daffodils
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2 誰かの心、誰かの傷
ホグワーツの廊下を飛び交う噂は、アリス・ストウナーの耳に届く前に、すべて濾過される。
元より、彼女の周囲には情報を運んでくる「友人」などという存在は一人もいない。世間を揺るがしたという、あのハリー・ポッターがグリフィンドールに入学したことも、ハロウィーンの夜にトロールが校内を大暴れしたという騒動も、アリスにとってはすべて、大広間で教師や監督生から「事後報告」として無機質に発表されるだけの、退屈な出来事に過ぎなかった。
「(誰も彼も、口だけは達者なこと。自分で何かを成し遂げた訳でもないのに。)」
4年生に進級したアリスは、周囲の喧騒を完全に遮断し、地下牢教室から続く陰気な通路を歩いていた。
2年前のあの日、廊下でセドリック・ディゴリーを引っぱたいたという決定的な不祥事。それが、未だに「ハッフルパフの面汚し」の新たな罪状として知れ渡っていないのは、偏に、あの『王子様』の傲慢な配慮によるものだった。
『誰にも言わないでくれ。僕が彼女の機嫌を損ねるような、無神経なことを言ったのが悪いんだ』
セドリックがあの場にいた友人の口を即座に塞ぎ、すべてを闇に葬ったのだと知ったとき、アリスが抱いたのはは、感謝ではなく凄まじい嫌悪感だった。
「(本当に、反吐が出るほどお優しいのね)」
だからこそ、アリスはそれ以来、セドリックの視線を徹底的に拒絶し、彼が近づく気配を察知するだけで、その場から足早に立ち去ることを徹底していた。
◇
校内の地下、古く、普段は使われていない調合室の重い木扉を押し開け、アリスは中へと滑り込んだ。
なぜ立ち入り禁止区域に指定されていないのか不思議なほど、奥まった、薄気味悪い小部屋。埃臭い空気と、僅かに残る乾燥した薬草の匂いが漂うここは、アリスの絶対的な縄張りだった。
「……っ、」
ローブを脱ぎ、ブラウスの袖を捲り上げたアリスは、自身の白い腕を見て小さく眉をひそめた。皮膚が赤く腫れ上がり、痛々しい水疱がいくつかできている。
原因には心当たりしかなかった。セドリック・ディゴリーの熱狂的なファンを自称する女子生徒たちが、嫌がらせをしているのだ。以前は、単純な悪口や、持ち物に下手な魔法を掛けられるのがせいぜいだったが、最近になり地味な実害を伴い始めている。今日、教科書に仕込まれていたのは、皮膚に炎症を引き起こす『飛び跳ねカサゴ』の粘液。
アリスは小さく溜息をつき、慣れた手つきで備え付きの棚から材料を取り出した。
人間は、言葉でも態度でも簡単に嘘をつく。アリスを捨てた父親のように。裏切りの末に精神を病み、アリスを殴りつけた母親のように。だが、魔法薬は、嘘をつかない。規定の材料を、規定の温度で、規定のとおり混ぜれば、薬液は必ず期待通りの効果を発揮する。
アリスは銀の匙を正確に7回半、時計回りに回す。薬液が濁った緑から、美しい透明なペールブルーへと変化していく。完璧な『応急治癒薬』の完成だった。
アリスが冷ました薬液をガラスの小瓶に移し替え、自らの腕の患部に塗り伸ばそうとした、その時だった。
ギィ、と不快な音を立てて、部屋の木扉が外側から開かれた。
「──。やっぱり、ここにいたんだね」
心臓が嫌な跳ね方をした。アリスは即座にブラウスの袖を乱暴に引き下げ、その腕を隠すように背後に回した。
扉の隙間から滑り込んできたのは、見紛うはずもない、セドリック・ディゴリーだった。4年生になり、少年の幼さが抜け始めてさらに整ったその容姿は、薄暗い部屋の中で酷く不釣り合いに輝いている。
「……私の名前を気安く呼ばないで、セドリック・ディゴリー。ノックもせずに押し入るなんて、『王子様』は随分お行儀が良いのね」
いつも通りの、容赦のない言葉。しかし、セドリックはその罵倒をさらりと受け流し、灰色の瞳をアリスの背後に回された腕へと向けた。
「君が最近、大広間にも談話室にも全く顔を出さないから、少し心配になって探していたんだ。……それに、その腕、どうしたの?」
