軌憶の旅 I
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ベッドに入って何度目かの寝返りを打つ。疲れているはずの体は頑なに眠りを拒んでいた。目を閉じ、穏やかな暗闇に身を任せてみても、思考の渦に飲まれるばかりで一向に睡魔は訪れない。
それはユウナも同じらしく、時折隣のベッドで身じろぐ気配を感じる。シーモアからの求婚にジスカルの件。気がかりなことばかりなのだから無理もない。
ユウナの方もおそらくキルヒェが起きていることに気付いているだろうが、互いにあえて無言を貫いている。
もう一度寝返りを打ったあたりで、もはや無理に寝ようとするのは諦めようと開き直った。外の風にでも当たって、少し体を動かせば自然と眠気も訪れるだろう。静かに部屋を抜け出しロビーへ向かうと、薄明かりの中に見知った姿を見つけた。
「あれ……アーロン」
彼もまた、考え事でもしていたのだろうか。壁に身を預け立つその手には、酒の入った徳利が握られている。
「眠れぬ夜のひとり酒、ですかな?」
「ただの気分だ。お前こそ、こんな時間にどうした?」
「なんだか、妙に目が冴えちゃって。ちょっと散歩にでも出ようかなって」
アーロンは答えずに、手元の酒を一口あおる。無視か? と思った矢先、彼は壁に預けていた体を起こした。
「付き合おう」
積極的に人と行動を共にしたがらないアーロンの返答を意外に思ったが、たまにはそんな気分の日もあるのかもしれない。二人で宿のドアを静かにくぐる。
外は少しひんやりとしていた。寒いというほどではなく、堂々巡りの頭にはむしろ心地良いくらいだ。
グアドサラムは日中でも薄暗い。深夜ともなればさぞ陰鬱なのだろうと思いきや、所々にあしらわれたスフィアの青い光とのコントラストが増して、いっそう神秘的に見えた。
幻光濃度の高さゆえか空気は重厚だが、決して澱んではおらず清廉な気配を感じる。街全体が巨大な樹木の中にあるような造りをしているため、風通しは悪いはずなのに、まるで木そのものが深く呼吸をしているようだった。
「厄介な一日だったな」
「そうだね、色々あり過ぎてびっくりしちゃった。とりあえず、ユウナが結婚しないって決めてくれたのは良かった、のかな」
ぽつぽつと話をしながら、行き先も決めずに歩き出す。
気掛かりなのはユウナの事ばかりではない。様々な出来事が、複雑に絡み合って脳を占拠している。この人の事だってそうだ。
「あのさ……身体、大丈夫?」
「問題ない。手間をかけてすまなかったな」
「手間なんかじゃないけど……さすがに焦ったよ」
苦しそうに蹲る背を咄嗟に支えた時、あのまま消えてしまうような気がした。
今までもユウナが異界送りをすることは度々あったが、その時彼はどうしていただろう。いつも皆の輪から少し外れていたから、特に違和感はなかった。けれど……シーモアの意味深な言葉もあいまって、疑念は確信に近いものへと変わる。
「……私の勘違いじゃ、ないんだよね?」
「ああ……おそらく、お前が思っている通りだ」
「そっか……」
否定の言葉を期待していたわけではないが、こうして本人の口から聞くと何と答えてよいか分からない。彼との間に流れる沈黙は苦痛ではないが、今は少しだけ、痛い。
「その、なんで……とか、聞いてもいいのかな」
キルヒェが立ち止まると、アーロンもまた歩みを止めて振り返った。言葉を探すように二、三度ゆっくりと瞬いたのち、彼は静かに語り始める。
「どうやっても勝ち目のない相手に立ち向かった。その結果がこの様さ。だが、あの頃はどうしようもなく無知で、未熟で……それ以外の方法など思い付きもしなかった」
「もしかして、その傷も?」
「そうだ」
薄明かりの下でも分かるほどの大きな傷跡。額から形の良い眉を突き抜け頬まで走るそれは、彼の右目が二度と光を取り入れぬよう、まるで戒めであるかのように瞼を縫い付けている。
それが彼の生きた証であり、後悔の印でもあると思うとやるせない。
「少しだけ、見せてもらってもいい?」
「構わんが……決して気分の良いものではないぞ」
そう言いながらも、アーロンはゆっくりとサングラスを外した。
歩み寄り、そっと瞼に触れる。そこから傷跡を辿るように、指を下へと滑らせた。重ねてきた苦労を滲ませる頬は男性らしく骨張っていて、けれど緊張に冷えたキルヒェの手の平よりもわずかに暖かい。
「キルヒェ?」
「……こんなに、あったかいのにね」
