ウェブ再録「春眠」
資料の入った重い鞄を抱えて、日の落ちた街を通り抜ける。ビルの隙間に三日月が浮かんでいるのが見えたから、早く帰りたいな、と思って歩くスピードを上げた。春先とはいえ、まだ冷たい風が吹きつけて、崩れた前髪をかき混ぜる。メイクも髪も何もかもボロボロだな、と思って、悲しくなった。
仕事で疲れた日は、無性に恋人に甘やかしてもらいたくなる。彼がお疲れさまって言って笑って、それからやさしく抱きしめてほしい。髪だって乾かしてほしいし、ふかふかのお布団で寝かしつけてほしい。そんなことを考えて、私、疲れてるな、と思った。
ぐちゃぐちゃの鞄の中から、何とか鍵を取り出して、鍵穴に捩じ込んだ。ただいまあ、と生気のない声で呟きながら、玄関の扉を開ける。しっかりと鍵を掛けたのを確認してからパンプスを脱いでいると、おかえり、と彼の声が響いた。
「お疲れさま、寒かったよね」
彼はそう言って、さりげない仕草で私の鞄を持つ。今日は鮭の塩焼きと豚汁だよ、と微笑んだ彼を見つめながら、玄関でぼんやりと立ち尽くす。どうしたの?と彼が私の顔を覗き込んで、ようやく身体が動いた。ごめん、と呟いて一歩踏み出すと、足がもつれてバランスを崩してしまって、あ、と気付いたときには、彼にぶつかってしまった。それでも彼は倒れることなく私を受け止めて、大丈夫?と私の背中を撫でる。彼のやさしいところを感じて、自分のダメさ加減に泣きそうになった。
「ご、ごめん…」
彼の部屋着に縋りつきながら謝ると、何だか全てがダメになったように思えて、それに耐えるように下唇を噛んだ。今日は何をしてもダメな日だ、嫌になる、きっと涼太だって呆れてる。そうやってありもしないことを考えては勝手に気分が落ち込む。面倒くさい女だな、と思って、彼の手を振り払ってでも、今すぐに逃げ出したくなった。だから体勢を立て直そうと足に力を入れたけれど、なぜか彼の腕に引き寄せられて、彼の胸に逆戻りする。驚いて顔を上げると、彼がやさしく微笑んで、口を開いた。
「温かいお茶でも飲もうか」
ね、と言って笑った彼は、もう一度私の背中を撫でた。その仕草で、表情で、一気に安心してしまう自分がいて、本当に泣き出してしまいそう。そう思った瞬間、胸の奥が苦しくなって、じわりと滲んだ視界がゆらゆら揺れて、あっという間にこぼれ落ちた。思わず、彼にしがみつく。情けないとは思っても、勝手に溢れる涙は止まらなかった。
背中を撫でていた彼の手が、私を引き寄せて、ちょっと苦しいくらいに強く抱きしめる。びっくりして、一瞬涙が止まった。彼の服が汚れるとか、汗臭くないかな、とか、そんなことを反射的に思ったけれど、彼は何にも言わず、私を抱きしめた。彼からは、あたたかくてやわらかな匂いがして、また涙が滲んだ。
「がんばったね」
彼がそう小さく呟いて、私の頭を撫でる。でもここじゃ寒いから、落ち着いたらリビングに行こう、と続けて、彼は私をあやすように小さく揺れた。その言葉で、私はゆっくりと深呼吸をする。肺いっぱいに彼のやさしさを吸って、それからゆっくりと吐き出す。それを何度か繰り返しているうちに、冷たくなっていた指先が、少し温かくなった気がした。
手洗ってくるね、と呟くと、思ったよりも掠れた声が出たから、ちょっと恥ずかしくなる。赤くなっている目元を見られたくなくて俯いたまま身体を離すと、目は擦っちゃだめだよ、と声が降ってきたから、黙って頷いた。
「リビングにいるからね」
その言葉にもう一度頷いて脱衣所に向かう。洗面台の鏡を見ると、ばっちり目が腫れていた。しばらく治らないだろうな、と思いながら手を洗って、ついでにぼろぼろのメイクも落とそうと、クレンジングのボトルを取った。メイクを落としきってタオルで顔を拭いていると、置きっぱなしの部屋着が鏡越しに目に入った。それでもう着替えてしまおうと思って、スーツを脱いだ。
部屋着に着替えてからリビングに入ると、彼は晩ご飯の用意をしていた。美味しそうな匂いがして、お腹が切なく鳴く。私に気付いた彼が、座ってて、と言ったから、急いでスーツを片付けて椅子に座ると、テーブルに湯気の立つマグカップが置かれた。
「あと五分くらいで出来るから」
彼はそう言って、向かいの椅子に座る。同じようにマグカップを持った彼が、穏やかに微笑んだ。目の前のマグカップに目を向けて、そっと両手で包む。息を吹きかけると、白い湯気が空気中に溶けていった。火傷をしないくらいの温度のお茶を啜ると、身体の中が温かくなる。向かいの彼は黙ってお茶を飲んでいた。
