ウェブ再録「春眠」
上手く眠れなくなったのは、元彼に振られてから。一年前か、そのくらいだったと思う。自分でも分かるくらいに酷い恋愛をして、それでこっぴどく振られた。今思えば最低な男だったと思うけれど、付き合っていた時は、盲目的に好きでいたから、振られた時はこの世の終わりみたいだった。まるで捨てられるみたいに、半同棲していた部屋を追い出されて、泣きながら自分の家に帰ったことを思い出す。目が溶けるんじゃないかというくらい泣いて、もう何もかもお終いだと思っていた。それから、夜に一人で眠るのが怖くなった。眠れたとしても、何度も目が覚めてしまって、朝が来るのが辛かった。毎日慢性的な寝不足で、身体も頭も働かない。自分ではもう吹っ切れてると思っているのに、未だに上手く眠れなかった。
今の彼は、やさしい。私のことを否定しないし、怒鳴ったりもしない。連絡だってマメにしてくれるし、もちろん浮気もしない。だから、やさしい人だ。でも、眠れないことは言ってない。彼に心配をかけたくないし、変に思われるのも嫌。相談しようと思うものの、どうしても彼に嫌われたくないという気持ちが勝ってしまって、なかなか言い出せずにいた。
「今日泊まってくやんなあ?」
「うん、そのつもり」
彼の家で、借りてきた映画を見ていた。レンタルビデオショップで手を繋ぎながら選んだ、彼の好きそうな恋愛映画。ソファの上でべったりとくっついてくる彼の体温が心地良い。恋愛映画なんて本当はあまり興味がないけれど、彼が好きならそれで良いかな、と思って、時々彼の横顔を盗み見しながら、泣けそうなシーンを眺めていた。映画のラストシーンで、恋人同士の二人がキスをした時、繋いでいた彼の手に僅かに力が入る。それを手の感覚だけで知って、あ、好きだ、と思った。
エンドロールまで見終わった後、彼は、いい映画やったなあ、と言いながら私を見た。水分量の多いその瞳は、はちみつみたいな茶色で、いつ見ても綺麗だと思う。それに一つ頷くと、ちょっとだけ眉を下げて微笑まれるから、やっぱり彼のことが好きだと思った。
「そろそろご飯にしよか」
青椒肉絲作ろうと思ってん、と笑って立ち上がった彼はぐうっと伸びをする。待っててな、とふざけるようにウインクをした彼に、思わず笑ってしまった。笑いながらキッチンに向かう彼の背中を見送って、扉が閉まるのを見た後、つい小さく息を吐いた。鞄を引き寄せて、中を覗く。鞄の底にあるのは、アルミに包まれた睡眠薬。お守り代わりのようなそれを一瞥して、悲しくなって、目線を落とした。情緒が不安定なのは、きっと寝不足なせい。そういうことにして目を瞑った。
彼は、すごく優しいから、多分、私が眠れないことを知ったら、ものすごく心配してくれるんだろうと思う。そしてどうにかしようとしてくれるんだと思う。だから、言えなかった。こんなにダメな私を好きでいてくれる彼に、心配なんてかけたくないと思ってしまう。今日のお泊まりも、実は初めてで、数日前から不安でいっぱいだった。呆れられたりしないかなあ、嫌になったりしないかなあ、そんなことを思うとやっぱり不安で、手の先が冷たくなる。だって好きだから、嫌われたくないなあ、と思った。
「出来たで!」
彼の声ではっとする。美味しそうな匂いが漂ってきて、お腹が切なく鳴いた。慌てて立ち上がって、手伝おうとすると、彼にやんわりと止められる。ええの、座っといて?と言われて、ソファに逆戻りした。あっという間にご飯が並べられて、彼が向かいに座る。いただきます、と言った彼と一緒に手を合わせると、なんだか同棲してるみたいで嬉しくなった。
彼の作った美味しいご飯を食べたあとは、二人で並んで片付けをする。本当に同棲してると錯覚しそうになって、どきどきする。このまま本当になったりしないかなあ、と思って、小さく苦笑した。それから、お風呂を済ませて、リビングでだらだらとくっついていると、いつの間にか二十三時を回っていた。
もう寝よか、と言った彼の声に、心臓が嫌な音を立てる。どうしよう、と視線を彷徨わせた私に気付くことなく、彼は寝室に向かう。とりあえず彼の背中を追うものの、不安や心配が波のように押し寄せて、手の先が冷たくなる。彼のスウェットを引っ張って、あのさ、と言った声は、微かに震えていた。
「どうしたん?」
そう言った彼の声は穏やかで、少し安心する。彼は、スウェットを掴んでいた私の手をやさしく包んで、軽く揺らした。言わなくちゃ、と思うと、泣きそうになってくる。眠れない、なんて、きっと他の人からしたら大したことないはずなのに、私にとっては一番の悩みだから、彼に言うのも怖くなる。えっと、と言葉に詰まって、下を向いた。
