軌憶の旅 II
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若苗色を基調とした船が舳先を南に向け、海原を裂いて進む。その上を海鳥たちが遊弋し、晴れ空にいくつもの白い斑を描いている。
ポルト=キーリカとビサイドをつなぐ連絡船、リキ号。もう二度と乗ることはないと思っていた船の上で、キルヒェはそんな景色を見ていた。
表向きは穏やかな表情を向ける海も、一歩踏み込めば魔物や『シン』の棲まう死の領域だ。それでも、眼下に広がる翠波を心から美しいと思った。
到着にはまだ時間があるため、召喚士とガード達はそれぞれ自由な時間を過ごしていた。
子供達にブリッツの技を教えるジェクトの声を遠くに聞きながら、キルヒェは船首のブラスカへと目を向ける。
真っ向から潮風が吹き付けるのを物ともせず、彼は進路を見据えて静かに佇んでいた。
その目に映るのは、おそらく暖かな海でも、晴れやかに澄んだ空でもない。水平線に薄青いシルエットを浮かび上がらせる、南端の島───ビサイド島。そこでヴァルファーレの力を得たら、いよいよザナルカンドへ向かうことになる。
その時、青一色だった視界の角に、鮮やかな赤がひらりと翻った。風に当たり続ける主人を案じてか、アーロンが船首に向かっておもむろに歩いていく。
その姿をぼんやりと眺めながら、キルヒェは無意識のうちにこの数日間を思い返していた。
あの後、アーロンが療養している間に彼の衣服を清め、切り裂かれた箇所を繕った。元はといえば自分のせいなのだから、それがせめてもの礼儀だと思ったのだ。
慣れない針と糸の扱いには、想像以上に苦戦を強いられた。厚手の生地や、刃物で出来たのとは異なるいびつな裂け目もその一因だろう。
それでもなんとか最後まで縫い終え、仕上がりを確認したキルヒェは───しばし唖然とした。自分はこんなにも不器用だったのかと、正直ショックですらあった。
しかし服は服。問題なく着られさえすればいいのだと、内心ひやひやしながらも持ち主にそれを手渡した。それが昨日の晩のことだ。
『……これは、お前が?』
裁縫の痕とキルヒェの顔を交互に見比べ、アーロンは訊ねた。その視線が自分を責めているように感じたのは、胸の内に密かな後ろめたさがあったからだ。
『勝手なことをしたのは……謝る。でも、あのまま身に着けるわけにもいかないでしょ。だから、その……』
自らの意思とは無関係に、言い訳がましい台詞がつらつらと口をついて出る。素直に謝ればよいものを、それが出来ないのはなぜだろう。
なんにせよ、やってしまったことはどうにもならない。叱責もやむを得まいと覚悟を決め、キルヒェは唇を引き結ぶ。
想像とは裏腹に、ふ、とアーロンは小さく噴き出した。そしてそれが皮切りであったかのように、彼は声をあげて笑い始める。目尻にくしゃりと寄った皺が、若鷹のような青年をどこかあどけなくすら見せていた。
『ちょ、ちょっと……笑いすぎなんだけど』
確かに不出来ではあるが、そこまでだろうか。相変わらず笑いどころの分かりづらい男に、キルヒェは戸惑いを隠さず声を掛ける。
『ああ、いや……すまない。馬鹿にしているわけではないんだ』
語尾を震わせながら言われても、少しも説得力はない。どうにか堪えようとしているのか、アーロンは大きく息を吐いて呼吸を整える。それからキルヒェの目を真っ直ぐに見つめ、笑みの名残りを浮かべた唇で紡いだ。
ただ一言……『ありがとう』、と。
回想に耽っていたキルヒェは、アーロンがこちらに顔を向けたことに気付き、はっと我に返る。動揺しかけた次の瞬間、ふいに彼は足を止め、片手を持ち上げた。
骨ばった手が、その胸元に触れる。一体何を───訝しげに目を細めるキルヒェに見せ付けるように、人差し指でとんとん、とその場所を軽く叩いてみせた。ちょうど、例の縫い痕のあたりだ。こちらの様子を伺うように、彼は口の端を上げて小首を傾げる。
いよいよ見ていられなくなって、目を逸らした。こんなことで、いちいち心を乱されてどうする。どうせキルヒェを揶揄って、その反応を楽しんでいるに違いない。
……今までの自分だったら、こんな時どうしただろうか。怒った? それとも笑っただろうか?