「あなたには関係のないことよ。今すぐここから出ていきなさい。あなたが居るだけで、この部屋の空気の質が落ちるわ」
「だけど、今、学校の中がどんな状態か、いくら君でも知っているだろう?」
セドリックは一歩、アリスとの距離を詰めた。彼の表情には、いつもの余裕ある微笑みではなく、真摯で、どこか焦燥を含んだ陰りがある。
「『秘密の部屋』が開かれたんだ。すでにマグル生まれの生徒が襲われて、石にされている。犯人も、その怪物の正体も分かっていないんだ。いつも一人で、こんな人気のない場所にこもっている君が、もし次の標的にされたら……」
「馬鹿馬鹿しい」
アリスは冷酷に鼻で笑い、セドリックの言葉を遮った。
「怪物の正体?標的?そんな子供騙しの噂話に怯えて、群れをなして震えているなんて滑稽ね。私が怪物なら、ひとりの人間より塊を狙うわ、餌は多い方が良いでしょう?」
どうでもよかった。世界がどうなろうと、誰が怪物に襲われようと、アリスの関心事ではないのだ。
しかし、セドリックは彼女の徹底した拒絶の態度に、一歩も引かなかった。それどころか、彼はアリスの頑なな視線を真っ向から受け止めながら、静かに、しかし有無を言わせぬ力強さで彼女の手首を掴んだ。
「無礼よ!セドリック・ディゴリー!」
アリスはすぐに手を払おうと抵抗したが、セドリックは彼女の抵抗を穏やかに制しながら、彼女のブラウスの袖を、ゆっくりと捲り上げた。
薄暗い部屋の中に、赤く腫れ上がり、水疱の浮いたアリスの白い肌が晒される。
「……やっぱり。中庭で、女の子たちが何かを企んでいるのを見たんだ。君に、こんな酷いことを……」
セドリックの灰色の瞳に、明らかな怒りと、そして胸を締め付けられるような痛みが走る。
アリスはその視線に耐えきれず、カッと頭に血が上るのを感じた。自分の醜い傷を、最も見られたくない天敵に見られた。優しさや哀れみを受け入れることは、自分の弱みを見せることと同義だった。
「──勘違いも甚だしいわ!」
アリスは激昂し、掴まれた手首を今度こそ強引に振り払った。
「あなたが見た、群れることしかできないかわいそうな人たちとは関係ない。これは、『飛び跳ねカサゴ』の粘液が人間の皮膚組織にどれほど影響を与えるのか、自身の身体を使って実験していただけよ」
吐き捨てたのは、あまりにも情けない、あまりにも不自然な言い訳だった。
それでも、この『王子様』に同情されるよりはよっぽど良かった。
「私は私の利益のために、自発的にこの傷を作ったの。私の薬にどれ程の効果があるのか確かめるためにね。それを、あなたの安っぽい正義感で台無しにしないで」
息を荒くし、鋭い眼差しでセドリックを睨みつける。これだけ醜悪な利己主義を見せつければ、いかに完璧なハッフルパフの王子様とて、軽蔑して離れていくはずだ。
だが。
セドリックは、ただ静かにアリスを見つめていた。その瞳の奥にあるのは、軽蔑などでは断じてない。彼女の嘘の盾の奥にある、血を流しているような、痛々しい本心。それを見抜いているような目だった。
「……そうか」
セドリックは、ふっと優しく、包み込むような笑みを浮かべた。
「それなら、その大事な実証実験を無駄にしないためにも、早く薬を塗らないと。……君が作ったその薬、すごく綺麗なペールブルーだ。完璧な調合だね。僕が塗ってもいいかい?」
「(──なぜ。どうしてこうも上手くいかないの。なぜこの男は私を放っておいてくれないの。なぜ。)」
アリスの胸の奥で、恐怖に似た混乱が渦巻く。
「……断るわ。私の身体に触れるなら、それなりの対価を請求するわよ」
「いいよ。僕の全財産を払ってもいい。……だから、少しだけじっとしていて」
セドリックはサイドテーブルからガラス瓶を取り上げると、指先に薬液を数滴たらし、アリスの赤く腫れた腕に、そっと、驚くほど繊細な手付きで触れた。ひんやりとした薬液の冷たさと、彼の指先から伝わる、熱。
アリスは唇を強く噛み締め、彼から顔を背けた。
「(最悪よ。本当に、最悪。……はやく、どこかへ行ってしまえ。)」
自身の心臓が、耳障りなほど大きな音を立てて脈打っている。その動揺をセドリックに悟られぬよう、アリスはただ、冷たい埃の舞う小部屋の壁を、じっと睨み続けることしかできなかった。
