軌憶の旅 Ⅲ
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「───っ!」
何かに弾かれるような激しい痛みと共に、キルヒェは唐突に覚醒した。
目の前が白く染まるほどの目眩と耳鳴り、そして頭痛に吐き気すら催す。しかし、床に蹲って瞬きを繰り返すうち、不快な感覚はだんだんと遠ざかっていった。
五感が次第にクリアになる過程で最初に気付いたのは、自分が涙を流していることだった。頬をしとどに濡らすそれが感情によるものなのか、はたまた生理的なものかは分からない。
浅い呼吸をゆっくりと深めながら、辺りを見渡す。白を基調とした客間。豪勢な生花。確かに見覚えがある。しかし、今しがた見た激流のような記憶と混ざり合って、置かれている状況をすぐに理解することができなかった。
ユウナとシーモアの式に突入し、この部屋に拘束された。魔法は吸収され、武器もない。そんな状況で見つけたのは、マカラーニャの泉で不思議な少女───フィオに手渡されたスフィアだった。
あの中に、十年前の記憶が封じ込められていたというのだろうか。手に持っていたはずのスフィアは跡形もなく消えていた。まるで、己の役目を果たしたかのように。
究極召喚の真実。永劫にわたって続く絶望と、刹那の希望。自分たちはただ、そのシステムの一端を担わされているに過ぎなかった。
そして、これはまだ仮定でしかないが……ジェクトが『シン』である理由は、おそらく。
「ブラスカさん……ジェクト……」
エボンは『シン』にまつわる真実を隠蔽していた。誰もが、それが紛うことなき光であると信じていた。だから躊躇いなく命を投げ打つことが出来たのだ。それなのに……彼らの犠牲は一体なんのためだった?
「アーロン……」
彼がなぜ死人となったのか、そしてどんな気持ちでこの十年を過ごしてきたのか。想像しただけで、身を引き裂かれるような想いが込み上げる。
けれど、その一因はキルヒェにあるのだ。あの時、彼の側にいることを選んでいれば……後悔などいくらしたところで、過去は変えられないと分かってはいるけれど。
「フィオ……」
あの時、『シン』に接近したのを最後に、キルヒェの記憶は途絶えている。けれどその直前、確かに彼女の声を聞いた。
マカラーニャでの接触……今なら、彼女がジァンと結んだ約束の理由が分かる気がする。キルヒェが生きてここに居られるのは、他でもないフィオのお陰だ。
その覚悟に報いるためにも、泣いてばかりはいられない。今度こそ、死の螺旋を断ち切るのだ!
涙を拭って、キルヒェは立ち上がる。
スフィアを起動してから、一体どれほどの時間が経過したのだろう。窓のないこの部屋からは判断することが出来ない。
室内をぐるりと一周する。内壁はしっかりとした造りで、少なくともキルヒェの力で破壊するのは不可能だ。家具も全て固定されており、道具として使えそうなものはない。
兵の巡回を待つか? ……それがもっとも現実的かもしれない。だが、ユウナや仲間たちがどんな状況に置かれているか分からない中、悠長に待っているわけにはいかない。
キルヒェは部屋の中央を広く空けるよう、壁の隅に移動した。可能性は低いが、試してみるまではゼロとは言えない。
深呼吸して心を落ち着かせ、何もない空間に向かって祈りを捧げる。想うは天地を駆ける雷鳴のいななき。紫電をまといし聖なる獣。どうか……この喚び声に応え、力を貸し給え。
遠雷に似た音が室内に響き、中空に淡く発光する魔法陣が浮かび上がる。その境界を突き破って、烈しい電流を伴った幻獣が姿を現した。
キルヒェが初めて心を通わせた召喚獣、イクシオン。十年という時を経てなお、声は届いたのだ。
しかし、なぜ魔法が禁じられたこの部屋で召喚出来たのだろう。
マカラーニャ湖で戦ったアルベドの兵器には、魔法と召喚獣を封印するガジェットが付随していた。ベベルの技術力はアルベド族と同程度、場合によってはそれ以上と考えて間違いないだろう。
つまり、アルベドに出来て、彼らに出来ないはずがない。にも関わらず、魔法だけを封じたことに違和感を覚える。まるで、キルヒェが記憶を取り戻した時だけ脱出できるよう、あえて誂えたかのような───。
キルヒェは首を振り、脳裏に浮かんだ一人の男の顔を打ち消した。今重要なのは、この部屋から出ることだけだ。
雷馬の毛並みをひと撫でする。彼は目を閉じてその手を受け入れたのち、金の飾り枠のついた扉の前に移動した。振りかぶった角を躊躇なく突き刺すと、けたたましい音と共に、扉はまるで薄い合板のように真っ二つに割れた。
イクシオンの後に続き、外に飛び出す。回廊だ。真紅の絨毯を敷き詰めた通路が、左右に走っている。先ほどの音を聞きつけたのか、数人の足音が近付いてくるのが聞こえた。どちらに行けばいいのかなんて分からない。けれど。
純白のたてがみを掴んで、その背に飛び乗る。
武器を携えた僧兵たちが、左右から同時に押し寄せてきた。何かを叫びながら襲いかかってくる男たちを一蹴し、ひらりと跳躍する。
生きて捕えよと命じられているのか、無闇に銃器を撃ってくる者はいない。いくつもの長い廊下を抜け、階段を駆け降りる。巨大な吹き抜けに足を踏み入れると、景色は一気に明るさを帯びてきた。
光源は等間隔に並んだアーチ窓だった。広々としたそのひとつから、外の様子を覗き見る。眼下に広がる海を真っ直ぐ分断する、長い橋。その中間地点に、小さく何かが見えた。異形の魔物と対峙する、一人の人物。あれは……キマリ?