分からない。そんな風に誰かと感情を分かち合って生きていた頃が、他人の人生のように縁遠いものに思えた。
次に視線を戻した時、アーロンの姿はすでにそこになかった。代わりに、船首にいるブラスカと何かを話している。
そのうちブリッツの指導を終えたらしいジェクトも寄ってきて、お馴染みのスフィア片手に談話に参加し始めた。
キルヒェのいる場所からは、会話の詳細までは聞き取れない。時折風に乗って流れてくる言葉の断片から、かろうじて今後の旅程について話しているのだろうことは理解出来た。
彼らの間には、終始穏やかな空気が流れているように見えた。しかし、ジェクトが突如として二人に背を向ける。
「……遺跡なんだろ、千年前の」
甲板に降りてきたことで、その声はキルヒェの耳にも届いた。どこか自棄になっているような彼を追って、アーロンが励ましの言葉を掛ける。
「言い伝えではそうだが、実際は分からん。本当に、あんたの故郷があるかもしれん」
「気休めは止せよ」
ジェクトの声に滲む、隠しきれない落胆。それ以上弱った姿を晒したくなかったのか、彼はその場を立ち去りマストの影へと移動する。
「お前らについていけば、ウチに帰れると思ってたが……そうもいかねえらしい」
元々、ジェクトは超がつくほどの自信家だ。それは胸を張れるだけの努力と才能の証でもあり、自分を保つための矜持でもあったのだと思う。
そんな彼の後ろ向きな発言など、滅多にないことだ。しかしキルヒェは、しばらく前から彼の様子が気になっていた。そう……ジョゼでザナルカンドの話を聞いた、あの夜あたりから。
あんなに嬉しそうに話していた故郷や家族のことも、次第に口にする回数が減っていた。代わりに、諦観に似た表情を浮かべ、遠くを見つめていることが多くなった。
決定的に変わったのは、キルヒェがフィオの話を打ち明けてからだ。どんな危機も、今までは運良く乗り切って来れた。けれど、それは当たり前ではない。死の影はいつも背後に付き纏っているのだという事実を、あのような形で突きつけてしまった。
テーブルに肘をついて項垂れるジェクトの姿が、今も脳裏に焼きついている。それでも彼は、旅を降りたいとは決して口にしなかった。
「キルヒェー!」
溌剌とした声に呼ばれ、思考を引き戻される。声の方を見遣ると、ジェクトがブリッツボール片手にぶんぶんと手を振っていた。側にはブラスカとアーロンの姿もある。
……さっきまでの沈んだ空気は一体どこへやら。そんな疑問が頭に浮かぶが、しかし。
「いくぞ〜!」
状況が読めないキルヒェを置き去りに、ジェクトは掛け声と共に腕を振りかぶった。
「う、わっ、」
さわやかな青と白を基調にしたボールが、ゆるやかな孤を描いて飛ぶ。その落下地点が自分であることには気付いていた。けれど、反応が間に合わない。
ぽこーん! と……実際に音がしたかどうかは定かではないが、そんな擬音がぴったりな衝撃を額に受けた。要は、顔面キャッチだ。
「…………」
かなり手加減していたらしく痛みはなかったが、だからこそ受け止められなかった事実が悔しい。ジェクトに恨めしげな視線を送るも、彼は少しも悪びれることなく手招きしてみせる。
「ほーら、パスパス!」
ボールを手にあたふたしていたキルヒェは、しかしこのまま持っているわけにもいかないと思い直す。
えいっと一思いに投げつければ、速度の乗らない球が、見るからに鈍臭い軌道を描いて飛んでいく。
「わはは! 下手くそ〜!」
「う……うるさいっ」
「今度はよく見て、ちゃんと取れ……よっ!」
せっかく返したのに、なぜまた投げ返すのだろう。ちゃんと取れと言われても、球技とは無縁のキルヒェに上手く出来るはずがない。先ほどのような失態こそ見せなかったものの、寸でのところで取り落としてしまう。
目線を少しずらせば、ジェクトの横で笑う二人の男が目に入った。
……ずいぶん楽しげだが、アーロンはともかく、ブラスカは似たようなものではないのか。そう考えたら無性に腹立たしくなってきて、ターゲットを召喚士へと変える。
「……よっ、と。おや、今度は私かい?」
予想に反して、ブラスカは器用にキャッチしてみせた。そして何を思ったのか、少し散開するように移動して、今度はアーロンにパスを回す。
アーロンからジェクトへ、ジェクトからキルヒェへ、キルヒェからブラスカへ。そしてまた、アーロンへ。
ジェクトのペースに乗せられるまま、謎のキャッチボール大会が始まってしまった。
いい大人───しかも召喚士とガード───がボールで遊ぶ様子はかなり異質だろう。他の乗客の邪魔にならない場所ではあるものの、遠巻きに好奇の視線を感じる。
このままでは永久に終わらない……そんな焦りを覚えて、そもそも投げ返さなけばいいのだということに今更気付く。
つかつかと歩み寄り、手に持ったボールをジェクトの胸元にべちょ、と押し付けた。
「おん? どした?」
「……言っとくけど、球技が苦手なのと運動神経の良し悪しは、関係ないから」
本当かどうかは分からない。けれど以前、フィオがそう言っていたのをふと思い出したのだ。その時もあまり上手に出来なくて、同じ台詞で励まされた。
「まっ、そういうことにしといてやっか?」
ボールを突き返されたのに、ジェクトはなんだか嬉しそうだった。キルヒェは不満げな顔をしたけれど、ブラスカも、アーロンも笑った。
笑顔の仮面を一枚剥げば、それぞれが表層からは窺い知ることの出来ない痛みを抱えている。
それでも、いずれ来るその時までは、楽しく旅がしたい───彼らはそう望んでいるのだろう。きっと、かつてのキルヒェたちと同じように。
振り返ると、先ほどより輪郭を鮮明にしたビサイド島が目に映った。
男たちの賑やかな声を片耳に、キルヒェは密かに願う。この旅が、一刻も早く終わりますように、と。