陽炎と揺れる天秤

……眠い。
私は今、ウルダハの路地裏に倒れている。周りには他にも数名倒れている人間がいるが、気を失っているだけなのかあるいは死んでいるのか、今の私には判別できないし確認する余力もない。昼間のはずなのに、ここだけやたら静かだな。などと詮無いことが頭に浮かぶ。
先程から巻き起こっている“このまま寝てしまいたい”という猛烈な欲求に従いたくなるが、心の奥底から聞こえる“寝たらダメだ”という声がそれを許さない。回らない頭でそんな葛藤を続けていると、足音が聞こえてきた。それは私のすぐそばで止まる。

「これはまた……けったいなことに巻き込まれておるな」
「まずは愛し子を連れて帰らねばなるまい。ここでは落ち着くこともままならん」

声とともに身体を持ち上げられる。抵抗しようという気も起きず、されるがままにされていると視界が歪んだ。どうやら転移魔法でどこかへ連れていかれるらしい。



暗かった視界が明るくなる。少しばかり意識が飛んでいたようだ。重たい頭を微かに動かして状況を確認する。ベッドに寝かせられているらしい、ということだけは分かる。
……この煌びやかな装飾、見た覚えがあるのだけど思い出すこともままならない。
そんなことを思っていると、ふと何かの香りが鼻を掠めた。何だっけこれ。ぼんやりと考えているうちに不意に思い出す。

あ、これサンダルウッドだ。

そう気が付いた瞬間にひときわ強い睡魔に襲われる。この部屋と漂う香りに感じる安らぎ故か、糸が切れたように簡単に意識を手放した。


□■□■


私たちが部屋に入ると、愛し子は小さな寝息を立てて寝入っていた。普段ならその愛らしい寝顔を堪能するのだが、今回はそういうわけにもいかない。

「ザルよ」
「ああ」

片割れに声をかけると、心得ているといった風に眠っている愛し子に近付く。ベッドの縁に腰掛けると、自らの長い髪を耳にかけ愛し子と口づけを交わす。……愛し子の身体が軽く反応しているところを見るに、舌を入れておるな?

『おい』
『命に別状がないか確認しているだけよ』

よく言う。
まあ、少しばかり死に偏っていた魂が元に戻りつつあるのは確かゆえ、それ以上は何も言うまい。そのまましばらく任せていると、終わったのか片割れが愛し子から離れる。

「ナル」
「うむ」

ベッドから離れた片割れと入れ替わるようにベッドに腰掛ける。いまだ目を覚ます気配のない愛し子を抱き上げると、同じように口づけを交わす。
軽く舌を入れ口を開かせ、自らの神威を込めたエーテルを少しずつ流し込む。……私のエーテルに時折反応する身体が愛おしくなるが、“それ”はまた今度。

『お前』
『こればかりは仕方あるまい』

先ほどとは逆に片割れが念話で突っ込んでくるが、お互い様であろう。大体今は『そういうつもり』でエーテルを与えているわけでもなし。
様子を見ながらエーテルを与え続けることしばし、生命力が戻ったのを確認したので口を離し元のようにベッドに横たえらせる。

「もう問題はないようだな」
「うむ。あとは目を覚ますのを待つだけよ」

変わらず眠り続ける愛し子をそばに二人して安堵する。と、私たちの神域に迷える魂が訪れた気配がした。

「ふむ……裁定に行ってくるゆえ、愛し子は任せたぞ」
「相分かった。何かあればすぐに知らせよう」

一つ頷くと、片割れは踵を返し部屋を出ていった。


□■□■


 視界が明るくなる、と同時に意識が浮上する。何か夢を見ていたような気もするが覚えていない。ハッキリとした視界に飛び込んできたのはだいぶ見慣れた豪奢な装飾。……今の私は何故か炎天にいるらしい。

「おお、目が覚めたか」

声とともにナル神に頬を撫でられる。その顔にはどことなくホッとした表情が浮かんでいる。

「路上に倒れていたから驚いたぞ」
「路上……ああそういえば……」

朧げながら思い出してきた。裁縫師ギルドに立ち寄るため大通りから一本入った裏路地を歩いているときに貧民たちが争っている現場に出くわしたのだ。
咄嗟に巻き込まれないよう離れたのだが、そこで何かの香がもみ合いのはずみでばら撒かれて、私もそれをまともに浴びてしまった。……効果からしてソムヌス香だろうか?
多分その後そこにナルザル神がやって来たのだろう。

「そなたはあの手の香に縁がないであろう?それゆえ余計に効果が出たようでな。そのままにはしておけぬ、ということで急ぎここに連れ帰ったのよ」
「そうだったんですね……」

話をしているうちに完全に目が覚めたので起き上がる。少々だるさを感じるのはソムヌス香がまだ残っているから?確かに使ったことがないから分からない。

「おはよう、愛し子」

扉が開き、ザル神が部屋に入ってくる。人のお姿であるナル神と違い、こちらは本来のお姿である。疑問に思っているのが顔に出てたか、ベッド横に腰を下ろしたザル神が口を開く。

「先ほどここに裁定を待つ魂がやって来たのでな、星海まで送り出したところだ」
「そうでしたか……って、それはつまり」
「みなまで言うな」

ソムヌス香は安眠効果があるとされ、第七霊災後の不安定な情勢の中で日々の生活に不安を抱える層を中心に急速に広まったが、依存性の高さと常用しすぎた結果中毒死する事故が跡を絶たなかったため禁制指定を受けているものだ。
あの状況下でそんなものが大量にばら撒かれたらどうなるか、予想がつかないわけがない。

「神とて全てを救えるわけではなし、人であればなおさらな。少なくともあの場にたまたま居合わせただけのそなたが気に病むことはなかろう」
「……そうですね」

俯いた私の頬を黄金色の指が撫でる。顔を上げると、かの神の閉じられた目と目が合った。

「さて、愛し子も無事目覚めたことだ、使いに茶でも用意させよう」
「そうさな。一服したら、散策にでも赴こうではないか」

立ち上がったナル神が手を打ち鳴らして使いを呼び、ザル神が愛おしそうに私の頬をもう一度撫でる。……今はこの状況を生きて享受できることに感謝すべきなのだろう。
そう思った私は、私を救ってくれた黄金色の指に頬をすり寄せた。





──fin
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