ぐるりと回り込んで、キルヒェはテラスに躍り出た。ここから飛び降りれば、すぐにキマリの元へ駆け付けることが出来るだろう。しかし……。
目も眩む高さに、思わず躊躇する。ヴァルファーレを喚ぶか? だが、そうこうしている間にも背後から兵の気配が近付いてきた。猶予はない。
意を決して、姿勢を低く保つ。
鋼のような蹄が、強く地を蹴り上げた。襲い来る、長い浮遊感。しかし、覚悟していたような衝撃はやって来なかった。どうやらイクシオンが上手く相殺してくれたらしい。
突然現れたキルヒェに、キマリは全く動じなかった。まじろぐことなく眼前を見据え、槍の穂先をひたと敵に向けている。
「ユウナは!?」
「先に行った」
簡潔な答えに、ひとまず安堵する。他の仲間たちがどうなったか分からないが、少なくともユウナは無事ということだ。さしずめ、彼女を逃がすためにキマリが残ったのだろう。
彼と共闘すべくイクシオンの背から降り立った、その時。
「思い出したか……すべてを」
機械のような合成的な音声が空気を震わせた。その発生源に目を向け───言葉を発した異形の姿に、キルヒェはしばし言葉を失う。
青白い金属の肌に、髪と一体化した巨大な脾。背後には、引き抜いた脊椎、あるいは節足動物のような幻体を従えている。あまりに変わり果てていたが、それは紛れもなく。
「シーモア……」
死人となった彼は自らの憎しみに呑まれ、意志を持つ魔物に成り果てたのだ。こんな筋書き、一体誰が望んだというのだろう。
キルヒェが静かに頷くと、イクシオンは亜空間へと消えた。丸腰の状態で、迷いなくシーモアに近付く。その様子に何かを察してか、キマリは槍を下げてキルヒェの背後に控えた。
「……もっと早くあなたに会えていたらって、私もそう思うよ」
シーモアの、生者としての最後の言葉。その意味が今になってやっと分かった。とめどない後悔は、やがて強い怒りの炎となって自分自身を焼く。
「悔しいよ。何も知らずに別れなきゃいけなかったことも、あなたが辛いときに側にいられなかったことも、大人になったのに、何ひとつ変えられてないことも……何もかも」
『誰もが笑って暮らせる世界に』───そんな理想は、所詮、子供が抱いた幻想に過ぎなかった。
けれどもし、あの時、この手を離さずにいられたら。泣いて喚いて母を困らせてでも、二人を引き留めていたら。旅のどこかで、彼と再会出来ていたら。もっと早く、記憶を取り戻していたら……。
後悔は過去を救わない。しかし、素直に
「生ある限り、人は苦しみ、嘆き、傷つけ合う。真に人を冒すのは、『シン』などではない。『人』なのだ。たとえこの世から『シン』が消えても、人の業が改まることはない。こんな世界なら、私は……。私は、生まれたくなどなかった……!」
魂から放たれた慟哭が、肌を震わせる。
彼がどんな人生を歩んできたか、そのすべてを知ることは出来ない。だが、ザナルカンドの幻光はその一部を記録に残していた。
「私を召喚して『シン』を倒しなさい」───母は究極召喚の真実を知っていた。自らの死期を悟った彼女はキルヒェをジョゼの寺院に預け、シーモアと共にユウナレスカの元へと向かったのだ。
苦痛に満ちた彼女の夢のかたちを、キルヒェも実際に目にした。肉体を失ってもなお、彼女は血の涙を流して苦しみにあえいでいた。
「明日なんか来なければいいって思いながら生きてる人も、きっとたくさんいる。私も……どうして自分が生きてるのかって、そればかり考えてた」
死は救済。そんな思想を否定することは出来ない。
