軌憶の旅 II
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夜が明け、また朝が訪れる。
現実だと思っている世界こそが夢で、目が覚めたらフィオとジァンが変わらぬ笑顔でそこにいるのではないか……浅い眠りがもたらす微睡みは、そんな都合の良い錯覚を引き起こす。
しかし現実は非情だ。瞼を開けば、そこはすでに見慣れつつある旅行公司の一部屋だった。キルヒェがひとり寝台に横たわっているだけで、他は誰もいない、大した私物すらもない、虚ろな空間だ。
昨夜、ブラスカ達はその足で公司に宿泊するというので、キルヒェもこれまで取っていた部屋にもう一泊することになった。
今日から見知らぬ男たちと旅をするのだと思うと不思議な気持ちだった。つい何日か前までは、フィオ達と───。
ともすれば悲観的に傾きそうになる思考を寸でのところで引き止め、身支度のために鏡台の前に立つ。マカラーニャ湖で髪を無造作に切ったままだったことを思い出し、せめて見苦しくないようにと毛先を整えようと思い立った。
寝衣を脱ぎ捨て、昨日買い揃えたばかりの旅装に袖を通す。所持品はほとんど売り払い、その金で軽装備を一式調達したのだ。手元に残したのは小刀とフィオの剣、子供たちに貰ったお守りくらいだ。
本来なら、寺院から賜ったものはきちんと返すべきなのかもしれない。だが、今後のためにこうするのが良いと思った。装飾品の類はそれなりに高値で売れたため、しばらくは何が起こっても心配ないだろう。
鏡に映った自分は、もう召喚士だったようには見えない。短い髪と軽装に親しかった少女の面影を見出し、振り払うように首を振った。
これからは、ガードとして旅をする。自分はこの身をもって、彼女がその人生で成し遂げられなかったことを全うしようとしているのだろうか。そんなことをしても、あの子は帰って来ないというのに。
ロビーに向かおうと廊下に出た瞬間、印象的な赤い着物を纏った長躯が目に入った。
同じくブラスカのガードである彼は帯をきちんと締め、帯剣までしている完璧な出立ちで、もしや時間を勘違いしていただろうかと平静を装いつつも内心慌てる。出発までにはまだ余裕があると思っていたのだが……。
そんな懸念をよそに、アーロンはキルヒェを一瞥すると視線だけでロビーの方を指し示す。
「支度が出来たら表に出ろ」
その時、ドア越しに微かながらもジェクトのいびきが聞こえてきた。どうやらキルヒェが寝過ごしたわけではないらしい。しかし、だとすると一体何の用だろうか。
そうこうしている内に、アーロンは踵を返してさっさと公司の外へと向かってしまう。あれこれと思案するのはやめて、ひとまず彼の後を追うことにした。
早朝の冷え込んだ空気が肌を刺す。建物の前の開けた場所でキルヒェに向き合うと、アーロンはその背から身の丈を越えるほどの太刀を抜いて告げた。
「剣を構えろ」
その瞬間、ああ、と思い至った。彼は最初からずっと、キルヒェの加入に反対していたのだった。
このアーロンという男については、僧兵だったということ以外何も知らない。だが、彼が自分を快く思っていないことは分かる。ブラスカに対し、敬慕の念を抱いていることも。おそらくは、キルヒェにブラスカを守れるだけの実力があるか見極めたいのだ。
キルヒェは黙って腰に提げた剣を引き抜く。
剣を持つこと自体は初めてではない。昔は他の子供らと一緒に、面倒見の良い討伐隊員によく稽古を付けてもらった。フィオがガードになると決めてからは、修行の合間にではあるが、彼女と共に鍛錬にも参加した。
だが、腕に自信があるかと言えば決してそうではない。自分の身は自分で守るとは言ったものの、つい数日前までは守られる側の人間だったのだ。
緊張に汗ばんだ手でグリップを握る。相手は正式な訓練を受けた元僧兵。剣を交えずとも、キルヒェが勝てる相手ではないことは分かる。
それでも、やるしかない。使えないなら置いていけと宣言したのは他でもない自分自身だ。足手纏いだと判断されれば、決意のすべてが泡となる。
アーロンは未だ構えを取らない。抜き身の太刀を肩に担ぎ、わずかに腰を落としているだけだ。
並の人間にとって、その姿勢から即座に攻撃を防ぐことは不可能に近い。重量のある得物であれば尚更だ。
しかし、彼にはそれが出来ると直感的に感じ取った。そのまなざしのように真っ直ぐな黒髪を蓄えた頭部は少しも振れることなく、安定した重心を保っている。頭の先から足底まで神経が張り巡らされていて隙がない。
キルヒェは意を決し、一歩踏み込んだ。
もちろん、これで決着をつけようなどとは微塵も思っていない。彼に勝てる要素など皆無に等しいが、もし可能性があるとすれば手数、つまりスピードだ。