彼の作ってくれたご飯を食べたあと、お風呂沸いてるよ、という彼の言葉に甘えて、お風呂に入った。髪を拭きながらリビングに戻ると、ドライヤーを持って待っていた彼が、髪を乾かしてくれて、少し驚いた。おれも入ってくるね、と言った彼を見送って、お皿でも片付けようとキッチンに入ると、もうすでに食器乾燥機が回っていたから、私は、彼にできないことはないんだろうなあ、と感心することしかできなかった。それから、お風呂から上がった彼に言われるがまま、寝室に向かった。
「これね、薔薇の香りなの」
小さい瓶に入ったキャンドルに火をつけながら、彼がそう言う。明かりを落とした部屋の中で、キャンドルの火が小さく揺れた。僅かに、薔薇の香りがする。ベッドに並んで座って、それを見つめると、ささくれた心が落ち着いてくる気がした。もう何もかも嫌だなあ、なんて思っていたことは、今はすっかり忘れている。彼にもたれかかって、穏やかな彼の声を聞いていた。
彼の声は、海みたいだと思う。少し低くて、癖のないその声が、私は好き。やさしい音で言葉を紡いで私の心を溶かすから、まるで凪いだ海みたいだと思った。
「海、行きたいね」
ぽつりと呟くと、じゃあ夏になったらサーフィンに付き合ってくれる?と彼が答えた。それに一つ頷いたところで欠伸が出たから、彼が小さく笑って、もう寝ようか、と私の髪を梳いた。頭を触られると、眠たくなってくる。そのやさしい手に擦り寄るように頭を寄せた。
火の消えた部屋の中で、手探りで彼の服を掴む。そのまま顔を寄せると、彼の匂いがする。彼にくっついて丸まりながら、ありがとう、と呟くと、こちらこそありがとう、と返されて、やっぱり彼には敵わないなあと思った。
その、穏やかな声が好き。私を撫でるあたたかい手も、やさしい眼差しも、彼の作る美味しいご飯も、全部好き。私の王子様みたいな彼のことが、誰よりも好きだった。
「だいすき」
そう呟いて目を閉じると、微かに彼の鼓動が聞こえる。それから、おやすみ、愛してるよ、と彼が言って、私のつむじに唇を落とした。それだけで、今日はだめな日だったけど、そんなこともなかったな、と思える。ご飯も作ってもらえて、髪も乾かしてもらえて、彼のお気に入りのキャンドルも焚いてもらえて、愛してるって言ってもらえて、今日はいい日だった。ありがとうと言っても足りないくらいには感謝してるし、愛してるという言葉だけじゃ伝え足りないから、私は軽く伸びをして、彼にキスをした。好きだという気持ちが、破裂するくらいに伝わればいいと思ってキスをした。夢の中でも会えるといいな、と思ってキスをした。
仕事で疲れた日は、無性に恋人に甘やかしてもらいたくなる。彼がお疲れさまって言って笑って、それからやさしく抱きしめてほしい。髪だって乾かしてほしいし、ふかふかのお布団で寝かしつけてほしい。そんなことを考えて、私、疲れてるな、と思った。
ぐちゃぐちゃの鞄の中から、何とか鍵を取り出して、鍵穴に捩じ込んだ。ただいまあ、と生気のない声で呟きながら、玄関の扉を開ける。しっかりと鍵を掛けたのを確認してからパンプスを脱いでいると、おかえり、と彼の声が響いた。
「お疲れさま、寒かったよね」
彼はそう言って、さりげない仕草で私の鞄を持つ。今日は鮭の塩焼きと豚汁だよ、と微笑んだ彼を見つめながら、玄関でぼんやりと立ち尽くす。どうしたの?と彼が私の顔を覗き込んで、ようやく身体が動いた。ごめん、と呟いて一歩踏み出すと、足がもつれてバランスを崩してしまって、あ、と気付いたときには、彼にぶつかってしまった。それでも彼は倒れることなく私を受け止めて、大丈夫?と私の背中を撫でる。彼のやさしいところを感じて、自分のダメさ加減に泣きそうになった。
「ご、ごめん…」
彼の部屋着に縋りつきながら謝ると、何だか全てがダメになったように思えて、それに耐えるように下唇を噛んだ。今日は何をしてもダメな日だ、嫌になる、きっと涼太だって呆れてる。そうやってありもしないことを考えては勝手に気分が落ち込む。面倒くさい女だな、と思って、彼の手を振り払ってでも、今すぐに逃げ出したくなった。だから体勢を立て直そうと足に力を入れたけれど、なぜか彼の腕に引き寄せられて、彼の胸に逆戻りする。驚いて顔を上げると、彼がやさしく微笑んで、口を開いた。
「温かいお茶でも飲もうか」
ね、と言って笑った彼は、もう一度私の背中を撫でた。その仕草で、表情で、一気に安心してしまう自分がいて、本当に泣き出してしまいそう。そう思った瞬間、胸の奥が苦しくなって、じわりと滲んだ視界がゆらゆら揺れて、あっという間にこぼれ落ちた。思わず、彼にしがみつく。情けないとは思っても、勝手に溢れる涙は止まらなかった。
