軌憶の旅 II
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生温い風に煽られ、空を仰ぎ見る。
つい先ほどまで澄み切った青色が広がっていたはずのそこには、いつの間にか重い雲が立ち込め、視界を覆い尽くさんとしていた。
「そろそろ戻ろっか。雨、降ってきそうだから」
砂浜に腰を下ろす一つ歳下の妹に声を掛ける。先ほどからずっと、浜辺で集めたお気に入りの貝殻を並べることに夢中になっているようだ。本当なら協力してやりたいところだが、体調を崩しがちな彼女を雨に曝すのは危険だ。それに今日は、なんだか嫌な予感がする。
「えー、もうちょっと!」
「また明日、ね?」
透き通るような白い貝殻を両手いっぱいに持った妹の、細い手首を引いて立ち上がらせる。その時、ふいに風が止んだ。突如訪れた異様な静寂に、ゆっくりと集落のほうを振り返り───目に映った光景に凍りついた。
島の向こう側、丸く盛り上がった巨大な黒い山が、集落をすっぽりと覆うように暗い影を落としている。いや……山ではない。あれは海だ。黒々とした海面が、今にも島全体を飲み込んでしまいそうなほどまでに隆起しているのだ。
息を呑んだその瞬間、限界まで膨れ上がった海水が弾け、おぞましい巨獣がその堅甲を外気に晒した。華奢な手首を掴む手に自ずと力が籠り、貝殻がぱらぱらと溢れ落ちる。彼女が声にならない悲鳴をあげたのは痛みによるものか、はたまたキルヒェと同じものを見たからなのか。
地面に縫い付けられそうな両足を叱咤し、駆け出した。実際、一人だったら恐怖に立ち竦んでいたかもしれない。だが、今のキルヒェには守るべき存在がいた。浜辺に停めてあった誰のものかも分からない小舟に二人で乗り込み、震える指でボラードからロープを外す。
古びた木製の舟が岸から離れるより早く、衝撃波が到達した。不自然に止まっていたすべての音が、圧倒的な質量を持って押し寄せる。それは二人の少女の悲鳴を掻き消し、その小さな体を荒れ狂う渦の中に放り込んだ。
右も左も、前後も分からない。ただ一心不乱に叫びながら、舟の縁にしがみつき、妹の手を握ることしかできない。
激しい波が、幼い二つの体に容赦なく襲いかかる。この身に感じているのは熱か寒さか、はたまた痛みなのか。絶え間ない責め苦に呼吸すらままならない。巨大な化け物のようにうねる海原で、このちっぽけな舟など今にもばらばらに破砕されてしまいそうだ。
それでも、途切れそうな意識を必死に繋いで指先に力を込めなおす。この小さな命だけは、何があろうと、決して手放すまいと。
「キルヒェ……キルヒェ!」
かすかな、けれどどこか切羽詰まったようなささやきと共に肩を揺すぶられ、はっと呼吸を取り戻す。
強烈な揺れはいつの間にか収まり、耳を襲う強風や荒波の音も、引き潮のように遠ざかっていった。
自身の呼吸音が響くだけで、辺りは静寂に満ちている。視界は暗く、ほんのりと湿気を帯びて肌寒い。夜目には詳細な景色までは見えないが、それでも自分がどこにいるのか分かる。それを認識することでやっと、夢を見ていたのだと理解した。
「キルヒェ、大丈夫? かわいそうに、またあの夢を見たんだね……」
聞き慣れた穏やかな少年の声に、涙が出そうなほど安堵する。
しかし同時に、得も言われぬ苦い気持ちが首をもたげた。それはおそらく、罪悪感だ。あの小さな手を離してしまったこと、そして自分一人が生き残ってしまったことへの。
「ちょっと待って」
キルヒェの肩に毛布を引き上げた手であやすように髪を撫で、少年は半身を起こして振り返る。その様子に、彼が母親に声をかけようとしているのだと気付き、咄嗟に引き留めた。
「あ……待って。だいじょうぶ、だから」
不安でないと言えば嘘になるが、だからといって病気がちな彼女を真夜中に起こすのは忍びない。
