daffodils
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3 運命の目撃
5年生への進級を控えた9月の始まりは、例年になく酷い悪天候だった。
ロンドンを発ったホグワーツ特急の車窓を、容赦のない雨粒が叩きつけている。アリス・ストウナーは、列車の最後尾に近い、誰も寄り付かない薄暗いコンパートメントの座席で横になり、ローブのフードを深く被って眠りを貪っていた。
ガタ、と大きく車体が揺れ、唐突に列車の動きが止まったのは、外の景色が完全に闇に包まれた頃だった。
車内の明かりが一斉に消え、急速に気温が下がり始める。窓ガラスがパキパキと不快な音を立てて凍りつき、吐き出す息が白く濁った。
「(──何?何か起きたの?)」
起き上がろうとしたアリスの身体が、すくんだ。
コンパートメントの隙間から、澱んだ霧のように忍び寄ってきたのは、言葉にできないほどの圧倒的な絶望だった。冷気と共に脳裏に蘇るのは、鍵をかけて心の最奥に沈めていたはずの、あの忌まわしい記憶。
『すまない』
優しく、愛さえ感じる声色とは裏腹の、残酷な別れの言葉を残してアリスと母親を捨てた父親の背中。裏切りで心の奥底まで傷付き、泣き叫びながらアリスの髪を掴んで床に叩きつけた、母親の悲しい暴力。そして、骨が軋むほどの痛みが、生々しい熱量を持ってアリスの身体を支配する。
「……っ、」
声にならない悲鳴が喉に詰まる。呼吸が満足にできず、視界が激しく明滅した。
扉の向こうを、ぼろ布を纏った巨大な影──アズカバンの看守、ディメンターが通り過ぎていく。それが完全に遠ざかり、車内に再び明かりが灯ったとき、アリスは床に膝をつき、激しい過呼吸のなかで自身の肩を抱いて震えていた。
「──おい、大丈夫か?」
ガラリと扉が開き、入ってきたのは、赤髪の長身の男子生徒──グリフィンドールのジョージ・ウィーズリーだった。アリスの異変を察知し、心配そうに眉をひそめて覗き込んでくる。
「……触らないで、ジョージ・ウィーズリー」
アリスは、まだ震えの止まらない指先を隠すようにローブを強く握り締め、床を睨みつけたまま、掠れた声で言い放った。
「他人の領域に、そうやって無遠慮に踏み込むところは、さすがのグリフィンドール生ね。私の心配をする暇があるのなら、ご自慢の弟のところへ戻りなさい」
「おっと、手厳しい」
ジョージが肩をすくめたその時、彼の背後から、もうひとつの影が慌てた様子で現れた。
「アリス! 無事かい!?」
セドリック・ディゴリーだった。5年生になり、いよいよ大人の男としての体格を完成させつつある彼が、灰色の瞳に明確な焦燥を浮かべてアリスを見下ろしている。
アリスはカッと頭に血が上るのを感じた。乱れた衣服を整えて立ち上がると、先程までの怯えが嘘のように、二人を突き放す冷徹な微笑を浮かべた。
「お気にかけていただき、どうもありがとう。セドリック・ディゴリー、そしてジョージ・ウィーズリー。そのお安い親切心で、ほかの可哀想な生徒たちを助けて差し上げたら? 少なくとも私には、あなた方の自己満足に付き合う義理はないわ」
ぴしゃりと扉を閉め、さらには鍵をかける。
廊下に残された二人は、しばらく呆然とした後、顔を見合わせた。
「さすが、ミス・ハッフルパフ!」
ジョージが可笑しそうに口笛を吹く。セドリックは苦笑しながら、自分の頭を掻いた。
「なんだい、それ」
「彼女の口の悪さは、誰に対しても『公平』で『誠実』だろ?上面の嘘や建前なんて一切ない。いかにもハッフルパフらしいじゃないか」
「……まあ、確かにね。でも、ほかの寮生が聞いたら、怒りそうだなぁ」
