ウェブ再録「クレイジー・イン・ラブ」
冬の夜は、暗い。街灯の明かりだけが頼りになる夜道を、早足で通り抜ける十九時半。吹き抜ける冷たい風で、残業なんてするもんじゃない、とそう思った。
最寄り駅から、徒歩十分と少し。私の住むアパートは、細い路地の突き当たりにあった。引っ越せと彼は言う。暗いし、人通りはないし、何かあったらどうするの、と彼は言った。だけど、残念なことに、今の私に引っ越せるほどのお金はあまりない。給料だって安いし、仕事が忙しくて時間がない。そう言うと、彼は、じゃあおれん家住めばいいじゃん、と口を尖らせる。その言葉に、私はいつも曖昧な返事をしていた。
同棲を考えない訳ではなかった。付き合って長いし、お互いに良い歳だし、何よりも彼のことが好きだし。ただ、何と言うか、私の生活を見て幻滅されたら嫌だなあという、不安みたいなものが頭を過ってしまう。彼はやさしいから、そんなことないよ、と言ってくれると思うけれど、やっぱり好きな人の前では可愛くありたい。だから、同棲はもう少し先になると思っている。
吐く息がうっすら白くなって、冷たい風に首を縮こまらせながら歩いていると、ふと、街灯の向こうに誰かが立っていることに気付いた。アパートに繋がる細い路地に、誰かが立っている。思わず、足を止めた。不審者、通り魔、強盗、不穏な単語が頭を過って、慌てて物陰に隠れる。それでも恐る恐る物陰から顔を出すと、見たことのある服装と体格で、彼だと分かった。少しの安堵と、少しの疑問。なんでいるんだろう、と呑気に考えながら、彼に近付いた。
「ひーくん」
小走りで近付きながら彼の愛称を呼ぶと、俯いていた彼がゆっくりと顔を上げた。そこに、いつもの笑顔はない。冷たいほどの、無表情だった。思わず固まった私に、彼はゆっくりと歩いてきて、私の腕を掴む。普段優しい彼からは想像出来ないくらいの強い力で腕を掴まれて、ちょっと痛い。ひーくん、と言おうとした声は、彼に腕を引かれたことによって止まる。そこで漸く、彼が怒っていることに気付いて、怖くなった。ひーくん、と彼の名前を呼ぼうとして、遮られる。黙って、と冷たく放たれた声は、まるで彼じゃないみたいだった。
腕を引かれて彼の車の後部座席に押し込まれる。すぐに彼が車を出して、シンとした車内に低いエンジン音だけが響く。彼は何も言わなかった。待ってよ、とも、痛いよ、とも言えず、車に乗せられ連れて来られたのは、彼の家。駐車場に着いた途端、後部座席で固まっていた私を、彼は軽々と抱き上げて、黙ったまま部屋の鍵を開けた。体格の良い彼に抱え上げられると、反抗もなにも出来ない。いつだって私をやさしく触る彼はいない。持っている鞄を抱きしめていることしかできなかった。
ガチャンと重い扉が閉まる音と、玄関の暗さで、また怖くなって身体を縮こまらせる。早足で廊下を歩く彼はやっぱり何も言わない。何か言ってほしいと思うけれど、怖くて何も言えない。どこかの扉を明ける音がやけに大きく響いて、思わず肩が跳ねた。
彼にいきなり放り投げられて、背中の下でスプリングが悲鳴を上げる。持っていた鞄は床に落とされて、中身が散乱した。放り投げられたベッドの上で後退ると、彼の大きな身体に覆い被さられて、強く抱き締められる。怖くて身を捩ると、その分腕の力が強くなった。暗い彼の部屋が、今だけは恐ろしい。そんなことはないと思っていても、殺されるんじゃないかと思ってしまう。震える手で彼の服を掴んで、形ばかりの抵抗をした。
「心配、させないで」
突然、泣きそうな弱々しい声が耳元で聞こえた。それに驚いて、抵抗を止める。彼の服を掴んだまま、小さい声でひーくん、と愛称を呼ぶと、小さく鼻を啜る音がした。
「帰り遅いし、携帯繋がんないし、」
本当に心配してたんだよ、と泣きそうな声で彼が言うから、申し訳なさでいっぱいになる。さっきまでの怖さが吹っ飛んで、力が抜けた。
「ご、ごめん、充電切れ…」
携帯は、鞄の中で死んでいる。最近の異様な充電の減りに耐えきれず、残りゼロパーセントで真っ暗な画面を表示していた。そう言うと、彼は長く息を吐いた。
「…そんなことだろうと思ったけど」
長いため息を吐いてそう言った彼は、腕の力を弱めて、私を抱き起こした。やっと見れた彼の表情は、やっぱり泣きそう。もう一度、ごめん、と呟くと、おれの方こそ痛くしてごめんね、と彼は私の手首を撫でた。
