軌憶の旅 I
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真っ黒な水が轟き、巨大な生き物のようにうねりながら、獲物を飲み込もうとしている。
古い板材が絶え間なく悲鳴をあげる。荒れ狂う海の真ん中で、今にも消えそうな泡のように成す術なく弄ばれていた。
不安に押し潰されそうになっていたその時、強く手を握られる。一人じゃない───そう訴えかけてくるような温もりを、こちらも必死で握り返す。降りかかる力のすべてが、二人を引き離そうとしていた。けれどこの手を離してしまったら、きっと、もう二度と会えないから。
「────!」
名前を叫ぶ声は波音にかき消された。引き寄せようとしても、かじかんだ指がそれを許してくれない。叩きつける水に呼吸さえ妨げられて、すべてをあきらめてしまいたくなる。
───それでも。
必死に自分を奮い立たせて、もう一度指先に力を込めようとした……その瞬間、一際大きな波が打ち付けてきた。
指先は儚く解け、意識は遠のいてゆく。すべては暗闇に呑まれ、途切れて……消えた。
焦点の合わない瞳が、次第に目の前の景色を引き結んでいく。数回瞬いてやっと、琥珀色のまなざしが静かにキルヒェを見下ろしているのだと理解した。
「アー、ロン……?」
未だ意識が混濁している中で、知っている顔はキルヒェを無性に安心させた。どうやら、自分は寝台か何かの上に寝かされているらしい。夢の中でかじかんでいた手は、今は温かな手にしっかりと握られている。
……握られて、いる?
おもむろに視線を移すと、アーロンの大きな手が、キルヒェの手を包み込むように握っているのが見えた。
「お目覚めか。……誤解のないように言っておくが、先に掴んできたのはお前だからな」
「えっ……わ、私? なんか分かんないけど、ごめん」
全く状況が理解出来ず、慌てて手を離す。アーロンは少し笑った。
「そういえば、ここ……どこ?」
周囲を見回す。どこかの寺院であることに間違いはなさそうだが、この部屋に見覚えはない。そもそも、ここに来た経緯が全く思い出せないのだ。
「ジョゼ寺院だ」
「ジョ、ゼ……? あれ、私、今まで何して……っ、ユウナは!? みんなは無事!?」
ミヘン・セッションでの惨状を思い出し、思わず飛び起きようとする。が、すぐさま肩を押され、再び寝台に身を沈める羽目になった。
「慌てるな、全員無事だ。お前はもう少し休んでおけ」
「でも……!」
「まだ顔色が悪い。今戻っても、余計な心配をかけるだけだ」
「それは、そうかも……だけど。はぁ……ガード失格ッスね」
言われてみれば、わずかに泥のような疲れがまとわりついている気がした。あの時、不思議な声に導かれるまま少年の遺体と対面し───そこからの記憶が途絶えている。おそらく再び気を失ったのだろう。
あのおびただしい遺体の数と、それを送ったであろうユウナの負担を考えると、側に居られなかったことが悔やまれる。
「ユウナ、大丈夫かな……」
「人の心配をしている場合ではなかろう」
「うう……この度はほんと、反省してます」
「いや、そうではなく……」
珍しく言い淀んで、アーロンはサングラスのブリッジに手を掛けた。
「……ひどく、うなされていた」
一瞬、意味が分からずきょとんとする。しかし、暫し記憶を遡って、目覚める前の事だと気付いた。思い当たることなら、確かにある。
「ああ……嫌な夢、見たからかな」
「夢?」
「真っ黒な海に投げ出されて、波に揉まれて、今にも飲み込まれちゃいそうでね。『助けてー!』って思いながら、必死に何かにしがみ付いてるの。ものすごく不安で怖かったけど、誰かが一緒にいて。その人の手を、強く握り締めてた」
だからアーロンの手を握っちゃったのかな、とキルヒェは笑う。
「誰かは分からないんだけど、とにかくその人は私のとっても大切な人で、何があってもこの手だけは離さないぞ! って、頑張ってたんだけど……たぶん、だめだったんだと思う」
繋いだ手の感触を、打ち付ける水の激しさを、まるで本当に体験したかのように思い出す事が出来る。その後、自分たちがどうなったのかは分からない。けれど、あの様子ではどちらも無事ではいられないだろう。
「さーて、もう大丈夫! 話してたら少し復活してきたみたい。ご迷惑おかけしました」
うーんと伸びをしながら身を起こす。そこで初めて、自分の体に何か温かな物が掛けられていることに気付いた。赤い色の布地は、普段アーロンが身に付けている羽織りだ。確かに今の彼は珍しく軽装で、襟元に隠れているはずの後ろ髪が背中に流れていた。
「これ、貸してくれたんだ。ありがとうね」
羽織をアーロンに手渡す。その際、ちょうど右肩の辺りにある縫い跡が目に入った。
「へえ……大事に着てるんだね」
「……まあな。あまり上手く縫えてはいないがな」
よく見ると、間隔も糸の出方もまばらでお世辞にも上手とは言えない仕上がりだ。まさかアーロンが自分で縫ったのだろうか。裁縫などしそうにない彼が必死に針仕事をしているのを想像すると、なんだか面白い。