セドリックは、閉ざされた扉をもう一度見つめ、彼女の頑なな拒絶の奥にあった、消え去らない怯えの残滓を、その瞳に静かに刻み込んでいた。
◇
新学期が始まって数週間が経ったある日。その日は天が底抜けたかのような土砂降りだった。
アリスは、誰にも告げずに「禁じられた森」の境界線付近、生い茂る木々の影にいた。
ただでさえスコットランドの秋の雨は、骨の奥まで凍えさせる冷たさを持っている。
放課後のホグワーツ。生徒の大半が温かい談話室や大広間に籠もる中、彼女は一人、禁じられた森の境界近くを歩いていた。
「(……最悪。なぜ、こんな日に外に出なきゃいけないの)」
フードを深く被り、心の中で悪態をつく。ディメンターが彷徨いており、例年よりなおのこと寒さが厳しく感じる雨の中を歩く理由を、自分で分かっていた。
本当なら、ハッフルパフの談話室――あの温かくて、甘い菓子の匂いがして、無駄にアットホームな空間──から逃げ、いつものとおり図書室へ向かうはずだった。しかし、図書室の窓から見えた「それ」が、どうしても彼女の脳裏から離れなかったのだ。
森の境界、古い鉄柵の隙間。
そこに、不自然に蠢く小さな影があった。
一羽の珍しい魔法生物──サンダーバードの幼鳥が横たわっていた。成鳥になれば嵐を呼び、天を駆ける高貴な魔法生物。だが、いま目の前にいるのは、あまりの寒さと恐怖に震えた、ただの無力な赤ん坊だった。
渡りの途中、親とはぐれたか、襲われたのか。大人になれば金色に輝くはずの羽は泥と血に汚れ、細い足は不自然な方向に折れている。呼吸は浅く、今にも絶え入りそうだった。
「(大丈夫。ちゃんとやれば助けられる。絶対に、助ける。)」
アリスの瞳には、人間に対して向ける冷徹さは微塵もなかった。あるのは、ハッフルパフの誠実さと、献身。
アリスはトランクから、自らが調合した最高の『応急治癒薬』の小瓶を取り出すと、震える手で幼鳥の折れた足に塗布し、呪文を唱えて添え木を固定していく。
「(衰弱が激しい。外傷だけでもどうにかしないと。大丈夫、何度も試した薬だわ)」
雨水が容赦なく彼女の視界を遮るが、拭う時間さえ惜しかった。
添え木のささくれが手指に刺さり、自身の血が滲む。それでも眉一つ動かさない。親に捨てられ、世界に置いていかれたあの夜の孤独を、この小さな生き物に重ねていたからだ。
「大丈夫……大丈夫だから。私は、あなたを置いていかない」
周りの人間には絶対に、死んでも聞かせられない、痛々しいほど優しく、必死な声。
ようやく薬の効果で大きな外傷が目立たなくなってから、アリスは幼鳥を泥まみれのシャツの上から強く抱きしめた。
少しずつ、幼鳥の呼吸が安定していく。白銀の羽が、彼女の腕の中で微かに輝きを取り戻した。
かさり。
静寂の中、雨音に混じって、誰かがいる気配がする。振り返ると、大きな傘を差したハッフルパフの王子様──セドリック・ディゴリーが呆然と立っていた。
セドリックが、いつからそこに居たのかは分からない。アリスの、あの痛々しいほどに必死な独白を聞いていたのかどうかも、彼の穏やかな表情からは読み取れなかった。
「……素晴らしい手際だね。応急治癒薬も、まるで本物の魔法薬学者が作ったみたいだ」
心臓が止まるかと思った。
彼女の顔から血の気が引く。
見られた。常に周りの人間を遠ざけて、何者をも近づけない自分が、弱く幼い命を助ける愚かな様を。
彼女はカチカチと震える奥歯を噛み締め、一瞬でいつもの「冷酷な顔」を張り付け直した。
「……何かご用?セドリック・ディゴリー。まさか、こんなことで感動するほど安い感性をお持ちではないでしょう」
