ウェブ再録「春眠」
春眠暁を覚えずって言葉はね、元々中国の漢文でね、と電波越しの彼の声を聞きながら、私は忙しなく部屋の中を動き回る。棚の後ろを覗いて、机の下に手を入れて、きょろきょろと視線を彷徨わせる。うんうんと曖昧に頷く私は、彼の言葉を右から左に流している。焦りと不安と申し訳なさで、彼の言葉が頭に入らない。寝坊するって意味じゃなくて、と彼が言ったから、へえ、と呟くと、電話の向こうが一瞬静かになった。
「今忙しかった?」
忙しなく動き回る私を見ているようなことを急に言われて、心臓がどきりと跳ねる。大丈夫だよ、と取り繕った声でそう言うと、少し間が空いて、そっか、と聞こえた。そしてまた何事もなかったかのように話を戻すから、私はばれないように安堵の息を漏らした。
彼にもらった指輪を失くした。わざとじゃない、本当に私のうっかりで失くした。家に帰って来たときまでは着けていた記憶があるから、多分家の中にはあるはずなんだけれど、ただ、どこに置いたかを忘れてしまった。どうしよう、と思って、泣きそうになる。こんなことになるなら、ちゃんと亮平くんの言う事聞いて片付けしておけば良かった。今更後悔したって遅いけれど、そうやって考えるくらいにはあの指輪を大事にしていた。
「帰るのは明日のお昼くらいになりそう」
電波越しに彼がそう言ったのを、つい聞き流してしまって、三秒の静寂が訪れた。あ、やばい、と思った時にはもう遅くて、電話越しの彼の空気が変わったのが分かる。察しの良い彼は、電話越しでも私の小さな変化に気付く。私が何か言わなくちゃと口を開いた瞬間、あのさ、と彼の声が聞こえた。
「やっぱりさ、何かしてるでしょ」
結構物音してるし、もしかして探し物?と続けた彼に、私は言葉を詰まらせる。図星を刺された私は、何も言えない。う、と思わず唸った私に、彼はいいよ、と言って笑った。
「大事なものなんでしょ?」
だったら探さなきゃじゃん。そう笑った彼は、帰ったらおれも探すよ、と少しも私を責める事なく穏やかに言った。何を失くしたの、とも言わないから、私はぎゅっと手を握りしめる。亮平くんからもらった指輪を失くした、とは言えなくて、後ろめたさで唇を噛んだ。
指輪は去年の誕生日に、彼からもらった。細い金のリングに、小さい透明な石が嵌っていて、何にでも合わせやすそうな、上品なもの。もらってからずっとお気に入りで、しょっちゅう着けていた。右手の薬指にぴったりで、すごく、好きだったのに。
「ごめん」
泣きそうになって謝ると、え、何?どうしたの?と電話口で彼が驚いて焦り出す。何かあった?とやさしく言われると、途端にじわりと視界が滲んで、涙が溢れた。やだ、泣きたくない、と思うのに、申し訳なさでいっぱいになった心は、勝手に涙を溢れさせる。もう隠しきれなくなって、亮平くんのくれた指輪失くしちゃった、と泣きながら白状した。
「なんだ、そんなことかあ」
そう言って安心したような声を出すから、今度は私が驚く番だった。だって失くしちゃったんだよ、と呟くと、いいんだよ、と彼が笑った。
「指輪はおれも探すし、それでもなかったらまた買ったらいいし、だからさ、泣かないで?」
彼のやさしい言葉に、また涙が落ちる。散らかった部屋の真ん中で立ち尽くして、目を擦る。でも、と呟くと、彼の言葉がそれを遮った。
「それより、そんなに大事にしてくれてありがとう」
彼は、やさしすぎる。何にもできない私に怒ったっていいのに、呆れたっていいのに、そんなことは絶対にしなかった。いつだって静かに寄り添って、私を助けてくれる。そんな彼に私はいつも甘えてしまうけれど、彼はそれすらも許して笑ってくれる。そんなあたたかな春の風みたいな彼のことを、私は誰よりも好きで、誰よりも大事だった。
「明日になったら出てくるかもよ」
