ウェブ再録「春眠」

 夜中に、最悪の気持ちで目が覚めた。思い出されるのは、さっきまで見ていた夢の内容。吐き気がしそうなくらいに気持ちが悪くて、不安感を煽るような、じっとりと背中に汗をかくような、嫌な夢。ああ最悪だ、と思いながら、スマホを見ると、深夜二時半過ぎ。変な時間に起きてしまった、と思いながら、水を飲もうとゆっくりと起き上がった。
 隣で眠る彼は、私に背を向けて寝ている。静かに上下する背中を見て、彼が生きていることを知った。その事実で、少しだけ安心する。彼を起こさないように、冷たいフローリングをぺたぺたと歩いて、そっと寝室から出た。
 深夜の家の中は、シンと静まり返っていて、それが今は嫌だった。裸足のまんまの足先から、じわじわと体温が奪われて、冷たい。時計の針の音が、自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえた。
 コンロの上の電気だけを点けて、冷たい水を一口飲む。コップの中の水を飲み干して、なぜか、涙が出た。これからどうやって生きていけば良いんだろう、みたいな、漠然とした大きな不安が急に押し寄せてきて、それが涙になった。どうして、なんで、みたいな、取り留めのない感情が、涙になって落ちていった。ずるずるとしゃがみこんで、自分を守るように小さくなる。膝に顔を埋めて、腕に爪を立てると、余計に惨めになった。寒い。誰かに助けてほしいのに、声を出すのが怖くて、下唇を噛んだ。叫び出したいような、全部を壊してしまいたいような、そんな気持ち。耳を押さえた手が、髪を掴んで、頭皮に爪を立てた。痛いとか、そういう感覚はなくて、ただ、この荒波のような感情を抑えるので必死だった。
「どうしたの?」
 その声にはっとして顔を上げると、目を擦りながら柔らかに微笑む彼の姿があった。泣いてんじゃん、と笑って、私の前にしゃがみこんだ彼は、綺麗な指先で私の目元を撫でた。その手があたたかくて、余計に涙が出る。今すぐその手に縋り付いてしまいたいほど、彼はやさしかった。
「怖い夢でも見た?」
 そう言って穏やかに微笑む辰哉くんに、泣きながら必死で頷いた。彼は私の頭をやさしく撫でて、よしよしと呟く。彼の魔法みたいなその言葉に、びっくりするくらい安心する自分がいた。
「よしよし、こわかったね」
 しゃがみこむ私を引き寄せて、彼は私を抱き締める。彼の匂いが私を包んで、また涙が出る。やわらかく頭を撫でられると、身体の力が抜けた。
 彼から僅かに香る、甘いバニラみたいな匂いが好きだ。香水か、柔軟剤か、はたまた彼の匂いなのかは知らないけれど、私はそのやわらかい匂いが好きだった。彼の匂いは私を安心させる力があるんだな、とぼんやり思って、彼のパジャマに顔を埋める。彼のパジャマに涙を落としながら、私は涙が止まるまで彼にしがみついていた。
「どお?落ち着いた?」
 瞼が重くなって、しゃがみっぱなしの足がちょっと痺れてきたころ、彼はそう呟いて、私の背中を撫でた。私はうんと小さく返事をして、鼻を啜る。涙は止まったけれど、今度は腫れているはずの顔を見られたくなくて、彼のパジャマに頬ずりした。なに、今度は甘えたなの?と彼が揶揄うように笑うから、そうなの、と笑いながら呟いた。しょうがないなあ、と言った彼は、顔見ないからベッド行こう、と私の背中をとんとんと叩く。私はその言葉で、彼は何でも分かってしまうんだな、と苦笑した。
 彼は、どこまでもやさしいから、私は時々そのやさしさに甘えすぎてしまう。だけど彼はそんな私も、やさしく包んでくれる。綺麗な指で頬を撫でて、壊れ物みたいにやさしく、甘いバニラの匂いで包んでくれる。私はふと、きっと彼がいないと生きていけないようになっている、と思った。
 寝顔を愛しいと思える人を愛しなさい、とどこかで聞いた気がするけれど、私は彼の寝相も愛したいかな、と思う。なかなかダイナミックな寝相を披露してくれる彼の、全てを愛したいと思った。寝相が悪くても、寝言を言っても、いびきをかいてたって愛したいと思うよ、私は。春の木漏れ日みたいに私をあたたかく包んでくれる彼を、一生かけて愛したいと思った。
「辰哉くんの腕貸してあげる」
 特別よ?なんて笑って、ベッドに転がって腕を伸ばす彼は、随分眠そうな目をしている。私のために起きてくれたのかな、と今更思うと、胸の奥が少し収縮した気がした。私も同じようにベッドに転がって、彼の腕にそっと頭を乗せる。それから彼にくっついて身体を丸めると、すぐに温かくなった。
 間接照明の小さな明かりが、眠気を誘う。ふわふわのお布団の感触と、彼の心臓の音と、彼の匂い。それが混じり合って、私を眠くさせた。彼の胸に擦り寄ると、泣けるくらいあたたかい。息だけで笑った彼が、やさしく私を抱きしめる。私はそっと瞼を閉じて、好きだよ、と思った。
 彼の確かな心音に、縋り付くように頭を寄せる。じっとそれを聞いていると、私の身体に回された彼の腕から力が抜けた。ゆっくり目を開けて、彼を見上げると、子供みたいに穏やかな顔をして眠っていた。その寝顔が、愛おしいと思う。そう思ったから、彼の薄く開いた唇に、触れるだけのキスをする。鼻の先がくっつきそうなくらい近くで彼を見つめる。睫毛が長いんだな、とか、肌が綺麗だな、とか、小さいほくろがあるな、とか、そんなことを思って、もう一度触れるだけのキスをした。
 身じろぎをして、また彼の胸に顔を埋める。どうしようもなく好きだという気持ちが溢れて、たまらず息を吐き出した。それから息を吸うと、肺いっぱいに彼の匂いが広がった。彼の匂いと、体温に包まれて、今度は、いい夢が見られそうな気がする、と思って目を閉じた。
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