彼女は幼鳥を突き放すように地面に置くと、立ち上がり、あえて人を小馬鹿にしたような冷笑を浮かべた。
「なにを勘違いしているのか知らないけれど。サンダーバードの羽は、闇市場で高値で取引されるのをご存知ない?杖の芯としても一級品。死なれたら私の『損』になるから、応急処置をしているだけよ」
必死に、自分を汚すための嘘を並べ立てる。これでいい。この男はハッフルパフの『王子様』だ。どんなに救いに満ちた絵本だって、王子様は欲深な魔女には近づかない──。
だが、セドリックは軽蔑するどころか、ふっと困ったように眉を下げて笑った。
「そう。······売るにしても、君が風邪をひいたら元も子もないと思うけど」
セドリックは自身に防水魔法をかけると、傘を置いた。彼女の凍えた手を優しく包み込み、その泥を自分の指でそっと拭う。
彼の体温と、シダーウッドの香りが彼女の鼻をかすめる。
「何、するのよ……!」
「この子が元気になるまで、僕にも時々様子を見させて。一人より二人の方がいざという時に役に立つ、だろう?」
彼女の「嘘の盾」が、彼の底知れない、そして執拗なまでの優しさの前に、全く機能していなかった。
「僕は君を、すごくハッフルパフらしいと思うけど」
耳元近くで囁かれたその言葉は、彼女にとって救いではなく、自分のすべてを見透かされる恐怖そのものだった。「また来るよ」と言い残し、傘を置いたまま立ち去ったセドリックの後ろ姿を、アリスは睨みつけることしかできなかった。
それからしばらく、アリスが治療にあたる間はセドリックと顔を合わせることは無かった。それでも、「僕にも時々様子を見させて」という言葉のとおり、アリスの居ないときにやってきては餌などをやっているようだった。
◇
ハロウィーンの夜、ホグワーツは激震に見舞われた。アズカバンの脱獄囚、シリウス・ブラックが校内に侵入したというのだ。
安全確保のため、全校生徒は大広間に集められ、床に敷かれた寝袋で夜を明かすことになった。
大広間の隅、ハッフルパフの寝袋が集まる場所から、ひそひそとした陰口がアリスの耳に届く。
「なあ、シリウス・ブラックは誰を狙ってると思う?」
「どうせなら、あのストウナーを狙ってくれれば良いのに」
「たしかに。あんな性格最悪の奴、いなくなったらむしろせいせいするよな」
それは、明確な悪意を孕んだ言葉だった。しかし、寝袋の中で目を閉じているアリスは気にもかけない。
「(······あんなに怯えていたのに、群れているときは随分と元気なことね。)」
傷つくことすら諦めた合理主義。それが彼女の日常だった。今の彼女の関心は、シリウス・ブラックでもなく、煩わしい同級生でもなく、あの、傷付いた幼鳥だけだった。
同級生らの愚直な悪口を受けても、自分には関係の無い、まるで子守唄でも聴いているかのようにうつらうつらしていた。
その不謹慎な会話を遮るように、近くから鋭い声が響いた。
「おい、冗談にしちゃ、笑えないぞ」
通りがかったジョージ・ウィーズリーだった。ハッフルパフの生徒たちを冷ややかに見下ろしている。
「同じ寮の仲間の命を、そんな風に言うもんじゃない。グリフィンドール生から見ても、今の言葉は趣味が悪いな」
気まずそうに黙り込む生徒たち。そこへ、見回りの途中のセドリックが歩み寄ってきた。セドリックはジョージの肩をそっと叩き、真摯な目で彼を見つめた。
「……ありがとう、ウィーズリー。僕たちの寮の人間が、不謹慎なことを言ってすまない。」
「気にするなよ、ディゴリー。お前たち、余計なこと話してないで、さっさと寝た方がいいぞ」
