軌憶の旅 II
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潮騒とかすかな滝の音を背に、小さな集落を臨む。
豊かな緑を湛えた小高い山の麓、身を寄せるように建ち並ぶ家々。風はあたたかく、南方の花特有の甘い香りがわずかに鼻腔をくすぐる。時折遠くから聞こえる子供たちの笑い声が、長閑な村の風情をより際立たせていた。
スピラの最南端、ビサイド島。ここを訪れるのも、今日で二度目となる。
「ま〜た、ちっぼけな村だなあ、おい」
どうやら、ジェクトは賑やかな方がお好みらしい。新たな土地への感動もそこそこに、さっさと集落の奥に向かって歩き始めてしまう。……下船前から腹が減ったと散々騒いでいたから、それも理由のひとつだろうけれど。
「ほう……のどかでいい村じゃないか」
そんなジェクトとは対照的に、ブラスカは村の入口で足を止める。豊かな自然や、慎ましくも生き生きと息づく人々の暮らしに、何か思うところがあったのかもしれない。
「アーロン」
彼は振り返ることなく、背後にいる男の名を呼ぶ。
「事が終わったら、ユウナをここに連れてきてくれ」
あの子には静かに暮らして欲しいんだ、とやわらかな声が続ける。
アルベドと婚姻を結んだ落ちこぼれから、『シン』を倒した大召喚士へ。周囲は手のひらを返したようにブラスカを称賛するだろう。
そんな心ない声の届かぬ地で、穏やかにナギ節を過ごして欲しい……子を持つ父のささやかな想いを、ブラスカは聞かせる。
「……分かりました。お任せください」
誰かのいない未来を約束することは、名状しがたい悲しみを伴う。それが大切な人であれば尚更だ。それでもアーロンは、真摯に頷いて応えた。
「お〜ら何やってんだ、行くぞ! 俺はもうハラ減ってハラ減って仕方ねえんだからよ!」
わずかに降りた沈黙を裂くように、ジェクトが叫んだ。それに笑いながら応えて、ブラスカは村の方へと足を進めようと踏み出す。が、しかし。
「待って」
キルヒェがそれを許さず、回り込んで進路を遮る。
「言わないんですか? ジェクトに……本当のこと」
初めこそ観光気分だったジェクトも、ブラスカの覚悟に触れ、やがてガードとしての自覚を備えるまでに至った。
この旅も折り返し地点。祈り子との対面がない分、復路は往路よりもずっと早く感じるだろう。後になればなるほど、互いに辛い思いをするだけだ。
「その時が来たら……私から伝えるつもりさ」
「その時って? そうやっていつまでも先延ばしにして、ビサイドまで来ちゃったんじゃないんですか?」
「キルヒェ」
たしなめるように、アーロンがキルヒェの肩を引く。
「よさないか、簡単に口に出来ることでもないだろう」
「いや……良いんだ、アーロン。キルヒェの言う通りだ。いつか話さなければと思いながら、ここまで来てしまった」
ああ見えて情に厚いジェクトのことだ。束の間の平和が召喚士の命と引き換えだと知れば、悲しみ、憤るだろう。これまで自分が放った発言の数々を悔いて傷付く彼を、誰も見たくなどないはずだ。
やはり、早い段階で明かすべきだ。そうとなれば、誰が適任か……自分が一番よく分かっている。
「もし誰も言うつもりがないなら、私が言います」