あの時触れた背中も、普段と比べれば頼りなく思えたけれど、触れれば確かな感触と人間らしい体温を持っていた。
自分とこの人の、何が違うというのだろう。生者と死者を隔てるものは、一体何なのだろう。姿だけではない。仲間を鼓舞し、見守り、時に気遣うその心も。決して解りやすいものではないけれど、血の通った人間と何ら変わりないというのに。
「ごめん……なんか、私……」
伸ばしていた手を引きながら、キルヒェは俯いた。様々な感情が渦巻いて、うまく言葉になりそうにない。
「そんな顔をするな。この身体で便利だったこともある。それに、そう簡単に消えるつもりはない。少なくとも、旅が終わるまではな」
言外に、旅が終われば消えると告げられているような気がした。彼の目的が何か、その目的が旅の果てにあるのか、それは分からない。けれど、何か少しでも力になれたら……そう考えてしまうのは余計な世話だろうか。
「この世に留まり続けるのは、何か思い残した事があるからだって聞いたことがあるの。アーロンの未練が何かは分からないけど……それって、この旅の中で少しでも果たせたり、するのかな」
「そうだな……長い道のりではあるがな」
溜め息に、長らく感じてきたであろう苦渋を滲ませて、アーロンは頷く。
「うん……そっか。そうだといいなって、思ってた」
本来の肉体を失ってなお留まり続けなければならないほどの強い想い。そんなものに縛られ続けるのは、場合によっては死そのものより辛いのではないか。
その苦しみが少しでも和らぐのであれば、これほど望ましいことはない。たとえそれが、彼の消滅に繋がることだとしても。
「それより……異界から戻って以来、顔色が優れないようだが」
サングラスを掛け直しながら、アーロンが問う。
本当に、仲間の異変によく気付く人だ。他人に興味がなさそうな振りをして、その実周りをよく観察している。そんなところが温かくて……だからこそ、悲しい。
「話してみろ。何があった?」
「何、ってわけじゃ、ないんだけど……」
なんと説明していいか分からず口籠る。こんな話、おかしいと思われないだろうか。口にしてしまうのが少し怖いというのもある。けれど……なぜだろう。彼になら話してみてもいいかもしれないと、素直にそう思えた。
「あのさ、『キルヒェ様』って、今どうしてるか知ってる?」
「いや……十年前に別れて、それきりだ」
「そうなんだ……ねえ、どんな人だった?」
キルヒェの問いかけに、琥珀色の瞳が過去を探して彷徨う。
「初めは……キルヒェのことが気に食わなかった」
「え? そうなの?」
「ああ。いつも頑なで、人と話すのに碌に顔すら見ようとしない。珍しく口を開いたかと思えば、出てくるのは皮肉や拒絶といった言葉ばかり。そんな奴が旅に加わることが、当時の俺は許せなかった」
ジョゼでネルケに聞いた人物像とはかなりかけ離れている。しかし、昔からの馴染みとこれから関係を築いていこうという相手では、前提が違うのかもしれない。
「だが、旅をする内に違う一面が見えてきてな。意地っ張りだが、いつも必死で……人がやりたがらないことを陰ながら引き受けようとする。そんな奴だ」
「そ……っか。なんか、私と全然違うね」
「どうだろうな。十年もあれば人は変わる。それに、人はいくつもの顔を持つ生き物だ。俺が見てきたのも、おそらくは単なる一側面に過ぎないのだろう。しかし、なぜあいつのことを?」
「あのね……誰も、出て来なかったんだ」
「何?」
「異界。今日、行ったでしょ」
頭に思い浮かべさえすれば、故人が生前の姿で目の前に現れる───本来ならば、そのはずだ。けれどキルヒェの目の前には、幻光虫が虚しく浮遊するだけだった。
「私の故郷が『シン』にやられたって話は、前にしたよね」
「ああ……」
「家族も、友達も、近所の人も、誰も出て来なかった。色んな人を思い浮かべたけど……私の前には、誰も」
アーロンは眉を顰めた。やはり、これは通常であれば考えにくいことなのだろう。
「時々、思うことがあるんだ。私は『キルヒェ』っていう容れ物に入った、別の人間なんじゃないかって」
自分という存在。掴もうとしても、霧のように指の間をすり抜けていく。手のひらに残るのはいつだって、同じ名前をした別の人の痕跡ばかり。
「そんなことあるわけない、私には私の歴史があるんだからって、思ってたんだけどね。……あは、おかしいよね。遅れてきた思春期かっての」
なるべく明るい声を出そうと努めるが、喉から出るのは乾いて引き攣った笑いだけだった。なぜだろう、この男の前だと、そんなちっぽけな虚勢すら思うように張れない。