ジョージが去った後、セドリックはアリスの寝袋の側へと歩み寄り、静かにその場に屈み込んだ。こちらの気持ちも知らないで、当の本人は騒動のなかでさっさと寝付いてしまったらしい。縮こまるようにして寝袋に収まる彼女は、いつにも増して小さく見えた。
殺人鬼の恐怖も、悪意に満ちた言葉の数々も、彼女を傷つけることは叶わない。それなのに、なぜ、自分が近づいただけであんなにも怯えるのか。ほかの者たちへの拒絶以上に、なぜ、自分がより一層嫌われているのか。
アリスは、正論と皮肉で相手を圧倒するが、誰かを暴力により傷付けたとは聞いたことがない。恐らく、自分だけだろう。それは、彼女にとって、自分が特別だと思って良いのだろうか──たとえ悪い意味だとしても。
彼は愛おしそうに、しかしどこか切なさを帯びた眼差しで、見つめた。
◇
数週間後の、ある抜けるように晴れた日の午後。
禁じられた森の境界線で、完治したサンダーバードの幼鳥が、力強くその翼を広げていた。
怪我は完全に癒え、泥に汚れていた羽は、日の光を浴びて目も眩むような黄金と白銀の輝きを放っている。幼鳥はアリスの指先を名残惜しそうに優しく甘噛みすると、大空へと向かって力強く羽ばたいていった。
「……あ」
アリスが見上げるなか、旋回した幼鳥から、ハラハラと一枚の美しい白銀の羽が落ちてきた。
それは、サンダーバードがその生涯で、最も強い恩義を感じた相手にしか与えないという、強大な魔力の結晶だった。
手のひらに落ちた羽を見つめ、アリスの薄い唇から、無意識の言葉がこぼれ落ちる。
「……きれい」
それは、彼女がホグワーツに入学して以来、初めて見せた、偽りのない純粋な感嘆だった。
アリスはすぐにハッと我に返ると、誰も見ていないことを確認し、その白銀の羽を、自身のトランクの最も深い奥底へそっとしまい込んだ。
彼女の胸の奥には、人間からは決して得られなかった、確かな温もりが静かに灯っていた。
5年生への進級を控えた9月の始まりは、例年になく酷い悪天候だった。
ロンドンを発ったホグワーツ特急の車窓を、容赦のない雨粒が叩きつけている。アリス・ストウナーは、列車の最後尾に近い、誰も寄り付かない薄暗いコンパートメントの座席で横になり、ローブのフードを深く被って眠りを貪っていた。
ガタ、と大きく車体が揺れ、唐突に列車の動きが止まったのは、外の景色が完全に闇に包まれた頃だった。
車内の明かりが一斉に消え、急速に気温が下がり始める。窓ガラスがパキパキと不快な音を立てて凍りつき、吐き出す息が白く濁った。
「(──何?何か起きたの?)」
起き上がろうとしたアリスの身体が、すくんだ。
コンパートメントの隙間から、澱んだ霧のように忍び寄ってきたのは、言葉にできないほどの圧倒的な絶望だった。冷気と共に脳裏に蘇るのは、鍵をかけて心の最奥に沈めていたはずの、あの忌まわしい記憶。
『すまない』
優しく、愛さえ感じる声色とは裏腹の、残酷な別れの言葉を残してアリスと母親を捨てた父親の背中。裏切りで心の奥底まで傷付き、泣き叫びながらアリスの髪を掴んで床に叩きつけた、母親の悲しい暴力。そして、骨が軋むほどの痛みが、生々しい熱量を持ってアリスの身体を支配する。
「……っ、」
声にならない悲鳴が喉に詰まる。呼吸が満足にできず、視界が激しく明滅した。
扉の向こうを、ぼろ布を纏った巨大な影──アズカバンの看守、ディメンターが通り過ぎていく。それが完全に遠ざかり、車内に再び明かりが灯ったとき、アリスは床に膝をつき、激しい過呼吸のなかで自身の肩を抱いて震えていた。
「──おい、大丈夫か?」