ブラスカは微塵も表情を動かさない。真意を推し量るかのように、じっとキルヒェを見つめている。
「このまま伝えなかったら、あなたもジェクトも、いつかきっと後悔する」
「君の言うことはもっともだ。だが、少し待ってくれないか。彼にはちゃんと、自分の言葉で説明したい」
「……早い方が、いいと思いますけど」
「突然知らない土地にやって来たんだ。それも、『シン』のいない平和な場所からね。こちらの暮らしにもだいぶ慣れただろうが、それでも余計な気は遣わせたくない。それに……このまま真実を知らないほうが良い場合もあると思っているんだ」
今度はキルヒェが、言葉の意味を測りかねて沈黙する。真実を隠したまま旅を続けることなど不可能だ。召喚士とガードである限り、避けて通れない宿命なのだから。
「故郷に帰る方法が見つかっても、それが限定的なものだとしたら? そしてその時、召喚士の運命を知っていたら?」
「……ジェクトを、スピラに引き留めてしまう?」
「あくまで可能性だけれどね。だが、彼は案外お人好しだ」
「おーい、なにやってんだぁ!? ちんたらしてっと先にメシ食っちまうぞ〜!」
痺れを切らしたジェクトが、ふたたび叫ぶ。さすがに待たせすぎたようだ。
キルヒェは諦めて踵を返すが、踏み出しかけたところでもう一度足を止め、ブラスカを振り返る。
「……まあ、なんでもいいですけど。私からしたら、あなただって相当なお人好しですよ」
言い終えるなり唇を引き結んで、今度こそ村の方へと歩き出す。
「ありがとう。君も……ね」
背後から投げかけられた小さな声に気付かぬ振りをして、キルヒェは足早にジェクトの後を追った。
燦々と輝いていた太陽が水平線に呑まれ、終の炎を燃やす。星々を纏ったすみれ色のヴェールが、夕凪に浮かぶ孤島をやさしく包み込んでいく。
空はゆっくりと瞼を閉じる。まばゆい光が細く、長く伸びて途切れ、やがて静かな夜が訪れた。それはまるで一日の労をいたわるような、穏やかな黄昏だった。
日没からまもなくのこと。新たな召喚士の来訪を歓迎するため、島民らによってささやかな宴席が設けられることとなった。
これまで禁酒を貫いていたジェクトも、今宵ばかりは久々の酒を楽しんだらしい。軽く嗜む程度ではあるが、明るいうちに浅瀬をひと泳ぎしたこともあり、早くもほろ酔い顔を見せていた。
ブラスカは数人の大人たちと何やら談笑している。旅の話でも聞かせているのだろうか、耳を傾ける人々の表情は明るく、和やかな空気が流れているようだった。
そんな楽しげな輪から外れて、キルヒェは彼らの様子をぼんやりと眺めていた。
心地よい夜風を頬に受けながら、心は極北の痛いほどに澄んだ空気を求める。フィオを失った日から、底深いぬかるみの中に身を浸しているようだった。それでも、最果ての地で眠る究極召喚の祈り子を想う時だけは、胸の内にわずかな灯が点るような気がした。
ふと肌に感じる、人の気配。振り向けば、今ではすっかり見慣れた長躯が視界に入った。
「さすがに、少し冷えてきたんじゃないか?」
ゆっくりと歩いてきたアーロンが、返事を待たずにキルヒェの隣に腰を下ろす。ついでに何かをひょいと手渡され、わけも分からぬまま受け取ってしまった。
それは木を丸くくり抜いて拵えたようなカップだった。中に入っているのは、あたたかな……茶、だろうか?
