ウェブ再録「春眠」
窓の外の雀が鳴く声で目が覚めた日曜日。後ろから抱きしめられている身体が温かい。お腹に回った彼の腕を外しながらカーテンを開けると、すっきりとした青空が目に入った。柔らかな陽射しが部屋に差し込んで、暗かった部屋が明るくなる。いい天気だな、と思って、ぐうっと伸びをすると、隣で寝ている彼が身じろぎをしながら目を覚ました。
「おはよ」
寝起きの声でそう呟いた彼のたれ目が、いつもより下がって見える。彼は半分も開いていない目で私を見て、朝の陽射しを避けるように私の腰に抱きついて顔を埋めた。落ち着くところを探すように動く彼に合わせて、綺麗な黒髪が揺れる。髪の毛が当たるのがくすぐったくて、それを嗜めるように彼の頭を撫でると、彼が欠伸をするように小さく笑った。
「ねえ、起きるよ」
半分笑いながらそう言うと、彼は曖昧に頷いて、私を引き寄せた。もうちょっと、と言った彼の声がお腹に低く響いて、心臓が甘く跳ねる。私の動きが止まったことに気付いた彼が、下から私の顔を覗き込んで笑う。目尻に薄く皺を寄せながら、困ったような笑顔を見せる彼は、いつまで経っても笑うのが下手くそだと思った。
「今、何時?」
彼が眠たそうに瞬きをしながらそう言ったから、枕元に置いていたスマホを確認すると、時刻は午前八時ちょっと過ぎ。もうそんな時間か、と呟いた彼は漸く私の身体に巻き付けていた腕を解いた。ゆっくりと身体を起こした彼の髪が、暴風に巻き込まれたみたいにぐちゃぐちゃになっていて、少しおかしくなる。彼の跳ねた髪に手ぐしをかけると、私の手に頭をすり寄せるから、まるで大きいワンちゃんみたいだな、と思った。彼の髪を梳いていると、ぐう、と気の抜けるような音が、どこからかして、彼が耐えきれなくなったように笑い出す。それから、お腹減っちゃった、と目を細めて言うから、やっと布団から抜け出すことにした。
春先とはいえ、まだ朝晩は冷え込む。温かい布団から出ると、途端に寒くなって、その辺にあったカーディガンを羽織った。ひんやりとした薄暗いリビングのカーテンを開けると、眩しいくらいの陽射しが差し込んで、思わず目を瞑る。いい天気だね、と後ろから声がしたから、今日は洗濯物が良く乾きそうだな、と思った。
「パン食べる?」
「食べる」
そう返事をすると、じゃあコーヒーも淹れるね、と言って、彼はキッチンに向かった。その背中を見ていると、彼が欠伸をしながらお腹を掻いたのが分かって、不意に、好きだな、と思った。ぺたぺたとフローリングを歩く足が、少し跳ねた襟足が、ちょっとくたびれたスウェットが、なんだかとても愛しく思えて、恥ずかしくなる。同棲を始めてしばらく経つのに、まだ彼に恋しているんだな、と思うと、どうしようもなく嬉しくなった。
洗面所で顔を洗いながら、コーヒーの匂いが漂ってくるのを感じていた。顔を拭きながら、なんとなしに鏡を見ると、真後ろに彼が立っていて、驚いた声が出る。いたずらが成功したみたいに、あはは、と彼が笑うから、恥ずかしくて黙って彼の肩を軽く叩いた。だって気付かないんだもん、と肩を揺らしながら彼が笑って、そのまま顔を洗い出すから、なんだか負けた気がして仕方なかった。でも結局許せてしまうのは、きっと好きだからなんだろうな、と思った。
お前らずっと仲良いよね、喧嘩しないの?と共通の友人に聞かれたことがあった。その時は、そういえばしないな、と思うくらいだったけれど、今は喧嘩をしない理由が分かる気がする。元彼とは喧嘩ばかりだったけれど、蓮とはほとんど喧嘩をしない。喧嘩しそうになったとしても、お互い言い争うことはないし、仲直りもできる。多分、彼の影響が大きいんじゃないかな、と思う。彼は穏やかな人だから、私が怒っても宥めてくれるし、例え不機嫌でも許してくれる。もちろんいらいらすることはあるけれど、穏やかな彼のおかげで、大きな喧嘩もなく、上手く付き合えてるんだと思った。
「ついてるよ」
そう言った彼の指が、私の口の端を拭う。そして何事もなかったように、美味しいね、このパン、と言って、ジャムを塗ったトーストを齧るから、私は彼のことを誰よりも大事にしようと思った。駅前の新しく出来たパン屋さんのだよ、と返事をして、同じようにトーストを齧る。この何気ない時間が、何よりも好きだと思った。
ベランダの窓を開けると、彼が寒そうな顔をした。それを見て笑ってから、お布団干してきて、と言うと、彼はいいよと言って、寝室に入っていった。私は洗濯機に洗濯物を放り込んでスイッチを押す。洗濯機が音を立てて動き出したのを確認してから、ベランダで布団を干す彼の隣に並ぶと、からりとした風が肌を撫でた。陽が当たって、眩しいけれど、温かい。もうすぐ春が来るんだな、と思った。