ガラリと扉が開き、入ってきたのは、赤髪の長身の男子生徒──グリフィンドールのジョージ・ウィーズリーだった。アリスの異変を察知し、心配そうに眉をひそめて覗き込んでくる。
「……触らないで、ジョージ・ウィーズリー」
アリスは、まだ震えの止まらない指先を隠すようにローブを強く握り締め、床を睨みつけたまま、掠れた声で言い放った。
「他人の領域に、そうやって無遠慮に踏み込むところは、さすがのグリフィンドール生ね。私の心配をする暇があるのなら、ご自慢の弟のところへ戻りなさい」
「おっと、手厳しい」
ジョージが肩をすくめたその時、彼の背後から、もうひとつの影が慌てた様子で現れた。
「アリス! 無事かい!?」
セドリック・ディゴリーだった。5年生になり、いよいよ大人の男としての体格を完成させつつある彼が、灰色の瞳に明確な焦燥を浮かべてアリスを見下ろしている。
アリスはカッと頭に血が上るのを感じた。乱れた衣服を整えて立ち上がると、先程までの怯えが嘘のように、二人を突き放す冷徹な微笑を浮かべた。
「お気にかけていただき、どうもありがとう。セドリック・ディゴリー、そしてジョージ・ウィーズリー。そのお安い親切心で、ほかの可哀想な生徒たちを助けて差し上げたら? 少なくとも私には、あなた方の自己満足に付き合う義理はないわ」
ぴしゃりと扉を閉め、さらには鍵をかける。
廊下に残された二人は、しばらく呆然とした後、顔を見合わせた。
「さすが、ミス・ハッフルパフ!」
ジョージが可笑しそうに口笛を吹く。セドリックは苦笑しながら、自分の頭を掻いた。
「なんだい、それ」
「彼女の口の悪さは、誰に対しても『公平』で『誠実』だろ?上面の嘘や建前なんて一切ない。いかにもハッフルパフらしいじゃないか」
「……まあ、確かにね。でも、ほかの寮生が聞いたら、怒りそうだなぁ」
セドリックは、閉ざされた扉をもう一度見つめ、彼女の頑なな拒絶の奥にあった、消え去らない怯えの残滓を、その瞳に静かに刻み込んでいた。
◇
新学期が始まって数週間が経ったある日。その日は天が底抜けたかのような土砂降りだった。
アリスは、誰にも告げずに「禁じられた森」の境界線付近、生い茂る木々の影にいた。
ただでさえスコットランドの秋の雨は、骨の奥まで凍えさせる冷たさを持っている。
放課後のホグワーツ。生徒の大半が温かい談話室や大広間に籠もる中、彼女は一人、禁じられた森の境界近くを歩いていた。
「(……最悪。なぜ、こんな日に外に出なきゃいけないの)」
フードを深く被り、心の中で悪態をつく。ディメンターが彷徨いており、例年よりなおのこと寒さが厳しく感じる雨の中を歩く理由を、自分で分かっていた。
本当なら、ハッフルパフの談話室――あの温かくて、甘い菓子の匂いがして、無駄にアットホームな空間──から逃げ、いつものとおり図書室へ向かうはずだった。しかし、図書室の窓から見えた「それ」が、どうしても彼女の脳裏から離れなかったのだ。
森の境界、古い鉄柵の隙間。
そこに、不自然に蠢く小さな影があった。
一羽の珍しい魔法生物──サンダーバードの幼鳥が横たわっていた。成鳥になれば嵐を呼び、天を駆ける高貴な魔法生物。だが、いま目の前にいるのは、あまりの寒さと恐怖に震えた、ただの無力な赤ん坊だった。
渡りの途中、親とはぐれたか、襲われたのか。大人になれば金色に輝くはずの羽は泥と血に汚れ、細い足は不自然な方向に折れている。呼吸は浅く、今にも絶え入りそうだった。
「(大丈夫。ちゃんとやれば助けられる。絶対に、助ける。)」
アリスの瞳には、人間に対して向ける冷徹さは微塵もなかった。あるのは、ハッフルパフの誠実さと、献身。