先ほどの分析と矛盾するようだが、継ぎ目のない無敵の鎧など存在しない。一撃では無理でも、攻撃の手を緩めなければ、いつかは隙が───。
「……ッ!」
振り下ろした刃は呆気なく籠手で弾かれる。結果自体は想定した通りだが、その衝撃は思ったよりずっと重い。利き手に痺れるような感覚を得ながらもすぐさま追撃に移るが、ひらりと躱される。
三撃目。刃区に引っ掛けるようにして受け止めた剣を、アーロンが振り払った。大きくバランスを崩したキルヒェは、よろめいて片膝を着きそうになる。
そこへ間髪入れず、太刀が振り下ろされる。手加減しているのは一見にして分かったが、受け止めれば重量の差で負かされることは明白だ。咄嗟に避けて、薄く氷の張った地表を転がる。
なんとか起き上がり体勢を立て直すも、その頃にはすっかり息が上がってしまっていた。
「どうした、もう終わりか?」
太刀を肩に担ぎ直しながら、アーロンはキルヒェを見下ろす。その呼吸はほんの少しも乱れていない。
「まだだっ……!」
何度剣を打ち付けても、堅固な守りが崩れることはない。キルヒェの攻撃など子猫の戯れに等しいとばかりに、一切顔色を変えることなく淡々といなし続ける。
一度退いて距離を取ったキルヒェは、深く呼吸を整えると、再びアーロンに向かって行った。今度はすべての防御を捨て、隙だらけの体制で、真正面から。
「捨て鉢か。だが……」
攻撃を防ごうとアーロンが太刀を構える直前、片手を翳した。瞬間、バチ、と激しい音を立てて、青白い火花のような電流が散る。
「───!」
激しい光に目が眩んだ彼の動きが一瞬止まる。隙を見て大きく踏み込むと、切っ先を突きつけた。
「貴様……! 魔法を使うなど卑怯だぞ!」
「だとしても……私の勝ちだ!」
肩で息をしながらも、キルヒェは声を張る。
禁止された覚えはないが、このような模擬戦で使うのに相応しい手ではないと認識はしていた。しかし、それだけ必死だったのだ。
「勝たなきゃ認められないなら……どんな卑怯な手を使ってでも、勝つ」
魔法が使えることを示したかったというのもある。ガードの二人───アーロンとジェクトからは、せいぜい人並みの魔力しか感じなかった。旅の中で、この力は少なからず助けとなるはずだ。
しばらくの間、両者一歩も動かず睨み合っていた。先に動いたのはアーロンの方だった。深い溜め息と共に構えを解く。
「全く……何をムキになっているのやら。俺は勝たなければ認めないと言った覚えはないんだがな」
その様子に、キルヒェもやっと剣を下ろす。しかし、緊張は未だ解けない。禁じ手を使ったことに対するばつの悪さが、多少なりとも遅れてやってきた。当然、後悔はないけれど。
「まあ、少なくともあいつのようにずぶの素人というわけではなさそうだ」
あいつ、というのはジェクトのことだろうか。外見は屈強そうに見えるが、ああ見えて戦闘は不慣れなようだ。
「だが、余計な力を入れ過ぎだ。体が硬くなるとそれだけ反応が遅れる。ほら、構えてみろ」
突然の助言に若干戸惑い呆然とする。しかし、早くしろとせっつかれ、言われた通りに構えを取る他ない。
「少し顎を引いて脇を締めるんだ。重心は少し落とす。……そうだ。しかしそれより落としすぎてはいけない。お前の場合、身の軽さを生かして柔軟に重心移動が出来たほうが良い。若干、前傾の姿勢を取ってみろ。……少し、触るぞ」
律儀にも了承を取った上でアーロンはキルヒェの肩や腰に触れ、体勢を整える。
革手袋に包まれた大きな手。その触れ方は、言動の厳しさに反して、まるで壊れものでも扱うかのように慎重だ。直し終わるなり早急に離れていく様は、キルヒェの目にひどく遠慮がちに映った。
「まずは基本の型を覚えろ。上手く速度が乗るようになれば、力の弱さといった欠点はカバーできるようになる。とはいえ、もっと筋力は付けるべきだがな。道のりは長いぞ、せいぜい精進することだな」
言い終えるなり、アーロンは太刀を収め、背を向けて立ち去ろうとする。しかし、公司の扉を開けようと手を伸ばしたところで、顔だけ振り返ってこう続けた。
「着いてくるなら、最低限の仕事はしてもらうというだけだ。お前を認めたわけではない。勘違いするなよ」
アーロン一人を迎え入れて、扉は閉まる。途端、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、へなへなと座り込みそうになるのを膝に手を当ててどうにか耐えた。
何かと理由を付けてキルヒェを追い出したいのかと思いきや、そういうわけでもないのかもしれない。
ともあれ、ひとまずは身の置き場が決まったわけだ。今後については自分の実力次第、というところではあるのだろうが……。
やっと起きてきたらしいジェクトが立てる騒がしい音を遠耳に聞きながら、キルヒェは小さく息を吐いた。