Children in Time
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ニカにとっては天地のひっくり返るような、そしてケリーに言わせれば「今更」な出来事から一夜が明けた。
やっとコンサートの後片付けやらF.H.の技術者たちへのお礼やらを終えたニカは、今朝方の自分の言動を思い出し、ひとり頭を抱える。
『おっ、ニカ。昨日はお疲れさん!』
『あ……お、おはようっ。ゼルもお疲れさま!』
『本当、ありがとな。お陰でなんとか上手くいったぜ。写真、バッチリ撮れたか?』
『う、うんっ』
『あとで絶対見せてくれよな! ところでよ、今から朝メシ行こうと思うんだけどニカも一緒に……』
『えっ……と、ごめんゼル、私、これから実行委員の仕事があってっ。また今度ね……!』
『お、おいニカ! そっちは訓練所だぜ!』
『…………!』
まさか朝から廊下で鉢合わせるなんて思ってもいなかったのだ。見事にテンパり、挙句みっともない姿を晒してしまった。
そのまま走り去ってしまったのでゼルの表情までは確認出来なかったが、きっと怪訝な顔をしていたに違いない。
(お陰で朝ごはんも食べ損ねちゃうし……本当、何やってるんだろ……)
胃の中は空っぽなのに、特に食べたいものも浮かばない。適当なメニューを注文し、日当たりの良い窓際の席に腰を下ろした。
ほとんど味の分からない料理をちびちびと口に運びながら、そういえば、と昨日の夜のことを思い出す。自分は何か、とてつもなく恥ずかしいことを言わなかっただろうか。
『だからこうして一緒にいられるのって、すごく幸せなことなんだなって……思ったんだ』
ぶわ、と顔に熱が集中する。無自覚だからこその台詞なのだが、我ながらよくもあんなことを言えたものだ。熱くなった頬を冷ますために、ニカは慌てて手元のアイスティーに口を付ける。
「あ、あのっ」
そんなところへ突然声を掛けられたものだから、思わずむせて咳き込みそうになってしまった。なんとか顔を上げると、そこに立っていたのは予想外の人物だった。
艶やかな黒髪をきっちりと編み込んだ、いかにも真面目そうな女子生徒には見覚えがある。昨夜廊下ですれ違った、図書委員の少女だ。
「あ……はいっ」
「ご、ごめんなさい。その、もしお邪魔でなかったら、お隣……良いですか?」
「えっ、と……?」
言葉の意味が分からず……いや、言葉の意味自体は理解できるのだがそれを発するに至った理由が分からず、ニカは目をぱちぱちと瞬かせる。
すると図書委員は自分から声を掛けたとは思えない狼狽えぶりで、ほっそりとした両の手をぶんぶんと振ってみせた。
「あ、ご、ごめんなさい……! ご迷惑、だったらその、大丈夫なんですけど……!」
「あっ、いえ、そういう訳じゃ! あの、こんな席でよければど、どうぞっ」
「あ、あ、ありがとうございますっ……!」
パニックというものは伝染するらしい。席を勧め、そこに座る。それだけのことに、こんなにあたふたしなければならないなんて。
ひとまず着席し、ふう、と息をつく。先ほどよりは幾分か落ち着いたようだった。
「あの……昨日は、すみませんでした」
「え?」
「聞こえてました、よね? まさかご本人がいらっしゃるなんて思いもしなくて、私……」
「いえ、そんなっ」
否定した後で、やっぱり知らない振りを通せば良かった、と後悔した。これでは、聞こえてしまったことを認めているようなものだ。律儀な図書委員が深々と頭を下げるのを見て、ニカはなんともいたたまれない気持ちになる。
「私はたまたま、通りかかっただけなので……本当に、気にしないで下さい」
「だとしても、失礼なことに変わりはありません。本当に、申し訳ありませんでした」
そもそも、謝られる理由なんてないのだ。悪口を言われたわけでもない。本当に、たまたま通りかかったタイミングで自分の名前が話題に出ただけ。
けれど彼女はこうして頭を下げに来た。ほとんど話したこともないニカのところへ、わざわざ、ひとりで。
いつも図書室で見ている通りの、真面目で、真っ直ぐな少女なのだろう。そんな彼女に本当のことを伝えないのは、なんだか後ろめたいと思った。『でも、あの方とお付き合いしてるんじゃ』───彼女はあの時、そう言ったはずだ。