洗濯物を干して、二人で家の中の掃除をしていると、気付いたらお昼になっていた。慌ててお昼ご飯を作ろうとしたら、彼が慌てなくていいよ、と言ったので、それに甘えることにした。ケチャップがあるから、トマト系のパスタにしようと思って冷蔵庫を覗くと、ベーコンとナスを発見したので、それを使う。味見をしたら、思ったより美味しくできたから、嬉しくなった。
うまい、と言った彼が、大きな口でパスタを頬張るから、思わず嬉しくなって笑ってしまう。彼の食べっぷりはいつみても気持ち良い。表情があまり変わらない割に、感情が分かりやすい彼は、やっぱり大型犬みたいだと思った。
彼が食器を洗っている間に、ベランダに干していたお布団を取り込む。ふかふかのそれは、あたたかくて太陽の匂いがする。リビングの陽の当たるところに畳んで置くと、つい飛び込みたくなる。ちょっとだけ、と思って横になると、もう起き上がれなかった。ふかふかの羽毛布団に顔を埋めて、目を瞑ると、どんどん眠くなってくる。このままじゃ寝てしまうな、と思って起き上がろうとすると、隣に彼が寝転んだ。うわ、ふかふか、と呟いた彼は、身を捩って私にくっついた。
「お昼寝しよう」
またいたずらっ子みたいな顔をして、私に甘言を囁く彼の瞳は、まるで子犬みたいな色をしている。いつもは私より背が高い彼の、少し上目遣いのこの瞳に、私は弱かった。ダメ押しみたいに身体を抱き寄せられると、断る気がなくなってきてしまう。まあ、たまにはいいか、と諦めて彼にすり寄る。足元に陽が当たって、温かい。太陽の匂いと彼の匂いをいっぱいに吸い込むと、どうしようもなく安心してしまう。うとうととする私の髪を撫でた彼は、好きだよ、と本当に小さい声で言った。
幸せというのは多分こういうことを言うんだろうな、とぼんやり微睡みながらそう思う。好きだって言われることは、こんなに嬉しいんだな、と思う。好きな人と一緒にいられることは、こんなに泣きたくなるほど嬉しいんだな、と思う。この幸せが、一生続けばいいのに、と思った。だから、重い瞼をそのままにして、彼の胸に擦り寄る。それから彼のニットに染み込ませるように好き、と呟いた。私のことを好きだと言ってくれる彼に、少しでも私の気持ちが伝わればいいな、と思いながら、瞼を閉じた。
「おはよ」
寝起きの声でそう呟いた彼のたれ目が、いつもより下がって見える。彼は半分も開いていない目で私を見て、朝の陽射しを避けるように私の腰に抱きついて顔を埋めた。落ち着くところを探すように動く彼に合わせて、綺麗な黒髪が揺れる。髪の毛が当たるのがくすぐったくて、それを嗜めるように彼の頭を撫でると、彼が欠伸をするように小さく笑った。
「ねえ、起きるよ」
半分笑いながらそう言うと、彼は曖昧に頷いて、私を引き寄せた。もうちょっと、と言った彼の声がお腹に低く響いて、心臓が甘く跳ねる。私の動きが止まったことに気付いた彼が、下から私の顔を覗き込んで笑う。目尻に薄く皺を寄せながら、困ったような笑顔を見せる彼は、いつまで経っても笑うのが下手くそだと思った。
「今、何時?」
彼が眠たそうに瞬きをしながらそう言ったから、枕元に置いていたスマホを確認すると、時刻は午前八時ちょっと過ぎ。もうそんな時間か、と呟いた彼は漸く私の身体に巻き付けていた腕を解いた。ゆっくりと身体を起こした彼の髪が、暴風に巻き込まれたみたいにぐちゃぐちゃになっていて、少しおかしくなる。彼の跳ねた髪に手ぐしをかけると、私の手に頭をすり寄せるから、まるで大きいワンちゃんみたいだな、と思った。彼の髪を梳いていると、ぐう、と気の抜けるような音が、どこからかして、彼が耐えきれなくなったように笑い出す。それから、お腹減っちゃった、と目を細めて言うから、やっと布団から抜け出すことにした。
春先とはいえ、まだ朝晩は冷え込む。温かい布団から出ると、途端に寒くなって、その辺にあったカーディガンを羽織った。ひんやりとした薄暗いリビングのカーテンを開けると、眩しいくらいの陽射しが差し込んで、思わず目を瞑る。いい天気だね、と後ろから声がしたから、今日は洗濯物が良く乾きそうだな、と思った。
「パン食べる?」
「食べる」
