ウェブ再録「クレイジー・イン・ラブ」

 愛して欲しいという感情が、不意に溢れ出しそうになって、思わず爪を噛んだ。かち、という感触が歯に伝わると、少しはマシになる気がしたけれど、そんなものは一瞬でなくなる。あっという間に、泣き出したくなるような寂しさが心を支配して、おれは寒くもないのに身体を縮こまらせた。
 彼女に会えない日は、寂しくて仕方がなくなる。自分が自分じゃなくなるような、足の先から崩れていくような、そんな感覚がして、耐えられなくなる。誰かに縋ってしまおうかといけないことを考えるけれど、彼女の形をした心の穴は、彼女でしか埋められないから、多分そんなことをしても無駄なんだろうと思う。一人の部屋で身体を丸めていても、そのうち苦しくなって泣き出してしまう。早く会いにきてよ、と思っても、無理なものは無理。次会えるまで長いなあ、と思って、勝手に溢れる涙を拭いながら、寝室の戸棚の奥に手を突っ込んだ。
 引っ張り出したのは、オレンジ色のアルバム。それをそっと開くと、彼女の笑顔が飛び込んでくる。アイスを持って笑ってる写真、友達とはしゃいでる写真、服を選んでる写真、そのどれもが可愛くて、綺麗だと思う。そう思うんだけれど、彼女の瞳とは視線が合わない。おれだけに笑ってよ、とつい言いそうになって、下唇を噛む。途端に虚しくなって、アルバムを閉じて、戸棚の奥に仕舞い込んだ。
「会いたい、」
 そう呟いてみると、もうどうしようもなくなって、携帯を取り出した。メッセージアプリの一番上に表示された彼女の名前を見て、迷わず通話ボタンをタップした。一回、二回、とコール音が鳴る。その音を聞いて、おれは胸の辺りのシャツを握りしめた。
 電話のコール音が嫌いだ。どこにも繋がらないまま、酸素のない宇宙に放たれた気持ちになるから。息ができなくなって、苦しくなる。祈るように携帯を握りしめてみても、息苦しさは変わらなかった。今は夜中の十二時半。これで出なかったら諦めようと思って、目を瞑った。
 コール音がぷつっと切れて、彼女の柔らかい声が耳に響いた。うそ、出てくれた。驚いて目を開けて、彼女の名前を呼ぶ。どうしたの?と笑った彼女の声に安心して、涙が出た。だいすき、と涙混じりに呟いた。少しでもおれの気持ちが伝わればいいなと思って、呟いた。
「私も、だいすき」
 彼女のその言葉を聞いて、頭の中で何かが弾けるくらいに嬉しくなる。すき、だいすき、と壊れたみたいに口にすると、パチンと弾けた何かが溶け出して、涙になった。ぼろぼろと涙を溢しながら、好きだと言い続けるおれを、ただ受け止めてくれる彼女はやさしい。夜中に電話をしてしまっても怒らないし、好きだと言っても返してくれる。彼女になら、殺されてもいいと思うくらいに、幸せだと思った。
 死にたいという感情が、ある訳ではなかった。痛いのは嫌いだし、一人ぼっちになるのも嫌だし、何より怖いと思うから。でも、彼女が一緒にいてくれるなら、死んでもいいと思える。彼女に殺されるなら、それが一番良い死に方だと思えた。
 だから、死のうと思った。一人じゃ何もできないおれは、彼女がいないとまともに生きていくことも、息をすることもできないと思うから、今、彼女と死のうと思った。でも、彼女はやさしいから、おれを殺すことはしないと思う。首を締めたり、刺したりなんて、してくれる訳ないと思う。だから、一緒に死ぬことにした。次に会うのは明日の夕方。その時に、彼女と一緒に死ぬ。少し怖いけれど、彼女の手を握っていれば大丈夫な気がした。


「おれと一緒に死んでくれへん?」
 そう震える声で、彼女に尋ねる。ここで断られたらもう一生立ち直れないかも、と思うくらいには必死で、その言葉を彼女に向けて放った。隣に座っている彼女は、ゆっくりとおれの方を見て、一つ瞬きをした。彼女が返事をするまでの時間が、果てしなく長く感じる。手に汗が滲んで、気持ち悪い。彼女が口を開くまで、おれは瞬きをするのを忘れるくらいに、身体を固まらせていた。
「いいよ」
 一緒に死のうか、と彼女がいつものように微笑む。目を細めて、やさしく微笑んだ彼女がおれを見るから、一瞬分からなくなって、え、と呟いた。え、ほんまに一緒に死んでくれるん、嘘じゃないやんなあ、え、ほんまにええの。ぐるぐるとそんなことを頭の中で喋る。本当に、いいよと言ってくれると思わなかったから、つい間抜けな顔をしてしまう。
「あ、ありがとう」
 今日でいいの?と彼女が言う。うん、と頷くと、彼女がおれの方に身体を寄せた。大きめのソファの上で身体がくっつくと、一気におれの心拍数が上がる。彼女の綺麗な唇が、薄らと弧を描くのを、至近距離で眺めていた。
 肩を押されて、ソファの座面に身体が沈む。彼女が上に乗っかると、まるでいけないことをしているみたいで、恥ずかしくなった。彼女のさらさらの髪が、おれの頬に当たってくすぐったい。白くて細い指が、おれの首筋に触れると、息が上がる。そのまま手を首に巻きつけた彼女は、体重をか開けるように前のめりになった。
 ぐうっと喉が圧迫される感覚がする。息ができなくて、顔が熱くなる。変な音が喉の奥で鳴って、ひゅうひゅうと空気の抜けるみたいな音が聞こえる。苦しいと思って、反射的に腕をばたつかせたけれど、すぐにソファの座面に爪を立てて押さえた。指先が痺れる。頭がじんじんして、心臓が耳の横にあるみたいにうるさい。視界が明滅して、きらきら光った。
 ふわりと浮くような感覚がある。どこかで苦しそうな音がすると思って、ああおれか、と気付いた。身体に力が入らない。そもそもの身体の感覚がなくて、焦点が合わない。暗いのか眩しいのかよく分からなくなって、多分死ぬんだろうなあと思った。すき、と口を動かしたつもりで、微笑んでみる。彼女にどう見えていたかは分からないけれど、彼女が笑った気がしたから、良いかと思った。僅かに、すぐそっちに行くから、と言った彼女の声が、最後に聞こえた。それを聞いて、一生だいすきだなあ、と思って、意識を飛ばした。また向こうで会おうね、結婚しようね、と思って、意識を飛ばした。
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