もう遅いし寝てみても良いんじゃない?とおどけたように彼が言うから、私は目を擦りながら頷いた。探し物ってさ、探さなくなったら出てくるじゃない、それを待ってみようよ。いつまでも泣いている私を宥めるように彼がそう言って、私はひたすら頷く。彼の言葉に頷きながら、やっぱり彼がいないと上手く生活ができないんだな、と思った。
「鍵はちゃんと閉めてる?歯磨きはした?」
うん、と呟いて、お風呂もちゃんと入ったよ、と笑ってみせる。えらいね、と私を褒めた彼は、やっぱりどこまでもやさしい。多分明日帰ってきて、このぐちゃぐちゃな部屋を見ても、めっちゃ探したねって笑って、それから一緒に片付けてくれるんだろうなと思った。
電話を繋いだまま、ダブルサイズのベッドに潜り込む。いつもは彼と一緒に寝転がるベッドは、私一人だとちょっと広すぎた。さみしいけれど、明日には帰ってきてくれる。そう思って、布団を被り直した。
「寝るまで繋いでおこうか」
そう言った彼は、きっと私がさみしいことを知っている。やっぱり亮平くんはやさしすぎるから、私には勿体ないと思った。だもね、私はずっと好きでいるよ。亮平くんが私を嫌いになっても、ずっと好きでいるよ。でも多分、それはお互い様なんじゃないかなあ。私にはよく分からない彼の雑学を子守唄みたいに聞きながらそんなことを考える。だって、亮平くんは私にばっかり甘いから。そう自惚れるくらいには、彼は分かりやすく私に愛情を注いでいる。好きだよ、と呟くと、彼が一瞬話を止めて、おれもだよ、と言った。
「おれも好きだよ」
それから、おやすみ、良い夢見てね、と彼が言ったから、私はおやすみ、と返して目を瞑った。彼のいないベッドは広いけれど、彼のいない部屋は寒いけれど、亮平くんがそう言ってくれたから、私は良い夢を見ることができると思った。小さく身体を丸めて、彼の声を聞いていると、まるで隣にいてくれるみたいだった。明日は一緒に寝ようね、と言った気がしたけれど、ちゃんと言えていたかどうかは分からない。ただ、彼のことが好きだと思って、意識を手放した。おやすみ、だいすきだよ、と思いながら、目を瞑った。
「今忙しかった?」
忙しなく動き回る私を見ているようなことを急に言われて、心臓がどきりと跳ねる。大丈夫だよ、と取り繕った声でそう言うと、少し間が空いて、そっか、と聞こえた。そしてまた何事もなかったかのように話を戻すから、私はばれないように安堵の息を漏らした。
彼にもらった指輪を失くした。わざとじゃない、本当に私のうっかりで失くした。家に帰って来たときまでは着けていた記憶があるから、多分家の中にはあるはずなんだけれど、ただ、どこに置いたかを忘れてしまった。どうしよう、と思って、泣きそうになる。こんなことになるなら、ちゃんと亮平くんの言う事聞いて片付けしておけば良かった。今更後悔したって遅いけれど、そうやって考えるくらいにはあの指輪を大事にしていた。
「帰るのは明日のお昼くらいになりそう」
電波越しに彼がそう言ったのを、つい聞き流してしまって、三秒の静寂が訪れた。あ、やばい、と思った時にはもう遅くて、電話越しの彼の空気が変わったのが分かる。察しの良い彼は、電話越しでも私の小さな変化に気付く。私が何か言わなくちゃと口を開いた瞬間、あのさ、と彼の声が聞こえた。
「やっぱりさ、何かしてるでしょ」
結構物音してるし、もしかして探し物?と続けた彼に、私は言葉を詰まらせる。図星を刺された私は、何も言えない。う、と思わず唸った私に、彼はいいよ、と言って笑った。
「大事なものなんでしょ?」
だったら探さなきゃじゃん。そう笑った彼は、帰ったらおれも探すよ、と少しも私を責める事なく穏やかに言った。何を失くしたの、とも言わないから、私はぎゅっと手を握りしめる。亮平くんからもらった指輪を失くした、とは言えなくて、後ろめたさで唇を噛んだ。
