陽炎と揺れる天秤

……気が付いたら、私は見覚えのない場所に立っていた。どこを見ても深い闇に包まれているが、かろうじて見える道の先を目をやると、ところどころに立てられている篝火が手招きするように揺れているのが分かる。この、そのまま立ち尽くしていたら飲み込まれてしまいそうな暗闇に恐怖感を覚えた私はその篝火に向かって歩き出す。私の足音以外に聞こえるのは微かな水のせせらぎと、竹林のざわめきだけ。目を凝らすと、道と竹林を区切るように小さな川が流れているようだ。
そのままどれくらい歩いただろう。ようやく篝火の近くまでやって来た。篝火の淡い光は、何者とも分からぬ影を照らし出す。行き交う影は、何も言わず通り過ぎては消えていく。どうやらここは、何処かの集落──規模としては小さな町くらいであろうか──であるようだ。ぼんやりと立ち尽くしていると、何やら新しい音が耳に入る。耳を澄ますと、それは祭り囃子のように聞こえた。その音に引きつけられるように、ふらふらと足を進めていく。見るからに古い町並みは、時を忘れたように佇んでいる。あたりを見回しても、ここが何処なのか分かるようなものは何一つ見つけられなかった。強いて言えば建物などは東方風のように見えなくもない。ぽつりぽつりと置いてある篝火が、“こっちへおいで”と誘うようにチラチラと燃える。音と篝火に誘われるがまま進む私はまるで夏の虫のようだな、と詮無いことを考える。



 しばらく歩いていると、不意に開けた場所に出た。どうやらここが祭り囃子の出処らしい。出店などが立ち並ぶ様はなるほど、祭りと呼ぶに相応しいだろう。ここも誰とも知れぬ影が行き交っているが、ここが他とは違うのはにわかに人のざわめきのような音がすることだ。ただ、くぐもっているというか、水の中で音を聞いた時というか……どう形容したものだろう。何か、厚い膜越しに声を聞いているとでも言えばいいのか。その声が何を話しているのかは聞き取ることができなかった。
行くあてもなく彷徨い続けていると、赤い門のような建造物があるところに出た。その奥に階段があるのは見えたのだが、階段の行く先は例によって暗闇に沈んで分からない。しかし篝火はこの奥にも置かれているらしいことだけは分かる。その門を見上げながら足を進めるか悩んでいると、目の前に小さな何かが飛び出してきた。突然のことで驚いたがなんのことはない、一匹の猫だ。それにしてもどこか違和感を感じるのは何故だろう。猫は威嚇するように唸り声を上げる。まるで……

「私にこの先に行くなと言うの……?」

猫の言葉など分かるはずがないのにそう言っているような気がして問いかけてみれば、なんと返事をするが如くにゃーんと鳴いてくるではないか。私が判断に迷っていると、猫はダメ押しとばかりに二度三度と同じように鳴き続ける。その時だった。

びゅう

突然の強風が篝火を揺らす。それが合図だと言わんばかりに周りの景色が変貌を遂げていく。古いながらも整えられていたように見えた町並みはぼろぼろの廃墟に、朧げな輪郭ながらも“人”だと思っていた影たちが跡形もなくぐずぐずに崩れて、そして──その影たちが一斉にこちらを向いた気がした。

「ひっ……!」

喉から掠れた悲鳴が漏れる。一歩、二歩、と後ずさって、私は脱兎のごとく走り出した。影たちも何事かを喚きながら追いかけてくる。そのままどこを走ればいいのかも分からずに逃げ続けていると、またもや猫が姿を現した。先程の猫とは微妙に違う気もするが、じっくり観察する余裕などない。猫はにゃーん、と一声鳴くとおもむろに走り出した。ついて来いということだろうか。どちらにせよ考えている時間などないのだ。猫に置いていかれないように、必死で走るしかない。


□■□■


走って走って、時折足が縺れて転びそうになりながらどこまで走り続けただろう。既に息は上がっており、ずっと呼吸が苦しい。しかし竹林と細い道はいつ途切れるとも知れぬほど続いている。廃墟を抜けたのはずっと前のはずなのに、後ろからは何とも形容しがたき姿の影たちが今も群れをなして追いかけてくる。……このままでは追いつかれてしまう。追いつかれたらどうなるかは分からないが、良くないことになりそうな予感だけはひしひしと感じる。

「こっちだ」
「こちらにおいで」

不意に聞こえた、小さな声のした方を勢いよく振り向くと赤髪と青髪の狐面を被った男性の姿が目に入った。

「「あやつらに気付かれる前に、さあ」」

差し伸べられた手を咄嗟に掴む。すると勢いよく引っ張られ、そのまま抱き寄せられるような格好になる。私が何か言おうとする前に、赤髪の男性が私の口を空いた手で塞ぐ。

「声を出してはならぬ」
「気取られるぞ」

その直後、姿形も定かではない影たちが大挙して通り過ぎていくのが見えた。その、人の形が溶けて崩れたような姿を直視してしまい全身が震える。口を塞がれていなければ悲鳴を上げずにはいられなかっただろう。思わず男性の服を掴んで、必死に震えが止まるのを待っていた。