「でも、心配させないでよ」
お願いだから、と彼は言う。本当に出してあげられなくなるから、お願いだから心配させないで、と彼は言う。本当に苦しそうな顔をしてそう言うから、私はまた、ごめん、と言って彼をやさしく抱き締めた。すると痛いくらいの力で強く引き寄せられて、もうどこにも行かないでよ、と小さく震える声がした。私は、ごめんね、と言うしかなかった。
しばらくして、ゆるゆると腕を離した彼は、私の顔を覗き込んで、ねえ、お願いなんだけど、と瞬きをした。暗がりで見る彼の瞳に私の姿がわずかに映る。眉間にシワを寄せた彼は、まだ苦しそうだったから、いつもみたいに頭を撫でたくなった。
「明日、会社休める?休んでくれる?」
そう聞く彼が切羽詰まった声を出すから、断れるような雰囲気じゃなくて、思わず頷く。ありがとう、と言った彼の表情は俯いていて見えない。足首を撫でられるのが、少しだけ気持ち悪くて、身を捩る。でも逃げるのを許さないみたいに、強く握られて、怖い。ひーくん、と彼の名前を呼んで、顔を見ようとした瞬間、足首に激痛が走った。
思わず叫び出しそうになって、慌てて自分の手で口を押さえた。きっと骨は折れていないけれど、今すぐには立ち上がれない。ベッドに蹲って唸っていると、なぜか彼の体温が離れていった。待って、と言おうとして顔を上げると、彼が泣きそうな顔をして私を見下ろしている。手には、棒のような何か。頭の後ろが、背中が、お腹が、一気に冷える。頭ががんがん鳴って、逃げなきゃ、と思うのに、彼を見つめたまま少しも動けない。息が上がる私をやさしく片手で抱き寄せた彼は、ごめんね、と呟いて、手に持ったものを私の足目掛けて振り下ろした。
さっきとは比にならない痛みに耐えかねて、目の前の彼にしがみつく。涙がぼろぼろと溢れて、彼の服を濡らす。私を傷付けたのは彼なのに、彼以外に頼るものがなくて、必死に彼にしがみついた。
ごめんね、と何度も呟いて、私を抱き止める彼は、私と同じように泣いている。それを見て、なぜか彼と一緒にいてあげなきゃ、と思った。私がいなきゃ、となぜかそんなことを思った。そして、痛みでろくに働かない頭で、きっと、彼からは逃げられないんだろうなと思った。
最寄り駅から、徒歩十分と少し。私の住むアパートは、細い路地の突き当たりにあった。引っ越せと彼は言う。暗いし、人通りはないし、何かあったらどうするの、と彼は言った。だけど、残念なことに、今の私に引っ越せるほどのお金はあまりない。給料だって安いし、仕事が忙しくて時間がない。そう言うと、彼は、じゃあおれん家住めばいいじゃん、と口を尖らせる。その言葉に、私はいつも曖昧な返事をしていた。
同棲を考えない訳ではなかった。付き合って長いし、お互いに良い歳だし、何よりも彼のことが好きだし。ただ、何と言うか、私の生活を見て幻滅されたら嫌だなあという、不安みたいなものが頭を過ってしまう。彼はやさしいから、そんなことないよ、と言ってくれると思うけれど、やっぱり好きな人の前では可愛くありたい。だから、同棲はもう少し先になると思っている。
吐く息がうっすら白くなって、冷たい風に首を縮こまらせながら歩いていると、ふと、街灯の向こうに誰かが立っていることに気付いた。アパートに繋がる細い路地に、誰かが立っている。思わず、足を止めた。不審者、通り魔、強盗、不穏な単語が頭を過って、慌てて物陰に隠れる。それでも恐る恐る物陰から顔を出すと、見たことのある服装と体格で、彼だと分かった。少しの安堵と、少しの疑問。なんでいるんだろう、と呑気に考えながら、彼に近付いた。
「ひーくん」
小走りで近付きながら彼の愛称を呼ぶと、俯いていた彼がゆっくりと顔を上げた。そこに、いつもの笑顔はない。冷たいほどの、無表情だった。思わず固まった私に、彼はゆっくりと歩いてきて、私の腕を掴む。普段優しい彼からは想像出来ないくらいの強い力で腕を掴まれて、ちょっと痛い。ひーくん、と言おうとした声は、彼に腕を引かれたことによって止まる。そこで漸く、彼が怒っていることに気付いて、怖くなった。ひーくん、と彼の名前を呼ぼうとして、遮られる。黙って、と冷たく放たれた声は、まるで彼じゃないみたいだった。