アリスはトランクから、自らが調合した最高の『応急治癒薬』の小瓶を取り出すと、震える手で幼鳥の折れた足に塗布し、呪文を唱えて添え木を固定していく。
「(衰弱が激しい。外傷だけでもどうにかしないと。大丈夫、何度も試した薬だわ)」
雨水が容赦なく彼女の視界を遮るが、拭う時間さえ惜しかった。
添え木のささくれが手指に刺さり、自身の血が滲む。それでも眉一つ動かさない。親に捨てられ、世界に置いていかれたあの夜の孤独を、この小さな生き物に重ねていたからだ。
「大丈夫……大丈夫だから。私は、あなたを置いていかない」
周りの人間には絶対に、死んでも聞かせられない、痛々しいほど優しく、必死な声。
ようやく薬の効果で大きな外傷が目立たなくなってから、アリスは幼鳥を泥まみれのシャツの上から強く抱きしめた。
少しずつ、幼鳥の呼吸が安定していく。白銀の羽が、彼女の腕の中で微かに輝きを取り戻した。
かさり。
静寂の中、雨音に混じって、誰かがいる気配がする。振り返ると、大きな傘を差したハッフルパフの王子様──セドリック・ディゴリーが呆然と立っていた。
セドリックが、いつからそこに居たのかは分からない。アリスの、あの痛々しいほどに必死な独白を聞いていたのかどうかも、彼の穏やかな表情からは読み取れなかった。
「……素晴らしい手際だね。応急治癒薬も、まるで本物の魔法薬学者が作ったみたいだ」
心臓が止まるかと思った。
彼女の顔から血の気が引く。
見られた。常に周りの人間を遠ざけて、何者をも近づけない自分が、弱く幼い命を助ける愚かな様を。
彼女はカチカチと震える奥歯を噛み締め、一瞬でいつもの「冷酷な顔」を張り付け直した。
「……何かご用?セドリック・ディゴリー。まさか、こんなことで感動するほど安い感性をお持ちではないでしょう」
彼女は幼鳥を突き放すように地面に置くと、立ち上がり、あえて人を小馬鹿にしたような冷笑を浮かべた。
「なにを勘違いしているのか知らないけれど。サンダーバードの羽は、闇市場で高値で取引されるのをご存知ない?杖の芯としても一級品。死なれたら私の『損』になるから、応急処置をしているだけよ」
必死に、自分を汚すための嘘を並べ立てる。これでいい。この男はハッフルパフの『王子様』だ。どんなに救いに満ちた絵本だって、王子様は欲深な魔女には近づかない──。
だが、セドリックは軽蔑するどころか、ふっと困ったように眉を下げて笑った。
「そう。······売るにしても、君が風邪をひいたら元も子もないと思うけど」
セドリックは自身に防水魔法をかけると、傘を置いた。彼女の凍えた手を優しく包み込み、その泥を自分の指でそっと拭う。
彼の体温と、シダーウッドの香りが彼女の鼻をかすめる。
「何、するのよ……!」
「この子が元気になるまで、僕にも時々様子を見させて。一人より二人の方がいざという時に役に立つ、だろう?」
彼女の「嘘の盾」が、彼の底知れない、そして執拗なまでの優しさの前に、全く機能していなかった。
「僕は君を、すごくハッフルパフらしいと思うけど」
耳元近くで囁かれたその言葉は、彼女にとって救いではなく、自分のすべてを見透かされる恐怖そのものだった。「また来るよ」と言い残し、傘を置いたまま立ち去ったセドリックの後ろ姿を、アリスは睨みつけることしかできなかった。
それからしばらく、アリスが治療にあたる間はセドリックと顔を合わせることは無かった。それでも、「僕にも時々様子を見させて」という言葉のとおり、アリスの居ないときにやってきては餌などをやっているようだった。
◇
ハロウィーンの夜、ホグワーツは激震に見舞われた。アズカバンの脱獄囚、シリウス・ブラックが校内に侵入したというのだ。
