ウェブ再録「クレイジー・イン・ラブ」

 つい頭にきて、とか、カッとなって、とか、そういう言葉は言い訳でしかないと思っていたんだけれど、今の私がこの状況の理由を作るなら、思わず腹が立ったから、という言葉しか思い付かない。今ならその薄っぺらい言い訳を言っていた人の気持ちも分かるなあ、と現実味のない頭で思った。
 元彼を殺した。いきなり家に押しかけてきて、適当なことを並べて上がり込んで、私の駄目だったところに散々文句を言った挙げ句、どんな理由か知りたくもないけれど、ヨリを戻そうとか言ってきたから、思わず腹が立って、目の前にあった安いワインの瓶で殴った。相当な衝撃と衝突音が響いたけれど、私は怒りのままもう一度腕を振りかぶった。音を立てて顔面から机に突っ伏した元彼の頭を目掛けて何度も瓶を振り下ろすと、そのうち安物の薄いガラスにヒビが入って、ついに割れた。バシャン、と盛大に飛び散ったガラスは、私の腕や顔に引っ掻き傷を作る。元彼の頭の上で割れたワインは、元彼の頭から流れる血と混ざって、机の上に広がる。その様子はまるでワインに溺れて死んだみたいで呆れるほど滑稽だった。
 上がった息を落ち着けるように深呼吸をする。一回思考を逸らすように天井を見て、それからゆっくりと視線を下ろす。買ったばかりのダイニングテーブルの惨状を見て、また腹が立った。クソ、私の部屋汚しやがって、と舌打ちをして、先が無くなったワインの瓶をもう一度叩きつけて、放り投げる。床にぶつかって騒がしい音を立てた瓶の半分は、ごろごろ転がって元彼の足元で止まった。
 私の呼吸音と、早鐘みたいな鼓動と、机から滴り落ちるワインの音だけが部屋に響く。目の前の惨状をしばらく見つめたあと、遠くで救急車が走り抜ける音がして、沸騰した怒りで騒がしかった頭の中が漸く静かになった。
 殺してしまったなあ、と思うものの、不思議と焦りはなかった。どうせこんな奴いつかは死ぬはずだったんだから、それが今だっただけ、ただそれだけ。そんな御託を並べて、自分の行動を正当化する。顔に飛び散ったワインの雫を袖で拭って、冷ややかな目で死体を見下ろした。プク、と泡だったワインが小さく弾ける。どうやって掃除しようかな、と思ったところで、私の携帯が着信を知らせた。机の端に追いやられていた携帯は、軽快な着信音を鳴らしながら震える。明るくなった画面に表示されているのは、恋人の名前。涼太と表示された画面を見て、つい通話ボタンをタップした。携帯を耳に当てて、もしもし、と呟くと、今大丈夫?と電波越しに彼の声が聞こえたから、うん、と頷く。良かった、と言った彼の声は、穏やかだった。
「今近くにいるんだけど、そっち行ってもいい?」
 そう言われたから、ううんと曖昧な返事をする。飛び散ったガラスの破片と机に広がるワインを見て、今散らかってるからなあ、と思う。どうしようかなあ、と考えて、でも涼太なら何とかしてくれるかなあ、と思って、良いよ、と返した。じゃあ十分後くらいに行くね、という彼の言葉を聞いて、電話を切った。
 何とかしてもらおうという気は、実際のところそこまでない。泣きつくつもりもないし、罪をなすり付けるつもりもない。ただ、彼の顔を見たいというのが本音だった。それに彼だったら、この惨状を見ても驚かないんじゃないか、と思ったから、了承の返事をした訳だった。
 立ち上がった拍子に倒れていた椅子を起こして座っていると、十分もしないうちに、ピンポンとインターフォンがなって、来客を知らせた。モニターを確認して、玄関の扉を開けると、遅くにごめんね、と彼が微笑んだ。
「君に会いたくて」
 そう言ってはにかむ彼は、走ってきたみたいに顔が薄っすら上気している。その言葉で嬉しくなって、彼を部屋に招き入れて、リビングの扉を開ける。それで元彼がいたことを思い出して、ナーバスになった。彼が、あ、と小さく呟く。それから少し考え込むような仕草をして、私の手に触れた。
「片付けてもいい?」
 僅かに目を細めて言った彼の声に、嫌なところはない。そうするのが当たり前かのように腕まくりをした彼は、迷わず死体に近付いた。手伝おうと思って駆け寄ると、危ないからあっちにいてね、とやんわり嗜められる。勝手知ったるように、戸棚からゴミ袋の予備を取り出した彼は、半分しかない瓶を拾って入れた。大きい破片を拾って捨てるのを繰り返して、残りは元彼だけになったところで、彼は口を開いた。
「寝室に行っててくれるかな」
 私を見ずに言った彼の表情は分からないけれど、真っ直ぐなその声に逆らうことを知らない私は、寝室に入って扉を閉めた。
 彼は、私をお姫様か何かだと思っているんじゃないか、と時々考える。何でもしてくれようとするし、私が気付かないところまで気を遣ってくれるから。気品の溢れる彼は、確かに王子様みたいだけれど、悲しいことに私はお姫様なんかじゃなかった。でも、いつだって私に優しくて、何より大切だと言ってくれる彼は、今まで付き合ってきた誰よりも素敵な人だと思う。だから、お姫様にはなれなくても、どんなことがあっても、彼のことを好きでいようと思った。
 寝室の扉がノックされた音で、はっと目が覚める。知らないうちにうとうといていたらしく、ベッドにもたれた状態で座っていた。慌てて寝室の扉を開けると、リビングは何もなかったかのように綺麗になっていて、少し驚く。見慣れない保冷バッグが置いてある以外は、いつも通りのリビングだった。
「ご飯作ったから一緒に食べよう」
 お腹空いたよね、と続けた彼の手は冷たい。キッチンに入って行った彼の後を追うと、何品か料理が出来上がっていた。ビーフシチューと、ソテー、あとパンがあったから焼いたよ、と言った彼は、手際良くそれらを盛り付けて、リビングに運んだ。綺麗に並べられた料理は、どれも美味しそうだけれど、ふと気になった。元彼はどこに行ったんだろう、と考えて、料理を見る。そして、ああなるほど、と思った私は、向かいに座った彼を見た。彼は少し微笑んで、じゃあ食べようか、と手を合わせた。私もそれに倣って手を合わせる。いただきます、と言う声が、静かなリビングに響いた。
「美味しい?」
「おいしくない」
「そっか」
 料理に口を付けた私に、彼がそう言って、笑う。それっきり会話はなかった。ひたすら目の前の料理を、口に入れて、咀嚼して、飲み込む。喉を通るたびに気持ちの悪いそれは、美味しいけれど不味かった。多分、この食事がしばらく続くことになるんだろうな、と思いながら、肉を口に入れる。でもまあ彼の作った美味しいご飯が食べられるなら、少しは我慢しようと思って、良く分からない味のする肉を噛んで、飲み込んだ。
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