腕を引かれて彼の車の後部座席に押し込まれる。すぐに彼が車を出して、シンとした車内に低いエンジン音だけが響く。彼は何も言わなかった。待ってよ、とも、痛いよ、とも言えず、車に乗せられ連れて来られたのは、彼の家。駐車場に着いた途端、後部座席で固まっていた私を、彼は軽々と抱き上げて、黙ったまま部屋の鍵を開けた。体格の良い彼に抱え上げられると、反抗もなにも出来ない。いつだって私をやさしく触る彼はいない。持っている鞄を抱きしめていることしかできなかった。
ガチャンと重い扉が閉まる音と、玄関の暗さで、また怖くなって身体を縮こまらせる。早足で廊下を歩く彼はやっぱり何も言わない。何か言ってほしいと思うけれど、怖くて何も言えない。どこかの扉を明ける音がやけに大きく響いて、思わず肩が跳ねた。
彼にいきなり放り投げられて、背中の下でスプリングが悲鳴を上げる。持っていた鞄は床に落とされて、中身が散乱した。放り投げられたベッドの上で後退ると、彼の大きな身体に覆い被さられて、強く抱き締められる。怖くて身を捩ると、その分腕の力が強くなった。暗い彼の部屋が、今だけは恐ろしい。そんなことはないと思っていても、殺されるんじゃないかと思ってしまう。震える手で彼の服を掴んで、形ばかりの抵抗をした。
「心配、させないで」
突然、泣きそうな弱々しい声が耳元で聞こえた。それに驚いて、抵抗を止める。彼の服を掴んだまま、小さい声でひーくん、と愛称を呼ぶと、小さく鼻を啜る音がした。
「帰り遅いし、携帯繋がんないし、」
本当に心配してたんだよ、と泣きそうな声で彼が言うから、申し訳なさでいっぱいになる。さっきまでの怖さが吹っ飛んで、力が抜けた。
「ご、ごめん、充電切れ…」
携帯は、鞄の中で死んでいる。最近の異様な充電の減りに耐えきれず、残りゼロパーセントで真っ暗な画面を表示していた。そう言うと、彼は長く息を吐いた。
「…そんなことだろうと思ったけど」
長いため息を吐いてそう言った彼は、腕の力を弱めて、私を抱き起こした。やっと見れた彼の表情は、やっぱり泣きそう。もう一度、ごめん、と呟くと、おれの方こそ痛くしてごめんね、と彼は私の手首を撫でた。
「でも、心配させないでよ」
お願いだから、と彼は言う。本当に出してあげられなくなるから、お願いだから心配させないで、と彼は言う。本当に苦しそうな顔をしてそう言うから、私はまた、ごめん、と言って彼をやさしく抱き締めた。すると痛いくらいの力で強く引き寄せられて、もうどこにも行かないでよ、と小さく震える声がした。私は、ごめんね、と言うしかなかった。
しばらくして、ゆるゆると腕を離した彼は、私の顔を覗き込んで、ねえ、お願いなんだけど、と瞬きをした。暗がりで見る彼の瞳に私の姿がわずかに映る。眉間にシワを寄せた彼は、まだ苦しそうだったから、いつもみたいに頭を撫でたくなった。
「明日、会社休める?休んでくれる?」
そう聞く彼が切羽詰まった声を出すから、断れるような雰囲気じゃなくて、思わず頷く。ありがとう、と言った彼の表情は俯いていて見えない。足首を撫でられるのが、少しだけ気持ち悪くて、身を捩る。でも逃げるのを許さないみたいに、強く握られて、怖い。ひーくん、と彼の名前を呼んで、顔を見ようとした瞬間、足首に激痛が走った。
思わず叫び出しそうになって、慌てて自分の手で口を押さえた。きっと骨は折れていないけれど、今すぐには立ち上がれない。ベッドに蹲って唸っていると、なぜか彼の体温が離れていった。待って、と言おうとして顔を上げると、彼が泣きそうな顔をして私を見下ろしている。手には、棒のような何か。頭の後ろが、背中が、お腹が、一気に冷える。頭ががんがん鳴って、逃げなきゃ、と思うのに、彼を見つめたまま少しも動けない。息が上がる私をやさしく片手で抱き寄せた彼は、ごめんね、と呟いて、手に持ったものを私の足目掛けて振り下ろした。
さっきとは比にならない痛みに耐えかねて、目の前の彼にしがみつく。涙がぼろぼろと溢れて、彼の服を濡らす。私を傷付けたのは彼なのに、彼以外に頼るものがなくて、必死に彼にしがみついた。
ごめんね、と何度も呟いて、私を抱き止める彼は、私と同じように泣いている。それを見て、なぜか彼と一緒にいてあげなきゃ、と思った。私がいなきゃ、となぜかそんなことを思った。そして、痛みでろくに働かない頭で、きっと、彼からは逃げられないんだろうなと思った。