ホグワーツの廊下を飛び交う噂は、アリス・ストウナーの耳に届く前に、すべて濾過される。
元より、彼女の周囲には情報を運んでくる「友人」などという存在は一人もいない。世間を揺るがしたという、あのハリー・ポッターがグリフィンドールに入学したことも、ハロウィーンの夜にトロールが校内を大暴れしたという騒動も、アリスにとってはすべて、大広間で教師や監督生から「事後報告」として無機質に発表されるだけの、退屈な出来事に過ぎなかった。
「(誰も彼も、口だけは達者なこと。自分で何かを成し遂げた訳でもないのに。)」
4年生に進級したアリスは、周囲の喧騒を完全に遮断し、地下牢教室から続く陰気な通路を歩いていた。
2年前のあの日、廊下でセドリック・ディゴリーを引っぱたいたという決定的な不祥事。それが、未だに「ハッフルパフの面汚し」の新たな罪状として知れ渡っていないのは、偏に、あの『王子様』の傲慢な配慮によるものだった。
『誰にも言わないでくれ。僕が彼女の機嫌を損ねるような、無神経なことを言ったのが悪いんだ』
セドリックがあの場にいた友人の口を即座に塞ぎ、すべてを闇に葬ったのだと知ったとき、アリスが抱いたのはは、感謝ではなく凄まじい嫌悪感だった。
「(本当に、反吐が出るほどお優しいのね)」
だからこそ、アリスはそれ以来、セドリックの視線を徹底的に拒絶し、彼が近づく気配を察知するだけで、その場から足早に立ち去ることを徹底していた。
◇
校内の地下、古く、普段は使われていない調合室の重い木扉を押し開け、アリスは中へと滑り込んだ。
なぜ立ち入り禁止区域に指定されていないのか不思議なほど、奥まった、薄気味悪い小部屋。埃臭い空気と、僅かに残る乾燥した薬草の匂いが漂うここは、アリスの絶対的な縄張りだった。
「……っ、」
ローブを脱ぎ、ブラウスの袖を捲り上げたアリスは、自身の白い腕を見て小さく眉をひそめた。皮膚が赤く腫れ上がり、痛々しい水疱がいくつかできている。
原因には心当たりしかなかった。セドリック・ディゴリーの熱狂的なファンを自称する女子生徒たちが、嫌がらせをしているのだ。以前は、単純な悪口や、持ち物に下手な魔法を掛けられるのがせいぜいだったが、最近になり地味な実害を伴い始めている。今日、教科書に仕込まれていたのは、皮膚に炎症を引き起こす『飛び跳ねカサゴ』の粘液。
アリスは小さく溜息をつき、慣れた手つきで備え付きの棚から材料を取り出した。
人間は、言葉でも態度でも簡単に嘘をつく。アリスを捨てた父親のように。裏切りの末に精神を病み、アリスを殴りつけた母親のように。だが、魔法薬は、嘘をつかない。規定の材料を、規定の温度で、規定のとおり混ぜれば、薬液は必ず期待通りの効果を発揮する。
アリスは銀の匙を正確に7回半、時計回りに回す。薬液が濁った緑から、美しい透明なペールブルーへと変化していく。完璧な『応急治癒薬』の完成だった。
アリスが冷ました薬液をガラスの小瓶に移し替え、自らの腕の患部に塗り伸ばそうとした、その時だった。
ギィ、と不快な音を立てて、部屋の木扉が外側から開かれた。
「──。やっぱり、ここにいたんだね」
心臓が嫌な跳ね方をした。アリスは即座にブラウスの袖を乱暴に引き下げ、その腕を隠すように背後に回した。
扉の隙間から滑り込んできたのは、見紛うはずもない、セドリック・ディゴリーだった。4年生になり、少年の幼さが抜け始めてさらに整ったその容姿は、薄暗い部屋の中で酷く不釣り合いに輝いている。
「……私の名前を気安く呼ばないで、セドリック・ディゴリー。ノックもせずに押し入るなんて、『王子様』は随分お行儀が良いのね」
いつも通りの、容赦のない言葉。しかし、セドリックはその罵倒をさらりと受け流し、灰色の瞳をアリスの背後に回された腕へと向けた。
「君が最近、大広間にも談話室にも全く顔を出さないから、少し心配になって探していたんだ。……それに、その腕、どうしたの?」
「あなたには関係のないことよ。今すぐここから出ていきなさい。あなたが居るだけで、この部屋の空気の質が落ちるわ」
