軌憶の旅 II
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一夜明け、キルヒェたちは再び村を目指して出発した。
休憩を挟みながらもチョコボを駆ること数時間。集落の姿はまだ見えないが、地図によると、この森林地帯を抜けた先が目的地らしい。
穏やかな木漏れ日が降り注いでいた森は、足を進めるに従いその様相を変えてきた。衝撃波によって薙ぎ倒された木々や抉れた大地、押し寄せた激流の痕跡が『シン』の襲撃の鮮烈さを物語っている。そして……村に近付くほどに増していく、重く禍々しい災厄の気配。
不穏な空気を感じ取ってか、どこか落ち着きをなくしつつあるチョコボを宥め、徒歩での移動に切り替える。
「トマさん、私たちの側、離れないでくださいね」
「ありがとうございます。ですが、私も出来る限りのことはするつもりです」
キルヒェが隣を歩くトマに気遣わしげな視線を向けると、彼は腰に提げた剣鉈の柄を握りしめて微笑み返した。先頭をジァン、次いでフィオが、キルヒェとトマを守るように位置取って進む。
突如、ウウ、と低い唸り声が聞こえた。と思った次の瞬間、草陰から野犬のような魔物が飛び出す。ジァンがすかさず切り捨てて事なきを得るが、おそらくこの先は───。
疎らになりつつある木々の向こうに村が見えてきた。正確には、かつて村だった場所の姿が。
警戒するキルヒェたちを嘲笑うように浮遊するいくつもの幻光虫。空間が歪み、敵愾心をむき出しにした魔物たちが姿を現す。その内の一頭が飛び掛かってくると同時、空気は一変した。
次々と襲い来る爪牙。前衛をフィオとジァンが担い、キルヒェは彼らを補助しつつ隙を見て魔法攻撃を、トマはキルヒェの側に控えつつ、フィオたちが取りこぼした敵を処理する。
しかし、そんな戦闘のリズムに、次第に乱れが生じてきた。
前衛の二人が大型の魔物に手こずっており、雑魚を捌き切ることが出来ず、トマの負担が増えている。キルヒェも懐から護身用の小刀を取り出して応戦するが、このままではいつ崩されてもおかしくない。
もっと威力の高い魔法で広範囲を攻撃出来れば良いのだが、そのためには一時的に無防備な状態にならざるを得ない。召喚ともなれば尚更だ。
僅かでいい、集中できる時間を確保できたなら。しかし、ギリギリの攻防が続いている現状、たとえ一瞬であろうと戦闘から離脱するのはリスクが高すぎる。何か手立ては───思考を巡らせていたその時、フィオが叫んだ。
「キルヒェ! 召喚して!」
「でも……!」
「大丈夫だから! ……早く!」
わずかに逡巡した結果、フィオを信じることにした。危険だが、他に道はない。一歩下がって目を閉じ、精神を研ぎ澄ませる。
辺りに雷鳴が轟き、暗雲が立ちこめる。
キルヒェの祈りに応え、次元の彼方より白いたてがみを持つ美しい獣が姿を現した。湾刀のように反り返った角を振りかざし、鉄の蹄で地を踏み鳴らして戦場を駆け抜け、次々と魔物を蹴散らしていく。
周囲の敵を一通り遠ざけたイクシオンは、歩みを止めると大きく天を降り仰いだ。避雷針のごとく屹立した角の尖端に、白くまばゆいいかづちが収束していく。キルヒェが高く杖を掲げた瞬間、光は弾け、高らかな嘶きと共に聖なる鉄槌が降り注いだ。
役目を果たしたイクシオンが虚空に消えると同時、辺りに静寂が訪れる。
先ほどまで異形の者たちが猛り狂っていたそこには、今はただ無数の幻光虫だけが揺蕩っていた。自らの死を受け入れられず、迷い、彷徨っていた魂は、本来あるべき無垢な姿へと戻ったのだ。
「フィオ!」
ジァンの切迫した声に、思考は現実へと引き戻される。
「フィオ! しっかりしろ!」
何が起こっているのか、瞬時に理解することが出来なかった。
真っ先に目に入ったのは、地面に横たわるフィオと、その傍に膝を付き彼女の名前を叫ぶジァンの姿。フィオの顔は苦痛に歪んでいる。原因を探して視線を彷徨わせれば、胴部の刺傷とその周囲を赤黒く染める何かが目に留まった。
それが何かをはっきりと認識できぬまま、おぼつかない足取りで近寄り、跪いて手を翳す。
「フィオ……?」
引き攣って震える喉が、かろうじてその名を呼んだ。治癒魔法の柔らかな光が傷口を包み込む。
ジァンも、トマも、ありったけの回復アイテムを集めて治療に当たるが、彼女が復活する兆しはない。
「……ごめ……ん、キルヒェ……」
不規則な呼吸の合間に、フィオはキルヒェを呼ぶ。そんなささやかな会話すらも彼女の生命力を奪ってしまうようで、力無く垂れ下がった手を握り締めた。
「わた、し……強く……なる、って……」
「大丈夫だから……っ、喋らなくて、いいから……!」
目の奥が、喉が、焼けるように熱い。無意識に溢れる涙がぽたぽたと落ちて、血の気を失ったフィオの頬を濡らす。
「フィオ、フィオ……やだ……やだよ……」
傷口は塞がった。それなのに、彼女が弱っていくのを止められない。どんなに懸命に繋ぎ止めようとしても、指の隙間を通り抜ける水のように、体から生きる力が失われていく。
「……おぼえ、てて……キルヒェ……」