「……ゼルとは、」
迷った挙句、ニカは思い切って口を開く。ふいに挙がった想い人の名前に、図書委員の少女は弾かれたように顔を上げた。
「ゼルとは、別に付き合ってる訳じゃないんです。大切な、友達です」
「そう、なんですね……」
少女はほっと胸を撫で下ろした。しかし次の瞬間には、不安気な、それでいて気遣うような表情で首を傾げる。
「でも、ニカさんは、ゼルさんのこと……?」
昨日までの自分であれば、間違いなく否定していただろう。けれどニカは戸惑いがちに、小さく頷いた。それが精一杯だった。
気付いたばかりの気持ちをきちんと言葉にするには、まだ時間と、少しの勇気が必要らしい。
「……どうやら、そうみたいです。今まで、自分でも全然気が付かなくて……まだ少し、混乱してますけど」
「そうですか、ニカさんも……」
詰めていた息を小さく吐きながら、少女は少し微笑んだ。ニカをライバルと知ってか不安そうな、それでいて同士を見つけたことにほっとしているような、複雑な表情だった。
「私も、ゼルさんが好きです」
迷いのない言葉に、はっとして顔を上げる。ニカが戸惑い、言葉に出来なかった気持ちを、こんなにもはっきりと言い放つなんて。
「いつから……とか、どうして……とか、そんな事は忘れてしまいました。でも、好きなんです。あの人の事が、ずっと」
白い指を組んで伏し目がちに語る彼女は、とても綺麗に見えた。ニカが目を逸らし続けてきた気持ちを、この少女は長い間心の奥底で温め続けてきたのだろう。大切に、壊れないようにと。
『守ってあげたくなる女の子』とは、彼女のような人物のことを指すのではないだろうか。男子だったら、こんな子を恋人にしたいと思うのかもしれない。そう思うと途端に彼女が眩しく見えて、ニカは思わず目を細める。
そんなニカの気持ちを知らないであろう彼女は、何を思ってか、わずかに肩を竦めてくすりと小さく笑う。
「私……ニカさんの事、ずっと、羨ましいなって思っていたんです」
「羨ましい……? 私が?」
自分にないものを沢山持っている彼女がなぜ、と首を傾げる。
「だって、いつも堂々とゼルさんの隣に立って、一緒に笑い合えているから。私なんて、見ているだけでドキドキしてしまうのに。……ふふ、ちょっと挨拶をするだけでも、頭の中が真っ白になって、しどろもどろになってしまうんですよ」
おかしいでしょう、と彼女は笑ったけれど、すぐに反応を返すことができなかった。
(そうだ……私は)
今までの関係は、きっとニカとゼルだからこそ築けたものだ。ニカが目の前の彼女になれないように、他の誰でもない、ニカにしか得られないもの。
(私がなりたいのは……)
ひとりの女性として愛され、守られる。そんな幸せもあるのかもしれない。
けれどゼルにそれを求めるのは、違うと思った。自分がなりたいのは、肩を並べて笑い合い、背中を任せてもらえる───そんな存在だ。
まだ胸を張って言えるほどではないけれど、信頼してもらえているという自覚はある。それを、この淡い気持ちのために無駄にしたくはない。
だから……次に顔を合わせる時は、きっと。
図書委員は、もともと整った姿勢を更にしゃんと正すと、ニカをまっすぐ見つめた。
「ニカさん、私がこんな事を言うのは変かもしれませんけど、お互い、頑張りましょうね」
その言葉は、確かに純粋な気持ちから放たれた。目を見れば明らかだった。混じり気のない色をした、きれいな目。
「貴重なお時間、ありがとうございました。その、お話できて、よかったです」
ぺこりと小さく会釈して、彼女は席を立つ。踵を返し、去ろうとするのを、ニカは咄嗟に引き留めた。
「待って! あの、名前……」
「えっ?」
「良かったら、名前、教えてもらえないかな……?」
なぜ、そんなことを聞いたのか自分でも分からない。
ただ、知りたいと思った。同じ人を好きになった彼女のことを……その名前を。
彼女は暫くきょとんと首を傾げていたが、やがて意味を理解すると、ふわりと笑って自分の名を告げた。
薄桃色の花びらのような、微笑みだった。