軌憶の旅 II
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眠りの底からゆっくりと浮上する。
薄暗い室内は小さな行燈の光を受け、淡く朧げなシルエットを浮き彫りにしていた。キルヒェを取り囲む、いくつもの小さな寝息と温もり。どうやら、子供たちを寝かしつけている内にうたた寝してしまったらしい。
懐かしい夢を見た。幼い頃、共に過ごした親子の夢。ほんのひとときではあったが、キルヒェを本当の家族のように受け入れてくれた人たち。彼らと出会わなければ、今ごろキルヒェは生きてさえいないだろう。
唐突に訪れた別れの理由を話してはもらえなかった。けれど、彼らを取り巻いていた境遇を考えれば理不尽なものであったことは想像に難くない。二人の行方は未だに分からないが、せめて平穏に暮らしていて欲しい。キルヒェには、そう願うことしかできなかった。
子供たちを起こさないよう、静かに臥所を抜ける。外は穏やかな風が吹いていた。さらさらと草木が揺れる音や自身が玉砂利を踏み締める音に紛れて、広場の方からかすかに大人たちが談笑する声が聞こえてくる。
「キルヒェ」
名前を呼ばれた方向に目を向けると、暗がりに浮かぶ小柄なシルエットが見えた。姿がはっきりと見えずとも、それが親しい少女のものであるとすぐに気付く。
「フィオ。向こうは? 大丈夫だった?」
ゆっくりと手を振りながら歩いてくるフィオに尋ねる。彼女の背後では、広場のかがり火が木々に反射してほの赤く揺れていた。
「うん、ジァンに任せてきた。みんな酔っ払っちゃって大変なんだから。それよりチビちゃんたちは?」
「しばらくはぐずってたけど、なんとか寝てくれたよ。さすがにちょっと手こずったかな……本気で寝かしつけてたら私まで寝落ちしちゃった」
「ふふ、どうりで。そんなとこだろうと思ってたんだ」
なかなか戻らないキルヒェを心配して様子を見に来てくれたのだろう。宴の主役たる自分が席を外したことを申し訳なく思いつつも、あの場で大人たちに取り囲まれ質問責めにされるより、少しでも長く子供らと一緒にいたかったというのが本心だ。
「……分かってはいたけど、泣かれるとやっぱりしんどいね」
「キルヒェ……」
キルヒェ姉、行っちゃやだ。明日も遊ぶよね? 一緒にお歌うたうよね? ───縋りつく子供たちをなんとか宥め、泣き疲れて眠るまで傍で見守った。普段は聞き分けの良いネルケですら最後までキルヒェの出立を頑なに拒んだのだから、よほど寂しい思いをさせているという自覚はある。
「ついに明日……か。なんだか実感ないなぁ」
今日、晴れて祈り子との交信を成し遂げ、正式に召喚士として認められた。それは同時にキルヒェの旅立ちを意味していた。『シン』を倒すための旅。自らの死へと向かう旅。
自分を慕ってくれている子供たちを残して行くことに未練がないと言えば嘘になる。だが、あの子たちには家族や、血の繋がりはなくとも愛情を与えてくれる大人たちがいる。自分もその中の一人であることは確かだが、キルヒェにしか出来ないことがあるのも事実だ。
シーモアと語り合ったあの夜から、その気持ちは変わらない。ひとつ気がかりがあるとすれば、このフィオという優しい少女を自らの目的に付き合わせなければならないということだ。
「ねえフィオ、本当にいいの? 大会も控えてたわけだし……ジァンにだって、本当はまだ反対されてるんでしょ」
ひょんなことがきっかけで出会った彼女は、キルヒェが従召喚士だった頃から変わらずガードを志願してくれている。
将来の夢も、想いを通わせた恋人もいるフィオを危険な旅に同行させることに、キルヒェは決して少なくない罪悪感を抱いていた。
「今の私には、こっちのほうが大事なの。ジァンも説得したからだいじょーぶ。結局アイツ、ついてくるって言って聞かなったけどね。キルヒェこそ、私たちがガードでいいの? 他に志願してる子いるんでしょ?」
「あの子たちは若すぎるから。そもそも、ゴワーズのルーキーとその彼氏がガードとか鼻が高すぎでしょ」
ブリッツのメンバーに選ばれたのだとフィオが目を輝かせながら報告してきたことは記憶に新しい。試合中の彼女を何度も見たが、水中で自由に動き回る姿はいつだって生き生きとしていて、泳ぐことが本当に好きなのだと分かる。
旅に出ることで完全に選手生命が絶たれるわけではないが、貴重なキャリアを捧げることに変わりない。フィオにとってそれが本当に取るべき選択なのか、キルヒェは計りかねていた。
そんな心配とは裏腹に、フィオは軽く笑うと寺院に面した小道にある古いベンチへ向かった。誘われるまま、キルヒェも彼女の隣へと腰を下ろす。
「ねえキルヒェ、私たちが出会ったときのこと、覚えてる?」