安全確保のため、全校生徒は大広間に集められ、床に敷かれた寝袋で夜を明かすことになった。
大広間の隅、ハッフルパフの寝袋が集まる場所から、ひそひそとした陰口がアリスの耳に届く。
「なあ、シリウス・ブラックは誰を狙ってると思う?」
「どうせなら、あのストウナーを狙ってくれれば良いのに」
「たしかに。あんな性格最悪の奴、いなくなったらむしろせいせいするよな」
それは、明確な悪意を孕んだ言葉だった。しかし、寝袋の中で目を閉じているアリスは気にもかけない。
「(······あんなに怯えていたのに、群れているときは随分と元気なことね。)」
傷つくことすら諦めた合理主義。それが彼女の日常だった。今の彼女の関心は、シリウス・ブラックでもなく、煩わしい同級生でもなく、あの、傷付いた幼鳥だけだった。
同級生らの愚直な悪口を受けても、自分には関係の無い、まるで子守唄でも聴いているかのようにうつらうつらしていた。
その不謹慎な会話を遮るように、近くから鋭い声が響いた。
「おい、冗談にしちゃ、笑えないぞ」
通りがかったジョージ・ウィーズリーだった。ハッフルパフの生徒たちを冷ややかに見下ろしている。
「同じ寮の仲間の命を、そんな風に言うもんじゃない。グリフィンドール生から見ても、今の言葉は趣味が悪いな」
気まずそうに黙り込む生徒たち。そこへ、見回りの途中のセドリックが歩み寄ってきた。セドリックはジョージの肩をそっと叩き、真摯な目で彼を見つめた。
「……ありがとう、ウィーズリー。僕たちの寮の人間が、不謹慎なことを言ってすまない。」
「気にするなよ、ディゴリー。お前たち、余計なこと話してないで、さっさと寝た方がいいぞ」
ジョージが去った後、セドリックはアリスの寝袋の側へと歩み寄り、静かにその場に屈み込んだ。こちらの気持ちも知らないで、当の本人は騒動のなかでさっさと寝付いてしまったらしい。縮こまるようにして寝袋に収まる彼女は、いつにも増して小さく見えた。
殺人鬼の恐怖も、悪意に満ちた言葉の数々も、彼女を傷つけることは叶わない。それなのに、なぜ、自分が近づいただけであんなにも怯えるのか。ほかの者たちへの拒絶以上に、なぜ、自分がより一層嫌われているのか。
アリスは、正論と皮肉で相手を圧倒するが、誰かを暴力により傷付けたとは聞いたことがない。恐らく、自分だけだろう。それは、彼女にとって、自分が特別だと思って良いのだろうか──たとえ悪い意味だとしても。
彼は愛おしそうに、しかしどこか切なさを帯びた眼差しで、見つめた。
◇
数週間後の、ある抜けるように晴れた日の午後。
禁じられた森の境界線で、完治したサンダーバードの幼鳥が、力強くその翼を広げていた。
怪我は完全に癒え、泥に汚れていた羽は、日の光を浴びて目も眩むような黄金と白銀の輝きを放っている。幼鳥はアリスの指先を名残惜しそうに優しく甘噛みすると、大空へと向かって力強く羽ばたいていった。
「……あ」
アリスが見上げるなか、旋回した幼鳥から、ハラハラと一枚の美しい白銀の羽が落ちてきた。
それは、サンダーバードがその生涯で、最も強い恩義を感じた相手にしか与えないという、強大な魔力の結晶だった。
手のひらに落ちた羽を見つめ、アリスの薄い唇から、無意識の言葉がこぼれ落ちる。
「……きれい」
それは、彼女がホグワーツに入学して以来、初めて見せた、偽りのない純粋な感嘆だった。
アリスはすぐにハッと我に返ると、誰も見ていないことを確認し、その白銀の羽を、自身のトランクの最も深い奥底へそっとしまい込んだ。
彼女の胸の奥には、人間からは決して得られなかった、確かな温もりが静かに灯っていた。