軌憶の旅 II
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ブラスカの告白から一夜明け、キルヒェたちは旅を再開した。
迎えた朝はいつもと変わらぬ平穏さで、あれは夢だったかと錯覚を起こしそうになる。しかし、泣き腫らしたキルヒェの目と、銘々の下瞼に刻まれた隈が、昨晩の出来事を饒舌に物語っていた。
キルヒェにも、そしてジェクトにも、ブラスカは何も訊かなかった。彼は仲間の顔を順に見回し、それだけですべてを悟ったかのように告げた。ただ一言、「出発しようか」と。
刃を打ち合う音が、決戦の傷跡残る大地に高らかに響く。大小二つの刀身が傾きかけた陽光を受け、時折稲妻のような閃光が煌いた。
ガガゼトから吹き下ろす風は、生まれた時から霊峰の厳しさを刻んできたかのような冷気をまとっている。けれど、火照った体には不思議と馴染み、心地よさすら感じられた。
ナギ平原、旅行公司前。日没までの時間を利用して、キルヒェはアーロンと共に鍛錬に勤しんでいた。
幾度となく重ねてきた模擬戦も、甲斐あってようやく大要を掴めてきたように感じる。無理にダメージを与えることよりも、まずは確実に攻撃を防ぐこと。相手のペースに飲まれることなく冷静に状況を観察し、最も効果的なタイミングと方法で反撃に移ること。
戦闘において、女性であることは一般的に不利な点が多い。しかし、弱点ばかりかというとそれは違う。相手が自分と異なる身体的特徴を持っているなら尚更だ。
男性よりも柔軟な関節の可動域を利用し、キルヒェはアーロンの足元や死角を狙ってすばやく打ち込んでいく。だが、重心を乗せ過ぎてはいけない。なぜなら───。
「……ッ!」
予兆を感じるより早く、サイドステップで飛び退く。その判断は正解だった。予想通り、攻撃を弾いたアーロンが反撃に出たのだ。太刀の重い一打をまともに受ければひとたまりもない。
攻撃後の隙を突くべく、流れるように次の手へと移る。彼ほどの手練れであっても、振り下ろしから直ちに上部への突きを防ぐのは困難なはずだ。
肩の辺りを目掛けて、キルヒェは躊躇なく踏み込んだ。……ように見せかけて、寸でのところで身を屈める。狙うは利き手側の胴部。太刀の切先とは逆方向だ。
「はあっ!」
しかし、弾かれた。振り下ろした太刀を片手で支えながら、即座に小手であしらう対応力は流石の一言だ。
だが、苦しい体勢であることに変わりない。反動を受け流すため、アーロンがわずかに片足を下げた。その瞬間。
「───!」
彼の背後に、小さな氷柱が現れる。時限式のトラップのようなものだ。攻撃力は無いに等しいが、注意を逸らすには充分だろう。一瞬の隙を突いて、キルヒェはアーロンに剣を突き付ける。
「お前はまた……!」
「や……っと、一本、取れた……」
息も絶え絶えに、キルヒェはその場に座り込む。
初めて剣を交えたあの日以来、アーロンと互角に渡り合えたことなど一度もなかった。魔物は反則などお構いなしに襲いかかってくるのだから、初級術くらいは見逃して欲しいものだ。ハンデとして。
「まったく……よくもまあ、そんな小賢しい真似を思い付くものだ」
咎めるような台詞に反して、その口の端は不敵に吊り上がっている。おもむろに歩み寄り、アーロンはキルヒェの隣に腰を下ろした。
高揚していた体が、少しずつ凪いでいく。傍らに居座る男にはわずかな息の乱れもなく、それがなんだか悔しかった。だからなのだろう、問い掛けた声が、どこか険を含んだような響きを持ってしまったのは。
「ところで、ちゃんと考えてるの? 『シン』を倒す方法」
ちらりと目を向ければ、案の定、彼は眉間の皺を深めて苦い表情を浮かべた。
「そう簡単に思い付くはずがないだろう。そういうお前こそどうなんだ」
「……究極召喚で命を落とすのは、その力が強大すぎて耐えられないからだって言われてるの。でも、『シン』を倒すまでは召喚士は死なない。少なくとも、今までそんな話は聞いたことがない」
「つまり?」
「ただ召喚するだけならセーフなのかなって。単に長時間の召喚に耐えられないだけだとしたら、時間さえ短縮できれば……」