「今日、眠れないかもしれない」
漸く出た言葉が、これだった。彼の手に包まれた手が震えそうになる。涙がこぼれ落ちそうになって、袖で拭うと、途端にやわらかな彼の匂いが私を包んだ。背中に回された腕と、額がスウェットに当たる感覚で、抱きしめられたんだと気付く。泣いている私をあやすように、やさしく背中を撫でる手があたたかい。またじわりと涙が滲むから、袖口で目を擦ると、目ぇ腫れるからやめえや、と背中をぽんぽんと叩かれた。
「やっぱ帰るって言われんで良かったわ」
その言葉に驚いて、顔を上げる。一緒に寝れんの楽しみにしてたんやから、と笑った彼は、私の頬に唇を落とした。それから、眠れんかったら一緒に映画でも見よ?と言って強く私を抱きしめるから、私は泣きながら頷いた。
とりあえずベッド行こか、と彼が言ったから、今度はちゃんと彼にくっついて寝室に入った。ベッドに寝転んだ彼が、おれのここ空いてるで、と腕を投げ出すから、思わず笑ってしまう。じゃあ、と思って布団に潜り込んで、彼にすり寄ると、さっきみたいに抱きしめられた。彼の、確かな鼓動が聞こえて、安心で顔が緩む。あたたかい布団の中で彼の話に耳を傾けていると、身体の力が抜けていくのが分かった。ああ、好きだなあ、と思ったところまでは覚えている。
ぼんやりと意識が浮上して、見慣れない天井が目に入る。思わず飛び起きると、布団から彼の匂いがして、そういえば、と彼の家に泊まっていたことを思い出した。枕元のスマホを開くと、時計は朝の九時過ぎを指していて驚く。それから一回も起きずに寝ていたことに、もう一度驚いて、なぜか泣きそうになった。頭も痛くないし、身体も重くない。肩だって軽くなってるし、引きずるような眠気もない。充分に寝た、という実感が、確かにあった。
康二くんは、と思って、視線を彷徨わせる。すると、寝室の扉の向こうで、物音がした。入るで、と小さな彼の声がして、扉が開く。部屋を覗き込んだ彼は私と目が合った途端、いつものように眉を下げて笑った。
「おはよう、よお眠れた?」
ベッドに腰掛けた彼が、私の跳ねた髪を撫でる。私は、うん、と呟いたあと、彼に抱きついた。驚いた彼が、声を上げる。それでも抱きついていると、彼の腕が私の背中に回った。途方もなく、好きだと思う。思わず、だいすき、と呟くと、おれもだいすきやで、と返ってきたから、彼のことを離したくないなあ、と思った。ずっと、そばにいてほしいと思って、彼を抱きしめた。
今の彼は、やさしい。私のことを否定しないし、怒鳴ったりもしない。連絡だってマメにしてくれるし、もちろん浮気もしない。だから、やさしい人だ。でも、眠れないことは言ってない。彼に心配をかけたくないし、変に思われるのも嫌。相談しようと思うものの、どうしても彼に嫌われたくないという気持ちが勝ってしまって、なかなか言い出せずにいた。
「今日泊まってくやんなあ?」
「うん、そのつもり」
彼の家で、借りてきた映画を見ていた。レンタルビデオショップで手を繋ぎながら選んだ、彼の好きそうな恋愛映画。ソファの上でべったりとくっついてくる彼の体温が心地良い。恋愛映画なんて本当はあまり興味がないけれど、彼が好きならそれで良いかな、と思って、時々彼の横顔を盗み見しながら、泣けそうなシーンを眺めていた。映画のラストシーンで、恋人同士の二人がキスをした時、繋いでいた彼の手に僅かに力が入る。それを手の感覚だけで知って、あ、好きだ、と思った。
エンドロールまで見終わった後、彼は、いい映画やったなあ、と言いながら私を見た。水分量の多いその瞳は、はちみつみたいな茶色で、いつ見ても綺麗だと思う。それに一つ頷くと、ちょっとだけ眉を下げて微笑まれるから、やっぱり彼のことが好きだと思った。
「そろそろご飯にしよか」
青椒肉絲作ろうと思ってん、と笑って立ち上がった彼はぐうっと伸びをする。待っててな、とふざけるようにウインクをした彼に、思わず笑ってしまった。笑いながらキッチンに向かう彼の背中を見送って、扉が閉まるのを見た後、つい小さく息を吐いた。鞄を引き寄せて、中を覗く。鞄の底にあるのは、アルミに包まれた睡眠薬。お守り代わりのようなそれを一瞥して、悲しくなって、目線を落とした。情緒が不安定なのは、きっと寝不足なせい。そういうことにして目を瞑った。