「頂戴しておいてなんだが、俺には少々香りが強くてな」
少しだけ鼻を近付けてみる。昼間嗅いだ花の香りに似た甘い芳香が、湯気に乗ってふわりと立ち昇った。確かに好き嫌いは分かれるかもしれないが、キルヒェにとっては心地よい香りだ。しかし、単にこれを渡すためだけに来たわけではないだろう。
「……昼間の話だが」
案の定、わずかな間を置いてアーロンが重い口を開いた。
心当たりなら、ある。おそらく、ジェクトに真実を告げるべきだとブラスカに詰め寄ったことだろう。
「正直、意外だった。お前はもっと、俺たちの問題に無関心だと思っていたからな」
「余計なお世話って?」
「そうじゃない。まったく……なぜそういう言い方しか出来ないんだ。どうせ、なかなか言い出せない俺たちを見かねて、代わりに自分がと考えたんだろう」
「……別に、そういうわけじゃ」
ジェクトやブラスカがお人好しなのは言うまでもないが、彼も充分すぎるほどに篤実な青年だということを忘れていた。
ばつの悪さをごまかすように、キルヒェは眉を顰めて手元のカップに口を付ける。夜でも薄着のまま快適に過ごせると思っていたが、意外と冷えていたのかもしれない。体が内側からじんわりと温まるのを感じた。
「私はただ、現実から逃げてるみたいで気に入らなかっただけ。そもそも自分だけ知らないとか、普通に考えて絶対嫌だし」
カップに目を落としたまま不貞腐れたように呟くキルヒェに、アーロンは吐息だけで笑って、そうか、と応えた。
以前、相手の顔を見て話すべきだと顰蹙を買ったことを思い出す。その頃に比べて、彼らとの関係は確実に変化している。日々の積み重ねによる情の芽生えもあるだろう。しかしそれ以上に、冷徹になり切れない己の弱さを痛感していた。
「やはり……お前も召喚士なのだな」
その言葉の裏に、どんな意味が込められているのか分からない。ただ、彼の深い声が、どこか遠い場所から放たれているような隔たりを感じた。
「正直に言う。俺はまだ、この旅の結末を受け入れることが出来ていない」
はっとして、アーロンに目を向ける。彼の視線は広場を照らすかがり火を通り越し、穏やかな笑みを浮かべるブラスカへと注がれていた。
「ブラスカ様をお守り出来るなら、たとえ自分が死ぬことになろうと後悔はしない。だが、あの人を失うと思うと、俺は……」
そこまで言って、アーロンはにわかに言葉を詰まらせる。ふたたび口を開いた時、その声は今までになく脆弱で、細く掠れていた。
「……怖いんだ」
それは、この旅で彼が初めて見せた弱さだった。
他人の甘えを許さない分、自分にはより厳しい試練を課す───アーロンはそんな男だ。どんな苦境にあろうとも決して弱音を吐かず、常に背筋を伸ばして歩く。その姿は真紅を身に纏うに相応しく、凛として、高潔だった。
そんな彼が今、己の迷いを吐露している。震える手をひた隠しに、堅固な心の継ぎ目をわずかにひらいて。
しかし、本来その言葉を聞くのは自分ではない。彼が伝えるべきは、ただ一人。
「ブラスカさんに、そう伝えてあげて」
「……あの人の決意を否定することは出来ない」
「誰かに何か言われたくらいで、そう簡単に揺らぐような決意じゃない。それは分かってるでしょう」
ブラスカの意思が確固たるものだということは、キルヒェも理解している。しかし言葉とは裏腹に、淡い希望を抱いてもいた。アーロンなら、ブラスカを説得できるかもしれない。どれほど傑出した人物であろうと、人である限りは迷い、悩むものだから、と。
「どっちにしろ同じ結果になるなら、伝えられるうちに伝えたほうがいい。あとでどんなに悔やんでも、過ぎた時間は取り戻せない。ブラスカさんも……あなたの想いを知らずに別れるのは嫌だろうし」
握りしめた両手を見つめたまま、アーロンは沈黙する。
揺らめく炎のあえかな光が、彼の額から鼻梁、顎にかけての端正なシルエットを照らしている。
ふと、目の前の屈強な剣士の横顔が、似ても似つかぬ少女の姿に重なって見えた。ジョゼでの最後の夜、キルヒェに生きていて欲しいと言って泣いた少女。あの時……その願いを聞き入れていたなら。
自分より大きなその背中を、そっと抱きしめてあげたい。大丈夫だよ、一人になんてしないよと、不安が溶けて消えるまで言い聞かせてあげたい。そんなことをしても、誰も救われないと分かっているのに。
言葉と本心がちぐはぐで、体がばらばらになりそうだった。彼らと出会ってから、ずっと。
会話が途切れても、アーロンはその場を離れようとはしなかった。
カップを片手に持ったまま、抱えた自身の膝に額を預ける。目を閉じれば、キルヒェの世界は急速に閉じられた。感覚を満たすのは、遠くに聞こえる話し声や自然が作り出す音、甘い花の香り、そして……わずかに隣に感じる気配だけ。
なぜだろう、それらのすべてが夜の空気に溶けて、自分の肌に馴染んでいくように思えた。宴が終わるまで、そうしてただ静かに、キルヒェは閉じた世界に身を預けていた。