Children in Time
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先日発生した『月の涙』の影響は、広くバラム以西にまで及んでいた。かつてセントラ文明を滅亡へと導いた災厄の名は人々を震撼させ、不安の渦へと突き落とす。
詳細は未だ調査中とのことだが、発生地点はエスタ地方であるとの見解が正式に発表された。エスタといえば、少し前にゼルたちが向かったばかりだ。嫌な予感が胸をよぎる。
しかし、そんな心配をしている間にも、現実は容赦なく押し寄せてくる。
月のモンスターが生態系に及ぼす影響の調査、およびそれらの掃討は、市民の安全を守る上での最重要任務だ。加えて、このガーデン自体も未だ復興の最中にある。先の内紛でマスター派の教職員が失脚したこともあり、今や彼らが請け負っていた業務までもが生徒たちに回ってきている。
疲労に押しつぶされそうな日もあるが、何も出来ないよりはずっといい。どんなに歯痒くとも、手の届かない範囲の出来事は信じて待つほかないのだから。
突然の召集が掛かったのは、そんなタスクに奔走していた時だった。しかも、学園長直々の下令だという。
重要な話であることは確かだが、思い当たる節はない。どこか釈然としない気持ちを抱えたまま、ニカはエレベーターホールへと足を向ける。
学園長室には、ニカを含め数名の生徒が集められていた。誰も身に覚えがないのか、室内にはわずかに探るような気配が満ちている。
「皆さん、揃いましたか」
程なくして現れたシドは、一列に並んだ生徒たちの顔を順に見遣ると、ひとたび大きく頷いた。
「なぜここに呼ばれたのか分からない、という顔をしていますね。……単刀直入に申し上げます。皆さんを、正式にSeeDに任命したいのです」
周囲からどよめきが起こる。当然だろう。ここにいるのは全員試験に落ちた、あるいは諸般の事情により受験すらしていない生徒たちなのだから。
「困惑する気持ちも分かります。しかし、我々のガーデンは……いえ、今やこの世界全体が、かつてない危機に瀕している。どうか、力を貸していただきたいのです」
一般生徒と傭兵たるSeeDでは、担うことの出来る業務に大きな差がある。不足した人員を補填しなければならないのはもっともだが、感情が伴うかは別だ。突然の任命をすんなりとは受け入れ難く、ニカは無言で両手を握り締める。
そんな中、一人の生徒から戸惑いの声が上がった。
「だからってこんな……唐突過ぎます。人手が足りないことは理解してますけど……」
「人手が足りない……そうですね。残念ながら、それは事実です。とはいえ、誰彼構わず選出するわけではありません」
そこまで言って、シドはもう一度各自の顔を見渡した。
「ひとつ、考えてみて欲しいのです。前回のSeeD試験の時の皆さんと、今の皆さんは果たして同じでしょうか?」
ドールでの実地試験も、もうずいぶんと前のことのように感じる。ニカにとっては苦い記憶であり、自らの生き方を見直すきっかけとなる出来事でもあった。
「あれから、このガーデンが戦場になりました。試験と違って、教官も先輩たちも助けてはくれません。正真正銘、命懸けの戦いでした。皆さんはその過酷な戦いを生き抜き、勝利に多大な貢献をした。このことには、試験以上に大きな意味があるのです」
確かに、どちらも戦場であることには変わりない。しかし、自分が生きてここにいることは、単に運が招いた結果に過ぎないとニカは感じていた。
「もちろん、無理にとは言いません。今後を決める大切な決断ですから、悔いのない選択をしてください」
長机に置かれた契約書を、複雑な心境で見据える。
喜び勇んですぐさま契約を交わす者も、考える時間が欲しいと去る者もいた。おそらく、どちらも間違いではない。
考え抜いた結果、ニカはペンを取った。ガーデンに貢献するにはそれが最善だと思った。私腹を肥やしていたとはいえ、マスターという出資者を失ったのは事実。ガーデンを存続させるためにも、SeeDの派遣は不可欠だ。
書類に目を通し、サインをする。その一連の儀式はしかしどこか作業めいていて、ニカの胸に何の実感ももたらすことはなかった。
「学園長……」
すでに他の生徒の姿はなく、部屋にはニカとシドの二人だけが残っている。控えめに呼び掛ければ、彼はその温厚そうな瞳を向けた。
「なんですか? ニカ」
「次のSeeD試験、正式に受け直すことは可能でしょうか」
なぜそんなことを聞いたのだろう。自分の気持ちがどこにあるのか、自分でも分からない。