あの日を境に、シーモアとキルヒェの道は分たれた。長年闇の中に這いつくばり、泥水を啜ってきた彼に比べれば、キルヒェの人生は光に満ちていただろう。そんな自分が何を言ったところで、幸運な勝者がのたまう綺麗事にしかならない。
「それでも、あなたと出会わなければ良かったとは思わない。たとえそれが、悲しみの結果だったとしても。……シーモアも、同じように言ってくれたよね?」
生を否定することは、そんなささやかな喜びすらも否定するということだ。バージでの生活の記憶は美しいばかりではない。しかし幼いキルヒェを生かしたのは、そんな埃と苦汁の中に光る砂金の一粒だった。それを大切に抱いてきたから、今の自分があるのだ。
その輝きは、誰にも───たとえ同じ記憶を持つシーモアであろうと、奪うことは出来ない。
「幸福は、偽りの希望……その先にあるのもまた、絶望でしかないのだ。それでも、せめて君にだけは、生きていて欲しいと思っていた。だが、それは間違いだった! 命という制約に囚われた肉体を捨て、私は悟ったのだ。やはり、死こそが安息なのだと……。私は君の手によって永遠となった。生の苦しみから解放され、完全な存在となったのだ!」
異形の瞳が表情らしき色を宿すことはない。しかしどんな姿になろうと、キルヒェから見たシーモアは変わらなかった。聡明で繊細な魂を持った、あの優しい少年のままだった。
「今度は君の番だ、キルヒェ。命という頸木から解き放たれ、一切の苦しみのない世界へ……悠久の時を、共に歩もう」
鉤爪に覆われた手が、ゆっくりと目の前に差し伸べられる。あらゆる苦痛から解放するために、彼はこの上なく優しくキルヒェを殺すだろう。だが、その救済を受け入れるわけにはいかない。この先どんな苦しみが待っていようと、成し遂げたい想いがあるから。
「この世に生を受けた限り、人は必ず同じ場所に行く。私も、あなたも……。でも、それは今じゃない。私はまだ、死ぬわけにはいかない!」
強い意思を込めてシーモアを見つめる。彼もまた、キルヒェを見つめ返す。相容れぬ信念がフリクションを起こして、目の奥が熱くなった。それは後戻り出来ない、確かな決別を意味していた。
シーモアの手に力が籠る。キマリが駆け寄って、二人の間に割り入った。戦いの気配に、キルヒェも魔力を解き放とうとした───その時だった。
「キマリ!」
「キルヒェっ!」
いくつもの騒がしい足音が駆け付ける。名前を呼ぶ声が、妙に懐かしい。
キルヒェは振り返り、仲間たちの顔を見留めた。ユウナと、彼女が心から信頼するガードたち。その一番後ろを鷹揚に───横柄と言ってもいい───駆けてくる、赤い衣の男。
「受け取れ、キルヒェ!」
鋭く叫んで、彼は何かを投擲した。
真っ直ぐに飛んでくるそれを、迷いなく掴む。美しい漆塗りの鞘は、驚くほどしっくりと手に馴染んだ。見紛うことなどない。フィオが遺した……ただ一つの。
「少し見ない間に、いい面構えになったじゃないか」
抜き身の太刀を構えた男が追い付いて、キルヒェの横に並び立つ。
「誰かさんのお陰ってやつ?」
低い声に口の端を上げて応えながら、キルヒェは鞘から剣を引き抜いた。
「……話したいこと、たくさんあるんだ。すっごく長くなると思うから、今から覚悟しててよね」
隣で男が笑う気配を感じた。どことなく機嫌が良いのは気のせいではないだろう。
滲みそうになる涙には気付かぬふりをして、かつての友と対峙する。今の自分に出来るのは、彼を眠らせることだけだ。その命を奪ったこの手で、せめて、安らかに。
眠れぬ夜に背を撫でてくれた手のあたたかさを、一生忘れることはないだろう。スピラの深淵に囚われた少年の、悲しみの歴史を終わらせるために───腕に伝わる剣の重みを確かめて、キルヒェは駆け出した。