「何か策がありそうな口振りだな」
キルヒェの口から何かしらの考えが聞けるとは思っていなかったのだろう。アーロンはわずかに背筋を伸ばして体をこちらに向けた。
「策ってほどじゃないけど……せっかく召喚できる人間が二人いるなら、それを生かせないかなって。同じ祈り子から同時に力を引き出すことは出来ない。でも、交代だったらなんとかなるでしょ?」
「却下だ。リスクが高すぎる」
確かに、失敗すればキルヒェまで共倒れになる可能性がある。しかし、何事も実際に試してみるまでは結果が得られないのも事実だ。
チャンスは一度きり。更にはタイムリミットが刻々と近づいている。そんな厳しい状況で、一体どんな手段を選べというのだろう。
「まさかお前、例の計画を諦めていないんじゃあるまいな……?」
アーロンに疑いの視線を向けられ、ぎくりと硬直する。この期に及んでブラスカの身代わりを勤めようとは思わない。だが、もし別の形で機が訪れたら……その時はきっと、自分が『シン』を倒す道を選ぶだろう。そんな本心を見抜かれているような気がした。
「そ、そういうわけじゃない……けど」
「妙に歯切れが悪いな。いいか、もう一度あんなことを言ってみろ。その辺の木に縛りつけて置いていくぞ」
アーロンの目は本気だった。この吹きさらしの平原に、背の高い樹木はほとんど生えていない。にも関わらず、太い幹に縛り付けられ置き去りにされる自分の姿がありありと想像出来てしまい、思わず身を縮こまらせた。
「……あんなこと、もう言わないよ。ただ、自分でもよく分からないんだと思う。どこまでが現実的で、どこからが無謀なのか」
それを判断するには情報が少なすぎるのだと、キルヒェは率直に打ち明ける。
召喚のことだってそうだ。技能として漠然と身についているだけで、具体的な原理に関しては何も教えられていない。
「『シン』のことも、究極召喚が何なのかも分からない。私がいま生きてる世界は、小さな枠の中でしかないんだって思い知らされる。外側にあることは……何も知らない」
「ならば、真実はその枠の外側にあるということだな」
正確には、真実があるとするならば、だ……とは言えなかった。世界中のどこを探したって、解など存在しない───そんな可能性を容易に認められるほど、強い人間ではない。
キルヒェが答えあぐねていると、アーロンが続けて口を開いた。ただし、彼にしては珍しく煮え切らない切り口で。
「……エボンは、機械を使用している」
「え?」
思いもよらない言葉に顔を上げる。膝元で拳を握るアーロンの顔に浮かぶのは、紛れもない苦悩だった。
「スフィアプールとか、モニターとか……ってことじゃ、なさそうだね」
「それもそうだが、聖ベベル宮で使われている
ものの中には、いわゆる兵器と呼ばれる類の機械もあった。具体的には、銃器や火器といったものだ。俺自身も、演習で何度か手にしたことがある」
にわかには信じがたい台詞に絶句する。が、その張り詰めた表情から嘘や冗談などではないことは明白だ。元より、こんな悪趣味な戯れを好む男ではない。
「上官からは、有事の際、民を守るために止むを得ないのだと言い聞かされた。現に、その言葉を信じてもいた。しかし……守るための武器と殺すための武器、どちらも本質的には同じものだ。違いがあるとすれば、使う者の性根くらいだろう。自分がそれを手にする資格があるのか……俺には分からなかった」
「使っていい機械とだめな機械って、寺院が決めてるよね。エボンの教典を元にしてるらしいけど、そのエボンだって召喚士、つまり人間だったわけでしょ。こんなこと言ったら怒られちゃうだろうけど……」
機械を禁止しておきながら、自らその戒を破るというのか。踏みしめていたはずの足元がゆっくりと沈んでいくような、そこはかとない不安が込み上げる。
理由が何であれ、その事実が民に知れ渡ればエボンへの不信感は広がるだろう。情報が漏れていないのは、ひとえに僧兵たちの信仰心の賜物だ。それを信頼と取るか……あるいは、利用されていると取るか。
「人の罪を定めるのもまた人であるなら、俺たちが信じているものは、一体何だというのだろうな」
