもないのかもしれない。だとしても、同じ悲しみを分かち合うことくらいは出来たはずだ。
なんて……なんて残酷な仕打ちなのだろう。こうして再び会えたというのに、彼はすでに死人だなんて。
この十年で、アーロンの容姿は大きく変化した。それは右目に走る傷のせいだけではない。黒く艶やかだった髪には決して少なくない量の白髪が混じり、目元や口元には深い皺が刻まれている。
死人は魂のみの存在だ。偽りの肉体が老いることはない。そうでなければ、ユウナレスカなど今頃見るに耐えない姿になっているだろう。
にも関わらず年齢を重ねているということは、彼の魂がそれを望んだということだ。そして、それはおそらく、過去の己の未熟さに対する憎悪に起因している。
一人の人間が背負うには重すぎる現実を抱えながら、彼はどんな想いでこの十年間を過ごしてきたのだろう。ザナルカンドという、機械仕掛けの見知らぬ土地で。
湧き上がる衝動に抗うことなく、キルヒェはアーロンの首元へと手を伸ばした。少し背伸びをして、その頭を抱えるように自分の方へと引き寄せる。屈強な体は、思いの外すんなりと抱擁を受け入れた。
「ごめん、ごめんねアーロン…… っ」
ふと、懐に差し入れた左腕を抜き払い、アーロンは両の腕でキルヒェの体を掻き抱いた。体格に差があるせいで、抱き締められるというよりはのし掛られているような心地だった。
かつては慎重すぎるほど優しく触れてきた手が、無遠慮に腰を抱きすくめる。その力の強さが、決して口には出さない彼の痛みを訴えているようで、キルヒェは広い背を支えるようにしっかりと抱き締め返した。
以前も、この森で温度を分かち合った。『お前がちゃんと泣けて良かった』───あの時キルヒェにそう呟いたアーロンは、果たして泣くことが出来たのだろうか。
あくまで想像に過ぎないが、彼が涙を流すことはなかったのではないかと思う。とめどない後悔や悲嘆を傷付いた瞼の下に押し留め、きっと、何事もなかったかのような顔をして歩んできたのだ。
おそらく、こうしている今もその頬は乾いているだろう。だから、この涙は彼の代わりに流すのだ。
とめどなく溢れる雫が、触れあった場所から赤い布地に吸い込まれていく。キルヒェの視線の先には、かつて自分が施した修繕の跡が残っていた。たとえその身体が、幻光虫が見せるうたかたの夢だったとしても。衣越しに感じる熱と鼓動は、あの頃と少しも変わっていなかった。