彼は、すごく優しいから、多分、私が眠れないことを知ったら、ものすごく心配してくれるんだろうと思う。そしてどうにかしようとしてくれるんだと思う。だから、言えなかった。こんなにダメな私を好きでいてくれる彼に、心配なんてかけたくないと思ってしまう。今日のお泊まりも、実は初めてで、数日前から不安でいっぱいだった。呆れられたりしないかなあ、嫌になったりしないかなあ、そんなことを思うとやっぱり不安で、手の先が冷たくなる。だって好きだから、嫌われたくないなあ、と思った。
「出来たで!」
彼の声ではっとする。美味しそうな匂いが漂ってきて、お腹が切なく鳴いた。慌てて立ち上がって、手伝おうとすると、彼にやんわりと止められる。ええの、座っといて?と言われて、ソファに逆戻りした。あっという間にご飯が並べられて、彼が向かいに座る。いただきます、と言った彼と一緒に手を合わせると、なんだか同棲してるみたいで嬉しくなった。
彼の作った美味しいご飯を食べたあとは、二人で並んで片付けをする。本当に同棲してると錯覚しそうになって、どきどきする。このまま本当になったりしないかなあ、と思って、小さく苦笑した。それから、お風呂を済ませて、リビングでだらだらとくっついていると、いつの間にか二十三時を回っていた。
もう寝よか、と言った彼の声に、心臓が嫌な音を立てる。どうしよう、と視線を彷徨わせた私に気付くことなく、彼は寝室に向かう。とりあえず彼の背中を追うものの、不安や心配が波のように押し寄せて、手の先が冷たくなる。彼のスウェットを引っ張って、あのさ、と言った声は、微かに震えていた。
「どうしたん?」
そう言った彼の声は穏やかで、少し安心する。彼は、スウェットを掴んでいた私の手をやさしく包んで、軽く揺らした。言わなくちゃ、と思うと、泣きそうになってくる。眠れない、なんて、きっと他の人からしたら大したことないはずなのに、私にとっては一番の悩みだから、彼に言うのも怖くなる。えっと、と言葉に詰まって、下を向いた。
「今日、眠れないかもしれない」
漸く出た言葉が、これだった。彼の手に包まれた手が震えそうになる。涙がこぼれ落ちそうになって、袖で拭うと、途端にやわらかな彼の匂いが私を包んだ。背中に回された腕と、額がスウェットに当たる感覚で、抱きしめられたんだと気付く。泣いている私をあやすように、やさしく背中を撫でる手があたたかい。またじわりと涙が滲むから、袖口で目を擦ると、目ぇ腫れるからやめえや、と背中をぽんぽんと叩かれた。
「やっぱ帰るって言われんで良かったわ」
その言葉に驚いて、顔を上げる。一緒に寝れんの楽しみにしてたんやから、と笑った彼は、私の頬に唇を落とした。それから、眠れんかったら一緒に映画でも見よ?と言って強く私を抱きしめるから、私は泣きながら頷いた。
とりあえずベッド行こか、と彼が言ったから、今度はちゃんと彼にくっついて寝室に入った。ベッドに寝転んだ彼が、おれのここ空いてるで、と腕を投げ出すから、思わず笑ってしまう。じゃあ、と思って布団に潜り込んで、彼にすり寄ると、さっきみたいに抱きしめられた。彼の、確かな鼓動が聞こえて、安心で顔が緩む。あたたかい布団の中で彼の話に耳を傾けていると、身体の力が抜けていくのが分かった。ああ、好きだなあ、と思ったところまでは覚えている。
ぼんやりと意識が浮上して、見慣れない天井が目に入る。思わず飛び起きると、布団から彼の匂いがして、そういえば、と彼の家に泊まっていたことを思い出した。枕元のスマホを開くと、時計は朝の九時過ぎを指していて驚く。それから一回も起きずに寝ていたことに、もう一度驚いて、なぜか泣きそうになった。頭も痛くないし、身体も重くない。肩だって軽くなってるし、引きずるような眠気もない。充分に寝た、という実感が、確かにあった。
康二くんは、と思って、視線を彷徨わせる。すると、寝室の扉の向こうで、物音がした。入るで、と小さな彼の声がして、扉が開く。部屋を覗き込んだ彼は私と目が合った途端、いつものように眉を下げて笑った。
「おはよう、よお眠れた?」
ベッドに腰掛けた彼が、私の跳ねた髪を撫でる。私は、うん、と呟いたあと、彼に抱きついた。驚いた彼が、声を上げる。それでも抱きついていると、彼の腕が私の背中に回った。途方もなく、好きだと思う。思わず、だいすき、と呟くと、おれもだいすきやで、と返ってきたから、彼のことを離したくないなあ、と思った。ずっと、そばにいてほしいと思って、彼を抱きしめた。