それを理解してか、少年はどこか困ったように笑い、しかし納得したように頷いた。細く長い指が、横になったままのキルヒェの肩に添えられる。ぽん、ぽん、と規則的なリズムで触れられて、次第に気分も落ち着いてきた。
島を襲った『シン』の襲撃から逃れたキルヒェは、このバージという寺院の跡地へと流れ着いた。数日間は高熱にうなされ、昏睡状態に陥っていたようだが、なんとか命を取り留めることができたのはここで暮らす親子に救われたからだ。
しかし、意識を取り戻した時、そこに妹の姿はなかった。混乱する頭で親子に問うたが、漂着していたのはキルヒェと小舟の残骸だけだったという。
もしかしたら、妹もまたどこかで生きているかもしれない……そう思い込もうとしたが、それが単なる現実逃避に過ぎないということは子供のキルヒェにも分かる。自分が生き残ったこと自体、奇跡なのだ。キルヒェより幼く、体力もない少女が荒波に呑まれて無事でいられる可能性は限りなくゼロに近い。
それでも、仕方のないことだと割り切ることなど到底できなかった。行き場のない後悔は、数ヶ月経った今も悪夢となってキルヒェを襲う。しかし、その度に思うのだ。あの子が受けた苦しみはこんなものではない。ここにいるのは自分ではなく、あの子であるべきだったのだ……と。
「キルヒェ」
そんな仄暗い思考に囚われかけていたキルヒェに気付いてか、耳元に優しい声が降ってきた。暗闇からいつもキルヒェを引き上げてくれるのは、この声の持ち主とその母親だ。
グアドとヒトという二つの種族の狭間に立たされた彼らは、一族の摩擦を一方的に押し付けられる形で僻地に追いやられたのだという。自らも厳しい環境に置かれてなお、キルヒェを本当の家族のように受け入れてくれた。二人には感謝してもし切れない。
「ねえキルヒェ。ぼくは、キルヒェと会えてよかったと思ってるんだ」
穏やかな声の中にわずかな緊張を感じて、キルヒェは身を起こす。ほっそりとした腕が伸びてきて、キルヒェの手を包み込んだ。その手はいつもより少しだけひんやりとしている。
「君が辛い目にあってよかったってことじゃないよ。でも……」
上手く言い表せずに口籠る少年に、キルヒェは頷く。
「ううん、分かるよ。私もたぶん、おなじだから。ありがとう……シーモア」
家族を、故郷を喪ってよかったというわけではない。ただ、救いだった。暗闇の中、手を差し伸べてくれた彼らの存在が。孤独ではないという事実が。
「……ときどき、自分が怖くなるんだ。母さまをこんな目にあわせたあいつのこと、どうしても許せなくなって……」
透んだ声をわずかに震わせて、シーモアは呟く。
「……全部、なくなってしまえばいいのにって、思うこともある」
放たれた言葉の温度の低さに、はっと息を呑む。聡明な蒼い瞳は夜の闇に溶けて、今はその色を伺い知ることはできない。
日頃から時折、その瞳の深さが垣間見える瞬間がある。それでも、不思議と彼を怖いとは思わない。今のキルヒェにとってシーモアは唯一の友であり、兄だ。たとえそのすべてを理解できなかったとしても。
「……母さまや私のことも、そう思う?」
一方的に握られるだけだった手をしっかりと繋ぎ直して、キルヒェは問いかける。
「思わないよ。思うわけない。キルヒェや母さまがいてくれるから……だからこれ以上、あいつのことも、自分のことも嫌いにならずにいられるんだ。だけどもし、二人がいなくなったら……」
シーモアの語尾が小さく震える。指に籠められた力が、その苦悩を、失うことへの恐怖を物語っていた。
「私たちが、子どもだから……なのかな」
絶対的な力の前では大人も子供もないはずだ。しかし、幼いキルヒェの思考では他に理由など思い当たらない。
「今はまだできないけど、おとなになったらきっと」