そう返事をすると、じゃあコーヒーも淹れるね、と言って、彼はキッチンに向かった。その背中を見ていると、彼が欠伸をしながらお腹を掻いたのが分かって、不意に、好きだな、と思った。ぺたぺたとフローリングを歩く足が、少し跳ねた襟足が、ちょっとくたびれたスウェットが、なんだかとても愛しく思えて、恥ずかしくなる。同棲を始めてしばらく経つのに、まだ彼に恋しているんだな、と思うと、どうしようもなく嬉しくなった。
洗面所で顔を洗いながら、コーヒーの匂いが漂ってくるのを感じていた。顔を拭きながら、なんとなしに鏡を見ると、真後ろに彼が立っていて、驚いた声が出る。いたずらが成功したみたいに、あはは、と彼が笑うから、恥ずかしくて黙って彼の肩を軽く叩いた。だって気付かないんだもん、と肩を揺らしながら彼が笑って、そのまま顔を洗い出すから、なんだか負けた気がして仕方なかった。でも結局許せてしまうのは、きっと好きだからなんだろうな、と思った。
お前らずっと仲良いよね、喧嘩しないの?と共通の友人に聞かれたことがあった。その時は、そういえばしないな、と思うくらいだったけれど、今は喧嘩をしない理由が分かる気がする。元彼とは喧嘩ばかりだったけれど、蓮とはほとんど喧嘩をしない。喧嘩しそうになったとしても、お互い言い争うことはないし、仲直りもできる。多分、彼の影響が大きいんじゃないかな、と思う。彼は穏やかな人だから、私が怒っても宥めてくれるし、例え不機嫌でも許してくれる。もちろんいらいらすることはあるけれど、穏やかな彼のおかげで、大きな喧嘩もなく、上手く付き合えてるんだと思った。
「ついてるよ」
そう言った彼の指が、私の口の端を拭う。そして何事もなかったように、美味しいね、このパン、と言って、ジャムを塗ったトーストを齧るから、私は彼のことを誰よりも大事にしようと思った。駅前の新しく出来たパン屋さんのだよ、と返事をして、同じようにトーストを齧る。この何気ない時間が、何よりも好きだと思った。
ベランダの窓を開けると、彼が寒そうな顔をした。それを見て笑ってから、お布団干してきて、と言うと、彼はいいよと言って、寝室に入っていった。私は洗濯機に洗濯物を放り込んでスイッチを押す。洗濯機が音を立てて動き出したのを確認してから、ベランダで布団を干す彼の隣に並ぶと、からりとした風が肌を撫でた。陽が当たって、眩しいけれど、温かい。もうすぐ春が来るんだな、と思った。
洗濯物を干して、二人で家の中の掃除をしていると、気付いたらお昼になっていた。慌ててお昼ご飯を作ろうとしたら、彼が慌てなくていいよ、と言ったので、それに甘えることにした。ケチャップがあるから、トマト系のパスタにしようと思って冷蔵庫を覗くと、ベーコンとナスを発見したので、それを使う。味見をしたら、思ったより美味しくできたから、嬉しくなった。
うまい、と言った彼が、大きな口でパスタを頬張るから、思わず嬉しくなって笑ってしまう。彼の食べっぷりはいつみても気持ち良い。表情があまり変わらない割に、感情が分かりやすい彼は、やっぱり大型犬みたいだと思った。
彼が食器を洗っている間に、ベランダに干していたお布団を取り込む。ふかふかのそれは、あたたかくて太陽の匂いがする。リビングの陽の当たるところに畳んで置くと、つい飛び込みたくなる。ちょっとだけ、と思って横になると、もう起き上がれなかった。ふかふかの羽毛布団に顔を埋めて、目を瞑ると、どんどん眠くなってくる。このままじゃ寝てしまうな、と思って起き上がろうとすると、隣に彼が寝転んだ。うわ、ふかふか、と呟いた彼は、身を捩って私にくっついた。
「お昼寝しよう」
またいたずらっ子みたいな顔をして、私に甘言を囁く彼の瞳は、まるで子犬みたいな色をしている。いつもは私より背が高い彼の、少し上目遣いのこの瞳に、私は弱かった。ダメ押しみたいに身体を抱き寄せられると、断る気がなくなってきてしまう。まあ、たまにはいいか、と諦めて彼にすり寄る。足元に陽が当たって、温かい。太陽の匂いと彼の匂いをいっぱいに吸い込むと、どうしようもなく安心してしまう。うとうととする私の髪を撫でた彼は、好きだよ、と本当に小さい声で言った。
幸せというのは多分こういうことを言うんだろうな、とぼんやり微睡みながらそう思う。好きだって言われることは、こんなに嬉しいんだな、と思う。好きな人と一緒にいられることは、こんなに泣きたくなるほど嬉しいんだな、と思う。この幸せが、一生続けばいいのに、と思った。だから、重い瞼をそのままにして、彼の胸に擦り寄る。それから彼のニットに染み込ませるように好き、と呟いた。私のことを好きだと言ってくれる彼に、少しでも私の気持ちが伝わればいいな、と思いながら、瞼を閉じた。