背中を撫でていた彼の手が、私を引き寄せて、ちょっと苦しいくらいに強く抱きしめる。びっくりして、一瞬涙が止まった。彼の服が汚れるとか、汗臭くないかな、とか、そんなことを反射的に思ったけれど、彼は何にも言わず、私を抱きしめた。彼からは、あたたかくてやわらかな匂いがして、また涙が滲んだ。
「がんばったね」
彼がそう小さく呟いて、私の頭を撫でる。でもここじゃ寒いから、落ち着いたらリビングに行こう、と続けて、彼は私をあやすように小さく揺れた。その言葉で、私はゆっくりと深呼吸をする。肺いっぱいに彼のやさしさを吸って、それからゆっくりと吐き出す。それを何度か繰り返しているうちに、冷たくなっていた指先が、少し温かくなった気がした。
手洗ってくるね、と呟くと、思ったよりも掠れた声が出たから、ちょっと恥ずかしくなる。赤くなっている目元を見られたくなくて俯いたまま身体を離すと、目は擦っちゃだめだよ、と声が降ってきたから、黙って頷いた。
「リビングにいるからね」
その言葉にもう一度頷いて脱衣所に向かう。洗面台の鏡を見ると、ばっちり目が腫れていた。しばらく治らないだろうな、と思いながら手を洗って、ついでにぼろぼろのメイクも落とそうと、クレンジングのボトルを取った。メイクを落としきってタオルで顔を拭いていると、置きっぱなしの部屋着が鏡越しに目に入った。それでもう着替えてしまおうと思って、スーツを脱いだ。
部屋着に着替えてからリビングに入ると、彼は晩ご飯の用意をしていた。美味しそうな匂いがして、お腹が切なく鳴く。私に気付いた彼が、座ってて、と言ったから、急いでスーツを片付けて椅子に座ると、テーブルに湯気の立つマグカップが置かれた。
「あと五分くらいで出来るから」
彼はそう言って、向かいの椅子に座る。同じようにマグカップを持った彼が、穏やかに微笑んだ。目の前のマグカップに目を向けて、そっと両手で包む。息を吹きかけると、白い湯気が空気中に溶けていった。火傷をしないくらいの温度のお茶を啜ると、身体の中が温かくなる。向かいの彼は黙ってお茶を飲んでいた。
彼の作ってくれたご飯を食べたあと、お風呂沸いてるよ、という彼の言葉に甘えて、お風呂に入った。髪を拭きながらリビングに戻ると、ドライヤーを持って待っていた彼が、髪を乾かしてくれて、少し驚いた。おれも入ってくるね、と言った彼を見送って、お皿でも片付けようとキッチンに入ると、もうすでに食器乾燥機が回っていたから、私は、彼にできないことはないんだろうなあ、と感心することしかできなかった。それから、お風呂から上がった彼に言われるがまま、寝室に向かった。
「これね、薔薇の香りなの」
小さい瓶に入ったキャンドルに火をつけながら、彼がそう言う。明かりを落とした部屋の中で、キャンドルの火が小さく揺れた。僅かに、薔薇の香りがする。ベッドに並んで座って、それを見つめると、ささくれた心が落ち着いてくる気がした。もう何もかも嫌だなあ、なんて思っていたことは、今はすっかり忘れている。彼にもたれかかって、穏やかな彼の声を聞いていた。
彼の声は、海みたいだと思う。少し低くて、癖のないその声が、私は好き。やさしい音で言葉を紡いで私の心を溶かすから、まるで凪いだ海みたいだと思った。
「海、行きたいね」
ぽつりと呟くと、じゃあ夏になったらサーフィンに付き合ってくれる?と彼が答えた。それに一つ頷いたところで欠伸が出たから、彼が小さく笑って、もう寝ようか、と私の髪を梳いた。頭を触られると、眠たくなってくる。そのやさしい手に擦り寄るように頭を寄せた。
火の消えた部屋の中で、手探りで彼の服を掴む。そのまま顔を寄せると、彼の匂いがする。彼にくっついて丸まりながら、ありがとう、と呟くと、こちらこそありがとう、と返されて、やっぱり彼には敵わないなあと思った。
その、穏やかな声が好き。私を撫でるあたたかい手も、やさしい眼差しも、彼の作る美味しいご飯も、全部好き。私の王子様みたいな彼のことが、誰よりも好きだった。
「だいすき」
そう呟いて目を閉じると、微かに彼の鼓動が聞こえる。それから、おやすみ、愛してるよ、と彼が言って、私のつむじに唇を落とした。それだけで、今日はだめな日だったけど、そんなこともなかったな、と思える。ご飯も作ってもらえて、髪も乾かしてもらえて、彼のお気に入りのキャンドルも焚いてもらえて、愛してるって言ってもらえて、今日はいい日だった。ありがとうと言っても足りないくらいには感謝してるし、愛してるという言葉だけじゃ伝え足りないから、私は軽く伸びをして、彼にキスをした。好きだという気持ちが、破裂するくらいに伝わればいいと思ってキスをした。夢の中でも会えるといいな、と思ってキスをした。