自分の無知が恐ろしかった。正しくは、無知にすら気付かずに生きてきたことが。
『シン』とは、機械文明に依存した愚かな人間への罰。だとしたら、なぜすべての機械を禁止しないのだろう。千年という長い時間の中で、ゆるやかに廃止することも出来たのではないか。
『シン』が生まれた理由。機械と人の罪。エボンの掟。召喚師とナギ節───考えれば考えるほど、違和感は募る。
「……頭、ぐるぐるしてきた」
「なんだ、毒気か?」
頭を抱えるキルヒェを見て、アーロンは肩の力を抜いて小さく息を吐いた。端正な眉の片側が、揶揄するように少しだけ上がっている。そのことに、意味もなく安堵を覚えた。
「本当に、考えただけで途方もない気分になってくるな。だが、今この瞬間、お前が隣にいてくれて良かったと心から思う。……不思議だな。お前の存在がこんなに心強いなんて、出会ったばかりの頃は想像すらしなかった」
固く締めていた帯がほどけるように、アーロンは微笑んだ。けれど、その柔らかな眼差しが自分に向けられるのは、なんとなく、正しくないことのような気がした。
なぜそう感じるのか、ここでいう正しさとは一体何なのか、これっぽっちも分からない。けれど、一刻も早くその視線から逃れたかった。さもなければ───。
「あ……あはは。なにそれ、愛の告白?」
硬直する喉を叱咤して、軽薄な笑いのような音をかろうじて絞り出した。
さもなければ、なんだというのだろう。ただ、素朴で美しいものを無碍に扱ってしまったような罪悪感が、みぞおちの辺りにじわりと滲んだ。アーロンは特に気を悪くした様子もなく、その双眼を更に細めてキルヒェを見つめる。
「そうだと言ったら?」
冗談だと笑い飛ばしてくれたら、どれほど良かっただろう。あるいは、そう出来たなら。
甘やかな琥珀色の瞳が、胸の奥を焼く。無理矢理作って貼り付けたかりそめの笑みがひび割れて、心の内を曝け出してしまいそうだった。肩を竦め、溜め息をつく振りをして、キルヒェはそれとなく視線を外す。
「……趣味、悪」
「ああ。まったく、どうしてなんだろうな」
そう言って、アーロンは笑った。どんな表情をしているのか、顔を上げて確認する勇気はなかったけれど。
───初めは、口うるさい男だと思っていた。
他人に対して好きだの嫌いだのという感情が湧くことはもはや無かったが、彼の疑い深く干渉的な気質はキルヒェを悩ませた。
それなのに、なぜだろう。ふと視線を向けられるたびに、心の縁をそっと掻き撫でられるような、戸惑いに似た感覚を覚えるようになったのは。
その眼差しが、時に危うさすら覚えるほどにひたむきだったから? いつも仏頂面のくせに、笑うとわずかにあどけなさが滲むと知ったからだろうか? 理由なんて分からない。けれどいつしか、彼という存在がキルヒェの中で特別なものになっていたのは確かだ。
それでも、その気持ちに応えることは出来ない。
「だめだよ、だって……」
フィオの、花が咲くような笑顔が脳裏に浮かぶ。……いや、彼女を理由にするのは単なる言い訳だ。死者が夢枕に立ち、なぜお前だけがと生者を糾弾する……そんな話をよく耳にするが、あれは生者の妄想に過ぎない。自分がどんな目に遭おうと、キルヒェの幸せを願い続ける。フィオはそういう子だ。
だから、これは贖罪などではない。臆病で独りよがりな罪悪感に駆られて、差し伸べられたあたたかな手を遠ざけるのだ。
「分かってる。俺だって、今は旅のことで精一杯だ。こんな時に、お前とどうこうなろうなどとは微塵も思わんさ。ただ、伝えておこうと思ったんだ。誰かさんに言わせれば、『過ぎた時間は取り戻せない』らしいからな」
アーロンの口調は穏やかだった。本当に、見返りなど端から求めていないらしい。しかし、自分が放った台詞がこんな形で返ってくるとは思わず、キルヒェは自分の頬に熱が集まるのを感じた。
「今はまだ、未来のことなど想像も出来ないだろう。だが、この旅が終わったら……どうか過去に囚われず、お前自身の道を生きて欲しい。俺が望むのは、それだけだ」
まるで、その場に自分は存在しないかのような口振りだと思った。なぜ、と考えるまでもない。『未来』なんて想像も出来ないのは、彼だって同じなのだ。それなのに。