「お前をこの旅に連れ出したのは、他でもない……この俺だ」
普段ふてぶてしいくらい堂々としている男の、珍しく後ろ向きな台詞に顔を上げる。
「旅に出なければ、何も知らず、平和に暮らせたかもしれない。それでも俺は……」
「待って待って。私、旅に出なければ良かったなんてこれっぽっちも思ってないよ」
アーロンの言葉を遮って、首を横に振る。ガードになったことを後悔したことは一度たりともない。だから、そんな神妙な顔をされる筋合いはまったくないのだ。
「最終的には私が決めたこと。確かに、ガードにならなければ、こんな気持ちにもならなかったかもしれない。でも、皆のことけっこう好きだし。後悔はしてないよ」
「……そうか」
「それに、もし旅に出てなかったとしても、いつかきっと行き当たる問題だったと思うから」
容姿だけでなく名前まで同じ人間など、そう存在し得るものではない。シーモアが、何か理由があるはずだと言うのも頷ける。記憶の欠落についてもそうだ。異常に気付いていながらも、心のどこかで認めることを拒否し続けていたのだろう。
日常に追われる振りをして、現実から目を背け続けた……そのツケが、たまたま今回ってきたというだけの話だ。
そう笑って話せば、アーロンは落としていた視線をキルヒェに向け、静かに口を開いた。
「この先に待ち受ける出来事を、俺が保証してやることは出来ない。真実を知り、前へと進むことが出来るのか。あるいは更に自分を見失うことになるのか。しかし、この先何があろうと……お前は、お前だ」
その言葉に、はっとして顔を上げる。
彼も、同じなのだと思っていた。シーモアや他の多くの人々のように、キルヒェを通して『彼女』の姿を見ているのだと。けれどそうではない、キルヒェはキルヒェなのだと、彼の口から聞けた……そのことが、こんなにも心強いなんて。
「記憶の是非がどうであれ、お前は今この時、確かにここに存在している。それが何よりの証拠だ」
「確かに、存在している……?」
「ああ。少なくとも、俺に比べればよほど揺るぎない存在だと思うがな」
皮肉か、はたまた彼なりの冗談か、少し笑ってアーロンは言う。
今ここにいること、だなんて、当たり前すぎて考えてもみなかった。自分の胸にそっと手を当てれば、女性特有の細い鎖骨や肋骨、その上に乗った皮膚のやわらかな質感が手のひらを押し返す。それを感じるための感覚も、その更に内側にある心も、確かに自分だけのものだ。
たとえば、実在性すら問われるような土地から来たティーダや、死人であるアーロン。彼らの存在が虚構かと言えば、それは違う。他人がそれを不条理だと言おうと、彼らは確かにスピラに存在し、あらゆるものに触れ、感じ、何かを成そうとしている。それは紛れもない事実だ。
キルヒェだってそうだ。ほんの少し、人と違う事情を抱えているというだけ。過去や記憶がどうであれ、今の自分まで疑うことはない。そんな大切なことを、アーロンは教えてくれている。
「うん……そうだよね。私は、私。ユウナのガード」
───ならば、お前は何者だ?
ルカでの、アーロンの言葉を思い出す。幸いなことに、あの時の問いの答えを今の自分は持っている。自身を取り巻く真実を紐解くことは、まだできないけれど……差し当たっては、この肩書きと使命さえあれば十分だ。
「うじうじ考え込んで、らしくなかったな。ありがと、アーロン。大切なこと、忘れるところだった」
「それは何よりだ」
短く答えながら、さして興味もなさそうに肩をすくめる。だがその仕草も単なる照れ隠しに過ぎないのだと、そこその付き合いになった今なら分かる。
「あのね、アーロンも……話せないこととか、話したくないこととか、色々あると思うんだ。でも……」
支えになりたいだなんて、そんなおこがましいことは言えない。けれどせめて、こうして力になってくれる彼に何かを返したい。そう思うのは、不自然な感情ではないはずだ。
「たまには私たちのこと、頼ってよね。もちろんユウナのことが最優先だけど、せっかくこうして、一緒にいられるんだから」
アーロンは返答の代わりに、静かに瞼を下ろした。襟元に隠れて見えないが、きっと口元にはわずかに笑みを湛えている。そう信じている。
さすがに少し、冷えてきた。そろそろ戻ろうか───そう言いかけて、口を噤む。彼の隣が、思いの外穏やかで心強いことに気付いてしまったから。
残された時間は、おそらくあまり長くはない。それでも今は、もう少しだけ一緒に居たい……そう思った。