指輪は去年の誕生日に、彼からもらった。細い金のリングに、小さい透明な石が嵌っていて、何にでも合わせやすそうな、上品なもの。もらってからずっとお気に入りで、しょっちゅう着けていた。右手の薬指にぴったりで、すごく、好きだったのに。
「ごめん」
泣きそうになって謝ると、え、何?どうしたの?と電話口で彼が驚いて焦り出す。何かあった?とやさしく言われると、途端にじわりと視界が滲んで、涙が溢れた。やだ、泣きたくない、と思うのに、申し訳なさでいっぱいになった心は、勝手に涙を溢れさせる。もう隠しきれなくなって、亮平くんのくれた指輪失くしちゃった、と泣きながら白状した。
「なんだ、そんなことかあ」
そう言って安心したような声を出すから、今度は私が驚く番だった。だって失くしちゃったんだよ、と呟くと、いいんだよ、と彼が笑った。
「指輪はおれも探すし、それでもなかったらまた買ったらいいし、だからさ、泣かないで?」
彼のやさしい言葉に、また涙が落ちる。散らかった部屋の真ん中で立ち尽くして、目を擦る。でも、と呟くと、彼の言葉がそれを遮った。
「それより、そんなに大事にしてくれてありがとう」
彼は、やさしすぎる。何にもできない私に怒ったっていいのに、呆れたっていいのに、そんなことは絶対にしなかった。いつだって静かに寄り添って、私を助けてくれる。そんな彼に私はいつも甘えてしまうけれど、彼はそれすらも許して笑ってくれる。そんなあたたかな春の風みたいな彼のことを、私は誰よりも好きで、誰よりも大事だった。
「明日になったら出てくるかもよ」
もう遅いし寝てみても良いんじゃない?とおどけたように彼が言うから、私は目を擦りながら頷いた。探し物ってさ、探さなくなったら出てくるじゃない、それを待ってみようよ。いつまでも泣いている私を宥めるように彼がそう言って、私はひたすら頷く。彼の言葉に頷きながら、やっぱり彼がいないと上手く生活ができないんだな、と思った。
「鍵はちゃんと閉めてる?歯磨きはした?」
うん、と呟いて、お風呂もちゃんと入ったよ、と笑ってみせる。えらいね、と私を褒めた彼は、やっぱりどこまでもやさしい。多分明日帰ってきて、このぐちゃぐちゃな部屋を見ても、めっちゃ探したねって笑って、それから一緒に片付けてくれるんだろうなと思った。
電話を繋いだまま、ダブルサイズのベッドに潜り込む。いつもは彼と一緒に寝転がるベッドは、私一人だとちょっと広すぎた。さみしいけれど、明日には帰ってきてくれる。そう思って、布団を被り直した。
「寝るまで繋いでおこうか」
そう言った彼は、きっと私がさみしいことを知っている。やっぱり亮平くんはやさしすぎるから、私には勿体ないと思った。だもね、私はずっと好きでいるよ。亮平くんが私を嫌いになっても、ずっと好きでいるよ。でも多分、それはお互い様なんじゃないかなあ。私にはよく分からない彼の雑学を子守唄みたいに聞きながらそんなことを考える。だって、亮平くんは私にばっかり甘いから。そう自惚れるくらいには、彼は分かりやすく私に愛情を注いでいる。好きだよ、と呟くと、彼が一瞬話を止めて、おれもだよ、と言った。
「おれも好きだよ」
それから、おやすみ、良い夢見てね、と彼が言ったから、私はおやすみ、と返して目を瞑った。彼のいないベッドは広いけれど、彼のいない部屋は寒いけれど、亮平くんがそう言ってくれたから、私は良い夢を見ることができると思った。小さく身体を丸めて、彼の声を聞いていると、まるで隣にいてくれるみたいだった。明日は一緒に寝ようね、と言った気がしたけれど、ちゃんと言えていたかどうかは分からない。ただ、彼のことが好きだと思って、意識を手放した。おやすみ、だいすきだよ、と思いながら、目を瞑った。