「もちろん、覚えてるよ」
忘れるはずがない。初めてフィオと出会ったのは二年と少し前のことだ。
慰問に向かう途中、ミヘン街道にある旅行公司の前で数人が言い争っている場面に出会った。威圧的な中年の男と幼いアルベドの子供、そしてその子供を背に庇うようにして男の前に立ち塞がる一人の少女───それがフィオだった。
アルベド嫌いの男が一方的に言いがかりを付けているのであろうことは薄々察していたが、声が聞こえる距離まで近付いてそれは確信へと変わった。
フィオの明るい色の髪も男の行動に拍車をかけたのだろう。『そいつを庇うということはお前もアルベドだな!』とフィオに掴みかかった男に、キルヒェが見かねて声をかけたのだった。
「あの時、たまたま正装で良かったよ。あいつ、『召喚士様〜!』なんて急にヘコヘコし出してさ。まだ従召喚士だってバレなくて良かったぁ」
「あはは! 『エボンの民として恥ずかしくないのですか!』とか言ってキルヒェってばノリノリだったよね」
突如現れた(従)召喚士に味方をしてもらえると思ったのか、男はアルベドがいかに愚かで下劣な人種かということを熱心に説き始めたが、キルヒェに一蹴された途端顔を青くしていた。
「あの時から、キルヒェは私のヒーローなんだ」
雲が流れ、白くまるい月が顔を出す。柔らかな光に、きらきらと光る短い髪をを照らされたフィオは、あの日を懐かしむように微笑んでいた。
「だから、キルヒェが召喚士ならガードは絶対私がやるんだって、決めてたんだよ。ずっと」
本当に、それが理由なのだろうか。そんな些細なきっかけで、夢を捨てて誰かの支えになることを選ぶというのか。
しかし、ガードになるためにフィオが鍛錬を続けてきたことは知っている。そして何よりキルヒェ自身、その気持ちが全く分からないわけではないのだ。
「私のことヒーローだってフィオは言うけど……たぶんそれは、私も同じ」
「え?」
「嬉しかったんだ。アルベドの子供を守ろうとするフィオを見て、こんな子がこの世界にいるんだって。みんながフィオみたいに強くいられたら、誰も悲しまずに済むのにって」
アルベドを憎むのも理解は出来る。自分たちの暮らしが、機械に頼る種族のせいで踏み躙られていると思うとやるせない。しかし、彼らを糾弾できるほどアルベドのことを知っているわけではなかった。少なくとも、右も左も分からないような子供に罪はないはずだ。
そして彼らのことを考える時、必ず脳裏を過る存在があった。二つの種族の狭間で苦境に立たされる、あの親子。ヒトもグアドもない、誰もが笑って暮らせる世界を───そんな約束を果たすために、相応しくない行いはしたくない。
そんなキルヒェの心情を知らないフィオは、大げさだなあと笑う。
「私はただ、あんな小さな子に危害与えようとするのが許せなかっただけ。それにさ、私たちは数で勝負できるわけじゃん? それなのに少数派の人たちを攻撃するのって、なんか弱い者いじめみたいでカッコ悪くない?」
フィオは当然のように語るが、そんな風に考えられる人間はそう多くない。それは強さだ。世間の声に流されず、自分自身の正義を貫く強さ。
「でもね、割って入ったはいいものの、そこから先はなんにも考えてなくて。ふと我に返って、あ、これピンチだ、って、手とか震えてきちゃってさ。そんな時にキルヒェが助けてくれて……心の底から安心した」
「そう言ってもらえるなら、しんどい修行に耐えた甲斐があったわね。使えるものはしっかり使わないとね?」
半分は冗談だが、半分は本気だ。もしキルヒェに従召喚士という肩書きがなければ、間に入ったところでどれだけ役に立てたか分からない。
「ねえ……キルヒェは、どうして召喚士になろうと思ったの? ずっと気になってたんだけど、なかなか聞く機会もなくて」
そう言うと、少し間を置いてフィオは俯きがちに続けた。
「……ううん。聞く機会がなかったわけじゃない、聞きたくなかったんだ。ガードになりたいって言ってたくせに、心の中ではずっと怖かったんだと思う。今日みたいな日が、いつかやってくることが」
思えば、そこまで踏み入った話はしたことがなかった気がする。きっと、恐れていたのだ。本質に触れることで、その向こうにある別れを直視しなければならないことを、互いに避けていたのかもしれない。
何から話すべきか答えあぐねていたキルヒェだが、結局すべてを明かすことを選んだ。きっと、今夜が最後の機会だから。
「私ね……本当はジョゼの出身じゃないんだ。ここよりもっと西のほうにあった、小さな島で生まれたの。長閑でいいところだったけど、ある日『シン』が襲ってきて……全部、めちゃくちゃになった」