「あのさあ、ずるいと思わない? 自分のことは棚に上げて、人の幸せを祈るなんて」
「ああ、そうだな。俺は身勝手でひどい人間だ」
「……まあ、私だって人のこと言えないんだけど」
ままならないものだ。自分も、彼らも。誰かの幸せを願えば願うほど、その相手を傷つけてしまうなんて。誰かを慈しむことは、本来、自分自身を慈しむことと同義であるはずなのに。
「……ねえ、もしみんなで一緒にナギを迎えられたらさ、ブラスカさんのこと、ぎゅってしてあげなよ」
「何を言ってるんだ。そんな失礼な真似、出来るわけないだろう」
「そう? 対等に接して欲しいって思ってる気がするけどな、ブラスカさんは」
図星だったのか、アーロンはぐっと声を詰まらせた。ひょっとしたら、実際に本人から言われたことがあったのかもしれない。
珍しく口ごもる様子がおかしくて、キルヒェは少しだけ笑った。笑みらしきものが自然と溢れたのは、ずいぶんと久々に感じた。
未来のことを口にするのは、未だ身を切るような痛みが伴う。だからこそ、少しずつ向き合っていかなければならないのだろう。心がどんなに前に進むことを拒もうと、時間は誰の身にも平等に与えられているのだ。
だから、もし……もし究極召喚なしに『シン』を倒す方法を見つけて、四人揃ってナギ節を迎えられたなら。その時は、少しだけ前向きに考えてみてもいいのかもしれない。『共に生きよう』とは決して言わない、彼の隣にいることを。
けれど……ささやかな夢は儚く打ち砕かれた。
最果ての地でキルヒェたちを待ち受けていたもの。それは究極召喚をめぐる残酷な真実だった。
すべてを知ったジェクトの決意を止めることは叶わなかった。『シン』を倒す力を得るために支払ったのは、彼の命というあまりに重すぎる対価だったのだ。
皮肉なほどに晴れ渡った空の下、ブラスカはその力を解き放った。かつて自身のガードだった男が思い描く、究極の夢の姿を。
ブラスカの容体は安定しているように見えた。強大な力のために精神を捧げる負荷に歯を食いしばっていても、二本の足で必死に己の体を支えていた。ほっそりとした体の真ん中で、依然命の炎を煌々と燃やしながら。
その立ち姿を見て、キルヒェは今一度決心した。ブラスカを失いたくない。『シン』に接触すれば、何か分かるだろうか。確証なんて何ひとつない。けれど……たとえ無駄な足掻きだとしても、最後の瞬間まで諦めたくない。ジェクトの想いを無駄にしないためにも。
キルヒェはヴァルファーレを召喚し、その背に跨った。
地を揺るがすような咆哮とともに大剣を振るうジェクトの勇姿を横切る。遠くからは、しきりにキルヒェの名を呼ぶ男の声が聞こえる。彼は全霊をもってキルヒェを引き留めようとしていた。だけどアーロン。ここで諦めたら、あなたの大切な人は……もう二度と。
『シン』の表皮が近付いてきた。無数のコケラがひしめき合って、有機的に蠢いているのがはっきりと見て取れた。
強烈な悪寒に皮膚は総毛立ち、すさまじい眩暈に襲われる。ヴァルファーレの鬣を掴んでいるのが精一杯だった。どうにか意識を繋ぎ止めて『シン』に集中すると、巨大な鎧の内側に、いくつもの思念めいた叫びが渦巻いているのを感じた。
異界送りの感覚とも、祈り子との対話とも違う、ぐちゃぐちゃに溶け合い輪郭を失った魂の群体。
潮流のように入り混じった諸声に耳を傾けるうち、そのずっと奥に、何か小さな───本当に小さな、核のような存在を感じた。
黒いもやのようなイメージを纏っているが、確かに『それ』から何らかの感情を感じる。これは……懇願? まるで……そう、救いを求めているかのような。
それを認識した瞬間、雷に撃たれたような衝撃が全身を襲った。それが痛みであると自覚も出来ぬまま、意識がブラックアウトする。
───キルヒェ!
すべてが消える直前、向こう岸から呼びかけるあの子の声を聞いたような気がした。それがキルヒェという少女の、最後の記憶だった。
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