軌憶の旅 I
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祭りの熱に浮かれたルカの街。久し振りに降り立ったスピラの光景に目を細める。音も、匂いも、風も、確かに感じることができた。あの頃と何も変わらない、死の螺旋に捕われたままの世界。
晴天の港町はブリッツの大会を心待ちにした人々の活気に溢れ、まるでこの世界に脅威など存在しないのではと錯覚させるほどであった。実際はいつ訪れるか分からない死の恐怖から逃れるため、刹那の娯楽に没頭している。
───ふと、喧騒を縫うようにして、かすかな歌声が聞こえた。自らの脳が聴かせた都合の良い幻かと思ったが、それは潮風に乗って断続的に聴こえてくる。もう聴くことは叶わないと思っていた、懐かしい歌。はやる気持ちを抑え、声の方へと足を進める。
人の波から少し外れて、一人の女が立っていた。フェンスに身を預け、海を眺めながら呑気に鼻歌を歌っている。伸びやかな声。手には色とりどりの風船が握られている。
それは眩暈がしそうなほど長閑な光景で、現実というものから遠くかけ離れた淡い夢のようだった。
「久し振りだな」
もう少しましな言い回しがあっただろうに、口から出たのは呆れるほど情趣のない台詞だった。だが、他にどんな言葉であればこの胸の内を表すことができる?
声を掛けられた事に気付いた女が振り返り、少し首を傾けた。あの頃より髪も伸び、纏う雰囲気も随分と変わっていたが、些細な仕草は昔と変わらない。
「今まで何をしていた?」
「何って……仕事の休憩中ですけど」
「仕事?」
「そうそう。こういうイベントに出向いて、ちょっとしたショーとか、演奏とか、あとこういうの配ったり……まあ他にもいろいろ?」
そう言って、手に持っている風船をふわふわと揺らしてみせる。その顔には少しの翳りも見られない。おそらく、何も覚えていないのだろう。記憶を失くし、まっさらな状態で新しい人生を歩んでいる。
それでも、かなり上出来だった。生きても死んでも、こうして再びまみえることなど叶わないと思っていたから。
「っていうか、いきなり何ですか? え、もしかしてナンパ?」
おかしな言い草に眉を寄せれば、何が面白かったのか声をあげて笑う。
「あはは……冗談! きっと人違いだと思うな。私、有名人によく似てるみたいだから。……あ、そろそろ戻らなきゃ。ねえ、おじさん、ルカの人?」
「いや……」
「そっか、じゃあエボンカップ観に来た感じかな? 精一杯盛り上げるから、楽しんでいってね!」
大きく手を振り、走り去っていく。心からの笑顔を見たのは初めてだと、今更ながら気付いた。背負うものさえなければ、かつてもあんな風に笑えたのだろうか。
何も知らずにいれば、このまま平穏に暮らせるということは分かっている。それでも、再び彼女を旅へと連れ出すだろう。たとえ自己満足に過ぎなかったとしても、あの時彼女が抱いた決意を、後悔を、無かったことにするわけにはいかない。
高空の下、選手団の到着を知らせる汽笛が鳴り響く。キルヒェの姿はいつの間にか人混みに紛れ、彼女の持つ風船だけがふわりと揺れていた。