「だけど、今、学校の中がどんな状態か、いくら君でも知っているだろう?」
セドリックは一歩、アリスとの距離を詰めた。彼の表情には、いつもの余裕ある微笑みではなく、真摯で、どこか焦燥を含んだ陰りがある。
「『秘密の部屋』が開かれたんだ。すでにマグル生まれの生徒が襲われて、石にされている。犯人も、その怪物の正体も分かっていないんだ。いつも一人で、こんな人気のない場所にこもっている君が、もし次の標的にされたら……」
「馬鹿馬鹿しい」
アリスは冷酷に鼻で笑い、セドリックの言葉を遮った。
「怪物の正体?標的?そんな子供騙しの噂話に怯えて、群れをなして震えているなんて滑稽ね。私が怪物なら、ひとりの人間より塊を狙うわ、餌は多い方が良いでしょう?」
どうでもよかった。世界がどうなろうと、誰が怪物に襲われようと、アリスの関心事ではないのだ。
しかし、セドリックは彼女の徹底した拒絶の態度に、一歩も引かなかった。それどころか、彼はアリスの頑なな視線を真っ向から受け止めながら、静かに、しかし有無を言わせぬ力強さで彼女の手首を掴んだ。
「無礼よ!セドリック・ディゴリー!」
アリスはすぐに手を払おうと抵抗したが、セドリックは彼女の抵抗を穏やかに制しながら、彼女のブラウスの袖を、ゆっくりと捲り上げた。
薄暗い部屋の中に、赤く腫れ上がり、水疱の浮いたアリスの白い肌が晒される。
「……やっぱり。中庭で、女の子たちが何かを企んでいるのを見たんだ。君に、こんな酷いことを……」
セドリックの灰色の瞳に、明らかな怒りと、そして胸を締め付けられるような痛みが走る。
アリスはその視線に耐えきれず、カッと頭に血が上るのを感じた。自分の醜い傷を、最も見られたくない天敵に見られた。優しさや哀れみを受け入れることは、自分の弱みを見せることと同義だった。
「──勘違いも甚だしいわ!」
アリスは激昂し、掴まれた手首を今度こそ強引に振り払った。
「あなたが見た、群れることしかできないかわいそうな人たちとは関係ない。これは、『飛び跳ねカサゴ』の粘液が人間の皮膚組織にどれほど影響を与えるのか、自身の身体を使って実験していただけよ」
吐き捨てたのは、あまりにも情けない、あまりにも不自然な言い訳だった。
それでも、この『王子様』に同情されるよりはよっぽど良かった。
「私は私の利益のために、自発的にこの傷を作ったの。私の薬にどれ程の効果があるのか確かめるためにね。それを、あなたの安っぽい正義感で台無しにしないで」
息を荒くし、鋭い眼差しでセドリックを睨みつける。これだけ醜悪な利己主義を見せつければ、いかに完璧なハッフルパフの王子様とて、軽蔑して離れていくはずだ。
だが。
セドリックは、ただ静かにアリスを見つめていた。その瞳の奥にあるのは、軽蔑などでは断じてない。彼女の嘘の盾の奥にある、血を流しているような、痛々しい本心。それを見抜いているような目だった。
「……そうか」
セドリックは、ふっと優しく、包み込むような笑みを浮かべた。
「それなら、その大事な実証実験を無駄にしないためにも、早く薬を塗らないと。……君が作ったその薬、すごく綺麗なペールブルーだ。完璧な調合だね。僕が塗ってもいいかい?」
「(──なぜ。どうしてこうも上手くいかないの。なぜこの男は私を放っておいてくれないの。なぜ。)」
アリスの胸の奥で、恐怖に似た混乱が渦巻く。
「……断るわ。私の身体に触れるなら、それなりの対価を請求するわよ」
「いいよ。僕の全財産を払ってもいい。……だから、少しだけじっとしていて」
セドリックはサイドテーブルからガラス瓶を取り上げると、指先に薬液を数滴たらし、アリスの赤く腫れた腕に、そっと、驚くほど繊細な手付きで触れた。ひんやりとした薬液の冷たさと、彼の指先から伝わる、熱。
アリスは唇を強く噛み締め、彼から顔を背けた。
「(最悪よ。本当に、最悪。……はやく、どこかへ行ってしまえ。)」
自身の心臓が、耳障りなほど大きな音を立てて脈打っている。その動揺をセドリックに悟られぬよう、アリスはただ、冷たい埃の舞う小部屋の壁を、じっと睨み続けることしかできなかった。