ウェブ再録「クレイジー・イン・ラブ」

 西陽の射す部屋の隅っこで、おれはただ突っ立っていた。遠くで烏が鳴いて、五時の鐘が聞こえる。身体の感覚があまりない。頭の中だけがぐるぐると忙しなく動いている。万策尽きる、立ち往生、八方塞がり、そんな言葉が頭の中に浮かんでは消えるけれど、イマイチしっくりくるものが見当たらない。袋の鼠、万事休す、いや、強いて言えば、詰んだ、が正しいのかもしれない。とどのつまり、おれはこの状況をどうにかする術を持ち合わせていなかった。
 六畳一間、彼女の死体、それとおれ。畳の上に力無く投げ出された白い腕は、ぴくりとも動かない。重そうなガラスの灰皿が、彼女の横に転がっている。生気のない瞳はこちらを向いていて、おれはその視線に射抜かれたように目が逸らせない。身体も、動かない。息は、していいんだっけか。良く分からなかった。窓の外で、子供がはしゃぐ声がして、それで漸く指先が反射みたいに動いた。思わず、息を吐き出す。それから短く息を吸うと、彼女の香水と、鉄臭い血の匂いがした。
 吐き気が、する。目の前にいるのは確かに彼女の形をしているはずなのに、息をしてない、動かない、たったそれだけで、別のものになった気がして、恐ろしい。少しも動かない彼女の瞳が、どうしようもなく怖かった。彼女の死体が、今にもどろりと溶け出して別の生き物になってしまいそうな、化け物みたいになってしまうような、そんな不安感みたいなものが、おれの中で渦巻いて、おれを焦らせる。ああどうしよう、と恐怖やら何やらで動かない身体で、視線だけを彷徨わせた。
 きらりと光るものが目の端に映った気がして、ついそれに視線を向ける。おれを見つめる彼女の瞳の近くにそれはあった。夕陽に反射して光ったのは、ピアスだった。偽物のダイヤモンドが揺れるデザインのそれは、見覚えがある。彼女の髪の隙間から覗くそのピアスは、おれが彼女にあげたものだった。
 それで、おれは身体が動いた。投げ出された白い手を取って、頬を寄せる。何の音もしないその手は、正しく彼女のものだった。目の前にいるのは、何者でもなく、彼女なんだということが、今はっきりと分かった。そして、彼女なんだと自覚した瞬間、不意に涙が溢れた。
 どうして、おれを置いて死んでしまったの。そう思うと、涙が止まらなくて、彼女のぬるい手に縋り付くように背中を丸めた。悲しさ、みたいな、怒り、みたいな、喪失感、みたいな、無力感、みたいな。そういうものの端っこを切り取って煮詰めたような感情が、涙になって溶け出す。嗚咽混じりに彼女の名前を呼ぶと、彼女の身体に反響して、おれに戻ってきた。おれの涙が、彼女の手を伝って落ちた。
 背中を丸めたまま僅かに顔を上げて、彼女の顔を見ていると、彼女を挟んだ反対側に、灰皿が転がっていたことを思い出す。ガラス製の重いその灰皿には、彼女の血がこびりついている。彼女の命を奪ったであろう灰皿。手を伸ばしてそれを掴むと、あ、と思い出される記憶が一つだけあった。ああ、そうか、そうだった。おれが殺したんだった
 ちらりと彼女の瞳を見る。感情はない。よく見ると彼女の頬に涙の跡があったから、そういえば喧嘩していた気もする。いや、彼女がいなくなろうとしたんだっけ。でもまあ、いいか。おれだけのものになったんだし、もう何だっていいか。
「一緒にいようね」
 ね、とそう言って、彼女の顔を覗き込んで笑うと、ビー玉みたいな瞳におれが映った。力の無い彼女の手を握って、ぶらぶら揺らす。放り出された生白い素足、散らばった綺麗な髪、畳の上にこびりついた赤い血、少し欠けた小さな爪、それらを見つめて、ああ、好きだなあ、と思った。好きだなあ、綺麗だなあ、と思って、彼女の薄い唇を、指の先でなぞった。
 彼女がここで死んでしまったのは、ちょっと予想外だったけれど、誰かに取られる前で良かったと思う。誰かに彼女を殺されたりなんかしたら、おれ、おかしくなっちゃうかも、あはは。
 じわじわと闇に飲まれるように、部屋が暗くなっていく。あんなに大きかった夕焼けが、烏と一緒にいなくなっていく。立ち上がって蛍光灯の紐を引っ張ると、一瞬間を置いて、白い光が彼女を照らした。丁度蛍光灯の下にいる彼女は、まるで舞台の上にいるみたい。素敵だなあ、と思って、目を細めた。
「結婚、しようね」
 箪笥から小さい箱を取り出して、そっと蓋を開ける。小さくて細い銀の指輪に、偽物なんかじゃないダイヤモンドが埋め込まれている。それを取り出して、彼女の左手の薬指に通す。ぴったりと嵌ったそれは、おれと彼女が結婚した証。幸せだね、なんて微笑んで、指を絡める。そのまま彼女の唇にキスを落とすと、おれの頭の中で鐘の音が鳴り響いた気がした。
 六畳一間、彼女の死体、それとおれ。投げ出された白い腕は少しも動いたりなんかしないけど、それでもいいよね。死んでても彼女は彼女で、おれは彼女の恋人。おれに殺されちゃった可哀想でかわいいおれの恋人。これから一生おれと暮らす、綺麗な恋人。ずっと、おれが死ぬまで面倒見てあげるからね、と彼女の髪を撫でて、微笑む。嬉しいね、死ぬまで一緒だね。彼女の左手の薬指に嵌った指輪を見て、たまらなく嬉しくなった。口を押さえても、押さえきれない笑いが、指の隙間から溢れる。幸せすぎておかしくなっちゃいそう、なんてね。
 好きだよ。どこにも行けないまんま、二人で奈落の底まで落ちていこうね。一生愛してあげるから、おれのことも一生愛してね。呪って、殺してもいいから、愛してね。大好きだよ、愛してるよ、いつか、地獄で会おうね。そのときまで、またね。
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