「ん〜、確かに。さすがに私でももうちょっと上手に縫えるかも」
その言葉に、なぜかアーロンは肩を震わせて笑い始めた。キルヒェとしては素直な感想を述べたに過ぎないのだが、一体何がそんなにおかしいのだろう。
「この間から思ってたけど、笑いのツボ、ちょっと変だよねえ……」
「いや……少し、昔の事を思い出してな」
まだ笑いを含んだ声で答えたアーロンは、寝台の傍に置いた椅子から立ち上がると、袖に手を通し始める。まだ納得のいかないキルヒェだったが、ユウナの元へ戻るべく彼に続いて立ち上がる。
「キルヒェ」
アーロンは身支度を終えるなり部屋を出て行こうとしたが、数歩進んだところで立ち止まり、振り返らずにキルヒェを呼ぶ。
「召喚士に心配を掛けたことについては、確かに褒められたものではない。だが……気丈に振る舞うのは、ユウナの前だけでいい」
「え?」
「いずれにせよ……無事で何よりだ」
彼なりの、気遣いなのだろうか。表情を伺う事は出来ないが、その声は優しい。
「あ……ありがと」
そう呟いた時にはすでに、アーロンは部屋の外へ消えようとしていた。せっかちな彼に、この声は届いただろうか。
「キルヒェ!」
本堂に戻ると、すぐにユウナが駆け寄ってきた。
「ユウナ、ごめんね。みんなも……心配おかけしました」
「身体、何ともない? キルヒェ、海岸で倒れてて、声をかけても全然反応がなくて……このまま目を覚さなかったらって思ったら、わたし……」
「もう大丈夫。ありがとうね」
不安げに眉を寄せるユウナの髪をそっと撫でる。目の下には、隠しきれない疲労の色が滲んでいた。
「もしかして、キルヒェ様ではありませんか」
突然、近付いてきた一人の青年に声を掛けられる。
「あっ、違うんです、私……」
誤解を解こうと口を開いた時、彼の後ろでヨンクン像に祈りを捧げていた老婆が振り返った。
「キルヒェ……久方振りじゃな。ブラスカ様のガードを務めたと思ったら、今度はその娘であるユウナ様のガードとは。自らの召喚士としての使命を捨ててもなお、名声を欲するか」
「っ……!?」
「なんだよ、感じ悪りぃな!」
心ない言葉に、寺院の中ということも忘れてティーダが食いかかる。そこへ割り入ったのは静かな、けれど凛とした声。
「あの」
ユウナだ。
「わたしのような未熟者がとやかく言える立場ではありません。ですが……ガードがいなければ召喚士は旅をすることはできません。『シン』を倒すという目的の前では、ガードも召喚士もないと思います。絶対に、名声のためなんかじゃない。生半可な気持ちでは旅は務まらないはずです。だからキルヒェさんのこと、そんな風に言わないでください」
「ユウナ様……」
彼女の口調は穏やかなものだが、有無を言わせぬ強かさが感じられた。召喚士の言葉に老婆も言い返すことができず、口を噤む。
「それから、似てはいますが彼女はキルヒェさんではありません。それでは失礼します」
早口で一気に言い終えると、ユウナは行こう、とキルヒェの手を取り、試練の間へと続く扉へと向かう。
「あんな言い方、ひどいよ……」
扉の前で立ち止まり、俯く。そんな彼女の肩に、そっと手を置いた。
「ユウナ……ごめんね、あんなこと言わせて」
「そんなことない! 使命を捨てただなんて……さすがにカチンときちゃった。途中で旅をやめる召喚士もいるけど、その人たちだって絶対に半端な気持ちで召喚士になったわけじゃないんだよ」
ユウナは胸の前で固く手を握りしめる。召喚士である彼女はその覚悟の重さを知っているだけに、余計悔しかったのだろう。それこそ、直接言葉を浴びたキルヒェ以上に。
「それにね……父さんを守ってくれたキルヒェさんも、わたしを守ってくれるキルヒェも、とっても大切な人。そんな人たちに酷いことを言うなんて、どんな理由であろうと許せないよ」
「ありがとう……ユウナ」
成り行きではあったが、自分がガードを務めることになった召喚士がユウナで良かったと、心からそう思う。
「……でも、キルヒェさんが召喚士だったっていうのは、初めて聞いたな」
「そうだったみたいね。私もよく知らないけど、ご自身の旅のお話もぜひ、なんて言われたことあるもん。だけど……さすがに面と向かってあんなこと言われたのは、初めてかな」
視線だけでアーロンに問う。はぐらかされるかと思いきや、彼は予想に反して口を開いた。
「……キルヒェは、かつてジョゼ寺院出身の召喚士だった。『シン』を倒したことでガードとして名が知れ、召喚士だったことは次第に忘れられたんだろう」
大召喚士と共にナギ節を作った人物となれば、確かにそちらのイメージが定着するのも無理はない。しかし、そこまでして『シン』を倒そうとする意思があるなら、なぜ召喚士をやめたのか。
「どうしてわざわざ、ガードになったの?」
「さあな」
これ以上話す気はないのか、アーロンは踵を返し、試練の間へと続く階段を登り始める。
「なんか、知ってそうだよね」
気になるとところではあるが、これ以上は考えても仕方がない。ユウナと顔を見合わせ、キルヒェはアーロンの背中を追った。