ふと、フィオが微笑んだ。今際の際にあるとは思えない、いつも通りの優しい顔で。
「いつ、も……味方………か、ら……」
その言葉が最後だった。浅い呼吸が更に細くなり、今しがたまで柔らかな笑みを作っていた筋肉が弛緩する。そうしてフィオは、命の宿った人間から空疎な容れ物へと変わっていく。
「あ、あ……フィオ……、フィオ……っ?」
開かれたままの目は、もうキルヒェを映さない。キルヒェを通り越して、ただ虚空へと注がれている。
この先ずっと、フィオは笑わない。冗談を言うことも、キルヒェをからかうこともない。常に弱きを助けんとするあたたかな手も、二度と誰かに差し伸べられることはない。
どうしても認めたくなくて、諦められなくて、彼女が下手だと笑った回復魔法を掛け続ける。ジァンもトマも微動だにせず、呼吸すらも潜めて見守っていた。
けれど、フィオが息を吹き返すことはなかった。
どれくらい、そうしていただろう。やがて、キルヒェはフィオの瞼をそっと下ろした。
大切な人を自らの手で異界に送ることが、こんなにも辛いなんて知らなかった。たとえ体が朽ちても、魂だけは───魔物や、他のどんな醜悪な存在になり果てようと───留まっていて欲しいと願ってしまうほどに。
けれど、なけなしの理性がキルヒェを立ち上がらせた。嗚咽を噛み殺しながら、震える手で杖を握り締める。
その腕を、誰かが強く掴んで引き止めた。はっとして顔を上げれば、射るような目をしたジァンがキルヒェを見つめていた。
「フィオは俺が預かる」
冷淡な声でジァンは言い放つ。その言葉の意味を理解できず、キルヒェは彼を見上げたまま硬直した。
「ジァン……?」
ジァンは答えない。代わりに腕を掴む力が強まり、キルヒェは思わず眉を寄せる。
初め、彼はフィオの死が受け入れられないのだと思った。キルヒェと同じように異界へ送ることの喪失感に直面しているのか……あるいは、本当に気が触れてしまったのだと。
「異界……送らなきゃ……だって、じゃないとフィオは……」
キルヒェを見下ろすジァンの顔は表情に乏しく、一切の感情を読み取ることが出来ない。ただ、血走った両の目だけが爛々と輝いていた。
別れが辛いのは分かる。けれど異界に送らなければ、更に残酷な運命が待ち受けていることは彼も理解しているはずだ。それなのに。
「ねえジァン、なんで……」
「───分かるわけないだろ!」
突如、堰き止めていたすべての感情が決壊したかのように、ジァンは咆哮した。その時やっと、彼の目の充血は狂気に囚われていたせいではなく、単に涙を堪えていたためなのだと気付く。
「俺だって! ……俺だってこんなことがしたいわけじゃない! でも、これがフィオの望みなんだ! 約束したんだよあいつと。自分にもしものことがあっても、異界送りはしないでくれって……。だからもう……こうするしか……」
語尾は涙に呑まれ、弱々しく消えていった。屈強な戦士が子供のようにしゃくり上げる姿に、キルヒェは言葉を失くす。
望み……約束……。フィオは、キルヒェには一言もそんな話をしなかった。一体なぜ、何のために……そんな疑問ばかりが頭を駆け巡る。
狼狽しているキルヒェを置き去りに、ジァンはおもむろに踵を返す。逃がしてしまったと思っていたチョコボが知らぬ間に戻って来ていたらしい。その背に跨った彼は、革帯でフィオの体を淡々と固定していく。
痛みから解放された彼女の表情は安らかで、胸を濡らす血の跡さえなければ、まるで穏やかに眠っているかのようだった。
近寄り、あどけなさを残す頬に手を伸ばして……指が触れる直前で下ろす。
代わりに、フィオが腰に提げていた剣に手を掛けた。正式にガードになると決まった日にキルヒェが贈ったものだ。美しい彫刻の施された純白の刀身をフィオはいたく気に入って、大切にすると言って喜んだ。そして実際に、彼女が手入れを欠かすことはなかった。
剣を取り外したのを見届けたのち、ジァンは手綱を握って駆け出した。背を向ける間際、一瞬だけキルヒェを捉えた瞳は不安げに揺れ、そして何かを振り切るように逸らされた。
「キルヒェ様……私は……!」
泣き崩れるトマを気遣う余裕もなく、遠ざかる蹄音だけを感じながら、キルヒェはその場に立ち尽くす。
結局自分は、ひとりで逝くことばかりで、大切な人を失う覚悟は出来ていなかったのだ。彼女には、その覚悟を強いていたというのに。
そんな人間に、彼女の死を弔う資格など端から無いのかもしれない。
内側から引き裂かれるような悲しみに、すべてを投げ出して泣き叫んでしまいたい。みっともなく地に蹲り、子供のように声を上げて。
しかし、召喚士としての自分がそれを許さなかった。血液のようにこの身体を巡る使命という名の矜持が、キルヒェに舞えと命じている。
「異界送りを……始めます」
感情を押し殺した声で、キルヒェは告げた。
杖先が弧を描くたびに、無数の幻光が舞い上がる。後悔、無念、悲嘆、羨望。波濤のごとく脳内に流れ込んでくる、いくつもの感情。
その中にあの子の魂はないけれど……彼らが無事に異界へと辿り着き、安寧の眠りに就けるよう。ただひたすらに、祈りを込めて舞い続けた。