どれくらい時間が経ったのだろう。影たちが完全に過ぎ去ったのを確認したのか、口を塞いでいた手が離される。私も手を離し、改めて赤髪と青髪の男性に向き合う。……どこかで会ったような気がするのは何故だろう。

「……もう大丈夫だ」
「あ……ありがとうございます」
「なに、礼はいらぬ」

ふっ、と青髪の男性が手を振ると今までとは別の細い道が現れた。

「この道を行けば元居た処に帰れようぞ」
「ただし、帰り着くまで振り向いてはならぬ」
「あっ……待ってください……!」

二人が私を見つめる。咄嗟に声をかけてしまったが、肝心の思いは言葉にならず、空気を欲する魚のように開いた口をパクパクするだけだった。そんな私の姿に男性たちは優しく微笑み、交互に抱きしめてくれる。

「……大丈夫だ、人の子よ」
「約束さえ果たしてくれれば、またすぐに会えよう」
「……わかりました」

何かの気配──きっとあの影たちのものだろう──に気付いたらしき赤髪の男性が振り向く。

「……ゆっくり話している暇はないようだ」
「さあ行け!やつらが帰ってくる前に!」

私は頷き、一目散に彼らが作ってくれた道に向かって走り出した。こちらもどこまで続くのか分からないほど長く、振り向きたい衝動に幾度も駆られたが、その度二人の「約束さえ果たせばまた会える」という言葉を思い出して何とか堪えた。そうやって進み続けて、ようやく何かの光のような輝きが目に入った。きっとあれが出口に違いない、と重くなった足に鞭打って再び走り出す。光はどんどん近づき──

『ようやく帰ってきたな』

声と共に、大きな黄金色の手が光の中から現れる。その手に無性に懐かしさを覚えた私は一目散にその手に飛び込んだ。手は私が飛び込んだことを確認すると優しく私を包み込んで、光の中へと戻っていく。


□■□■


 光の気配を感じて、ゆっくりと目を覚ます。見覚えのある、豪奢な装飾の施された室内。

「あれ、ここは……」

起き上がろうとする私を、黄金色の指が押さえる。

「これ、急に起き上がってはならぬ」

上から声が降ってくる。見上げると、ナルザル神が私を心配そうに見つめていた。よくよく見れば私はナルザル神の手の上で眠っていたようだ。確かにこれは危ない。そろそろと、手のひらから落ちないように身体を起こす。それにしても何故炎天にいるのだろう?そもそも、その前は何をしてたっけ──そうだ、ハンコックが六根山の再調査に行くと言うからそれに同行して、それで──

「……何やら妙なものに好かれてしまったようだな」
「……そんなつもりはなかったんですが」

貯め込まれた「いわくつきの品」の力と六根山という「場」が持つ霊力が悪い方向に組み合わさった結果、とんでもない数の妖異が境内に蔓延るという事態になっていたのだ。だいぶ掃討したつもりなのだが、あれでもまだ発端になった原因には至れてないというのだから空恐ろしい。その過程でナルザル神の言う「妙なもの」を持って帰ってきた、ということのようだが……。そういえば、今回終わったあとやたら疲れたから挨拶もそこそこに家に帰ったんだ。そして一直線にベッドに直行したんだった。

「全く……そなたは冒険者だからな、未知なるものに挑む気持ちは分からんでもないが……」
「見守ってる私たちからしたら割と気が気でないぞ!」
「す、すみません」

表に出ているザル神、後ろからのナル神の言葉に思わず首を竦める。そんな私にザル神はやれやれ、とため息を一つ吐いたのち、おもむろにふっ、と息を吹きかける。その息は青い炎となり私を包み込む。

「わっ!?」
「安心せよ、そなたの生命力を削ったりはしておらぬ」

言われてみれば熱さや痛みといったものは何も感じない。しかし確実に何かを焼かれている感覚はある。

「未だにこびりついておる“モノ”がいるのでな、根本から焼き払っているところよ」
「うむ、今回のはなかなかにしつこいようだからのう」

私を燃やす炎をぼんやりと見つめていると、確かに何かの灰のようなものが舞い上がっているのが見える。そして幽かに何かの音も。……いやこれは……声?
聞き取るべく耳を済ませようとしたら、耳を塞がれた。

「「聞く必要はない」」

その低く重い声に震え上がった私は目も閉じて、大人しく「こびりついているモノ」が焼き払われるのを待つことにした。





──Fin
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