「試験を受け直すことは可能です。ただし、そのためには一度辞任していただかなければなりません」
SeeDになることはゴールではない。卒業、そして就職と、人生は続いていく。一時的なものとはいえ、SeeDを辞めることで経歴に傷が付くと捉える者もいるだろう。それでもよいかと、シドの視線が問い掛けている。
「分かりました。検討します」
その時どんな選択をするか、まだ分からない。けれど、流されるままSeeDを続けるようなことだけはしたくないと思った。
「そうだ……ニカ」
一礼し、背を向けたところを呼び止められる。
振り返ると、先ほどまでの鷹揚とした姿勢をわずかに崩したシドが、目を細めてニカを見つめていた。
「いつもゼルを気にかけてくれて、本当にありがとう。話は耳にしていますよ。あなたと親しくなって、あの子はずいぶん思慮というものを覚えた」
「いえ、私の方こそ……」
まさか、このタイミングでその名を聞くことになるとは思わなかった。
ゼルの交友関係を把握していることにも驚いたが、そもそも彼らと学園長夫妻の関係は公には伏せられているはずだ。
ともすれば不用意な発言を招いてしまいそうで、ニカは口を噤む。しかしシドは、心配要らないとでも言うようかのようにゆったりと頷いてみせた。
「あの子たちに過酷な運命を強いている自覚はあります。けれど、後悔はしていません。先日の戦いでも、多くの子どもたちを喪いました。その死を悼む資格すら……私にはありませんから」
恰幅のよいはずのシドの頬は以前よりも削げ、眦には深い皺が刻まれている。朽葉色に混じる白い髪も、その数を増やしたようだ。
愛する子供達を、育てたその手で死地に送る……それは果たして、どんな気持ちなのだろうか。
「それでも、あなたのように良い影響を与えてくれる存在がゼルの側にいたことを、私は心から嬉しく思ったのです。それだけは、伝えさせてください」
ニカが何か答える前に、さあ、と言ってシドは両手を打つ。その目はもう、燃えさしのような哀愁を宿してはいなかった。
「行きなさい、ニカ。あなたは兵士である前に、ひとりの人間です。あなたの人生はあなたのもの。その目で見て考え、あなた自身の道を選び取るのです」
シドの言葉を聞き終えたニカは、もう一度深く頭を下げるとエレベーターに乗り込んだ。
彼が何を思って、ニカの前でその柔い部分を晒したのか分からない。ただその姿を見て、相棒を助けてくれと縋ってきたドールの兵士のことをうっすらと思い出していた。
軍人だろうと、指導者だろうと、繊細で脆い部分を持ったまま大人になれるのだ。今はそのことだけが、不安なニカの気持ちを和らげていた。
ロビーに降りると、いつもと変わらない日常が広がっていた。建物には各所に修繕の跡が見られ、未だに痛々しい包帯を晒した生徒もいる。幾人もの同志が去り、今や親友の姿すらもない。
それでも、そこは確かにニカの愛したガーデンだった。ニカにとっての唯一の家であり、たくさんの思い出を育んできた場所だった。
途端に、涙が込み上げそうになる。
それがなんという感情に起因するのか、分からなかった。喜びか、悲しみか、はたまた悔しさなのか。それらのすべてが正解で、しかしどれも違うような気がした。
かつて、あれほどまでに憧れていたSeeDの資格が、こんなにもあっけなく手の中にある。試験の時の自分と今の自分は同じかと、シドは問うた。いたずらに奪うことへの迷いを経て、自分はどう変われたのだろうか。あるいは、変わらずにいられたのだろうか。
こんな時、ゼルだったら───そんな思考を慌てて打ち消す。彼の留守を預かると決めたのだ。しっかりしなければ。
気を引き締めて歩き出そうとしたその瞬間、異変を感じた。
目眩に似た感覚に、思わず立ち止まる。しかし症状は治まることを知らず、視界そのものが歪められていく。
驚いたことに、それは他の生徒にも起こっているらしい。皆一様に周りを見渡し、この現象の原因を探ろうとしている。
まさか、新種の重力兵器による侵略だろうか。次なる攻撃に備えるべく身を硬くするも、未知の力になす術はない。増大するエントロピー。空間は形を変え、周囲の景色を掻き混ぜながら、ビー玉のように歪曲したカオスを形成していく。
足元がひっくり返されて、上も下もない。まるで世界全体がニカを目がけて襲いかかって来るようだった。
このままでは飲み込まれ、空間ごと引き裂かれてしまう───そんな恐怖に声をあげそうになった瞬間、ニカという存在は圧縮された無数の時間に薄められ、カオスを形成する粒子となって溶けていった。