妹がいたこと。一緒に舟で逃げようとしたが、沖に流されてしまったこと。何度も海に放り出されそうになりながら、小さい手を必死で握ったこと。キルヒェだけが生き残って、古い寺院の跡地に流れ着いたこと。
ゆっくりと、順を追ってすべてを話した。改めて言葉にすると、今でも手が震えそうになる。
「事情があってその寺院で暮してた、歳の近い男の子とそのお母さんにすごく親切にしてもらったんだ。私のことを、まるで本当の家族のように受け入れてくれた。私に魔法や召喚の知識を教えてくれたのもその人たちなの。毎日寒くてひもじかったけど、二人と過ごす時間は好きだった。でも……そんな暮らしも、長くは続かなかった」
どんなに説得されても、自分だけがバージを離れ、ジョゼに預けられなければならないことをすぐに納得することはできなかった。けれど、母の思い詰めた表情にそれ以上何も言うことができず、結局は運命を受け入れるしかなかった。
「本当なら、私じゃなくて妹が助かるべきだったのにって思ってたんだよね。だけどあの二人に出会って……別れて。せっかく生きながらえたなら、この命を何かのために使いたいって考えるようになった。……あはは、らしくないよね」
深刻な空気を吹き飛ばすように笑うキルヒェと反対に、フィオは神妙な面持ちで耳を傾けている。
混乱させてしまっただろうか。どうにか話の終着点を見出そうとしたその時、フィオがおもむろに口を開いた。
「……ねえキルヒェ。妹さんとは、途中ではぐれちゃったってことだよね? その……どこかで生きてたりしないかな? キルヒェが生きてたように、妹さんだって……」
「どうだろう。かなり海も荒れてたし、確率はものすごく低いと思う。あの子、少し体が弱かったし。もし生きてるとしたら、ちょうどフィオと同じくらいかな。私に似て美人になってるだろうな……」
気休めだと分かっていても、彼女の未来を考えなかったわけではない。もう二度と会えなかったとしても、この世界のどこかで、ただ生きてさえいてくれればと。
「もしあの子が生きてるなら……余計頑張らないと、ね」
「キルヒェ……」
「召喚士としてあるまじき思考だけどさ、ほんとは使命とか、スピラのためとか、どうだっていいんだ。私は、私の好きな人たちが泣いて暮らすような世界を見たくないだけ! だから全部、自分のためなの」
『シン』を倒し、スピラに光をもたらす───そんな大義を背負ってはいるが、ひょっとしたら他の召喚士も同じなのではないだろうか。見ず知らずの人間の幸福を願うのは難しい。けれどせめて、大切な人たちが暮らす世界が、どうか明るいものであって欲しいと思う。たとえ、限られた時間であっても。
「ねえフィオ、もし『シン』がいなかったら、何がしたい?」
「え……?」
「例え話だと思ってなんでも言ってみてよ。私はねえ……なにか仕事でも始めようかな。あっ、だけど退屈な仕事はイヤだなぁ。寺院勤めとか絶対ムリ! 毎日みんなと歌でも歌って、笑って呑気に暮したい!」
あるはずのない未来が語られる度に、フィオはその表情を少しずつ曇らせていく。そのことには気付かずに、キルヒェはなおも明るい声で続ける。
「フィオもあるでしょ、やりたいこと。ブリッツ続ければスター選手にだってなれるかもしれないし。他にもほら、ジァンと一緒に幸せな家庭築きたい、とかさ」
「そんなの……」
唇を噛み締めたフィオの瞳から、ぽろりと涙が溢れる。月光に照らされた透明な雫を、場違いにも美しいと思った。
「そんなの、キルヒェがいなかったら意味ないよ。キルヒェに生きてて欲しいよ……」
辛いことを言わせてしまったな、と自嘲に似た笑みを浮かべる。キルヒェ自身、そう思っていた。けれどみんな、キルヒェの手の届かないところへ行ってしまった。
「……自分勝手だって分かってるんだ。でも、『シン』がいる限り悲しみは消えない。ごめんね、フィオ」
この命の使い道は、とうの昔に決まっている。別の生き方など今更選べるはずがない。あの時自分は、一度死んだも同然なのだから。
「……私こそ、ごめん。もう言わないから」
手の甲で目元を拭い、前を向く。その表情は、もはやか弱い少女のそれではない。
「私は召喚士じゃないから、キルヒェと同じものを背負うことはできない。でも……覚悟する。私も、キルヒェの覚悟を見届けられるだけの強さが欲しいから」
痛む心をなぐさめるように、夜風が優しく頬を撫でた。今では故郷と呼べるまでになったこの土地で過ごす夜も、今日が最後だ。この風の匂いを、決意に満ちたフィオの声を、脳裏に焼き付けるべくそっと目を閉じる。忘れたくなかった。たとえこの身が、露と消えようとも。
宴の気配も次第に勢いを弱め、一日の終わりを告げていた。あと数時間もすれば夜が明けるだろう。そしていよいよ、キルヒェの召喚士としての旅が始まる。