「無理だよ」
キルヒェの言葉を遮って、諦観に満ちた声が暗闇にぽつりと落ちる。
「だって……だって、母さまは……」
シーモアの反論に、ぐっと声を詰まらせる。確かに彼女は大人だ。キルヒェの父も母も、キルヒェよりずっと大人だった。そして……無力だ。
だとしても。キルヒェは俯きかけた顔を再び上げる。
「じゃあ、『シン』を倒したら? 父さんが言ってた。召喚士なら『シン』を倒せるんだって。だから召喚士は、みんなの希望の光なんだって。もし私たちが『シン』を倒したら、みんな喜ぶよね? そしたら誰も、シーモアや母さまにひどいことしようなんて思わなくなるよね?」
『シン』の恐怖はキルヒェも身をもって体験している。故郷を、家族を奪ったのは他ならぬ『シン』だ。あれに立ち向かうと考えただけで体が縮み上がり、今にも手が震えそうになる。
だが、不可能ではない。あれに対抗し得る存在が、世界には存在するのだ。世界に光をもたらす人物に危害を加えようなどと、誰が思うだろうか。
「私たちがやろうよ、シーモア。ヒトもグアドも関係なく、みんなが明るいところで、にこにこ笑って暮らせるような……そんな世界を作ろうよ」
「明るいところで、笑って……」
凛とした少年の声が、キルヒェの言葉を反芻する。まるで自分自身に言い聞かせるように。
「不思議だな……キルヒェとなら、本当にできそうな気がする」
表情までは見えずとも、シーモアが微笑むのを感じた。繋がれた手は先ほどより幾分温かく、少年の胸にささやかな希望の火が灯されたのだと知る。たとえ不可能に近かったとしても、この希望を途絶えさせたくない。そう……一人では困難でも、二人でなら。
「二人とも、起きていたの」
シーモアの背後で身動ぐ気配がした。たおやかで優しい声は彼の母親のものである。今は、キルヒェの、と言ってもいいかもしれない。少なくとも彼女は、キルヒェが自分をそう呼ぶことを許してくれている。
「母さまっ」
「母さま……起こしちゃってごめんなさい」
声を抑えていたはずが、知らぬ間に大きくなっていたかもしれない。キルヒェが申し訳なさそうに眉尻を下げると、肘で体を支え、半身を起こした母がゆるやかに首を振る。
「大丈夫よ。二人で何をお話していたの?」
「あのね、母さま……」
シーモアとキルヒェで、交互に言葉を継ぎながら今しがた話した内容を話して聞かせる。幼い空想であったが、キルヒェにはそれがとても素晴らしい計画に思えた。自分たちが『シン』を倒せば、何もかもが良くなるような気がした。
母もきっと、それを喜んでくれるだろう。そう確信していたが、期待とは裏腹に、彼女は声を詰まらせ、まるで痛みでも堪えるかのように俯いている。
「母さま……?」
しばし沈黙していた母が、やがておもむろに動いた。彼女は毛布を引き上げ、シーモアとキルヒェを包み込むように抱きしめる。
「ありがとう……キルヒェ、シーモア」
彼女は泣いていた。細くしなやかな腕や、声帯から伝わるかすかな震えに、隠しきれない嗚咽が滲んでいる。
「ごめんなさい、辛い思いをさせて。本当に……ごめんなさい」
なぜ謝罪されなければならないのか、キルヒェには分からなかった。ただ笑顔になって欲しかっただけなのに……彼女やシーモアの苦悩を理解するにはキルヒェはまだ幼く、そして無知だ。
けれどきっと、共に歩む未来が必ず訪れるのだと、そう信じていた。彼らとの別れが間近に迫っていることなど、知る由もなく。
隣にいるシーモアの温度を感じながら母の腕に抱かれていると、やがてふわふわとした微睡みの気配が近づいてきた。次第に重くなる瞼をゆっくりと閉じれば、耳元でかすかな声が聞こえ始める。
それは歌だった。美しく、どこか物哀しい旋律。今ではすっかり聴き慣れたその調べに身を委ね、キルヒェは安らかな眠りへと落ちていった。