ウェブ再録「クレイジー・イン・ラブ」
上がる息と、冷たい左手と、繋いだ右手。薄く白い息が混ざりあって溶けていく。月明かりだけが私たちを照らした。月を見上げて、目を細める。怒りみたいな、悲しさみたいな、よく分からない感情が渦巻いて、ため息に変わる。冷たい風が私たちの間を通り抜けていった。
時々聞こえる泣き声は無視したまま、枯れ葉を踏みしめて足場の悪い道をひたすら歩き続ける。軽く挫いた足首が僅かに痛んだ。どこに向かって歩いているのかは分からない。ただ、人のいないところへ逃げていた。
「ねえもう帰りたい」
「帰る場所なんてないでしょ」
このやり取りはもう十回目くらい。繋いでる手は離さないくせに、こうやって弱音ばっかり吐いているのは、私の恋人。結局別れられないままここまで来て、帰り道を失ったから、もういっそ離してなんかあげないと思って、強く手を握った。握り返してはくれないけれど、それでも良かった。
人を殺した。二人で殺した。翔太の元カノだという女が、刃物を持って家に来たから、パニックになった翔太が叫んだ。そのまま揉みくちゃになって、元カノのお腹に刃物が刺さった。それは翔太。私はその女の頭を殴った。だから、共犯。一緒に逃げてあげるから、一緒にいてね、とパニック状態の翔太に言い聞かせて、共犯になった。
携帯、財布、身分証。全部置いて、服だけ着込んで、千円札を二枚掴んでここまで来た。吹き付ける風が冷たくて、月明かりが眩しくて、腹が立つ。腕時計を見ると、深夜二時前。当てもなく彷徨うには丁度良い時間だと思った。
「おれ、犯罪者じゃん」
「そうだね」
「おまえも、犯罪者じゃん」
「そうだね」
「どうしたらいいの」
翔太の馬鹿みたいな言葉に、だから逃げてるんだよ、という返事は飲み込んで、知らない、とだけ吐き出した。知らない。私だって分からない。何で逃げてるのか、何で共犯になったか、分からない。分からないけれど、多分、好きだからだと思う。多分、いや、きっと好きなんだと思う。翔太のことが、好きなんだと思った。
一緒に逃げてあげる、と言ったのは、私と一緒にいてほしかったから。死ぬまで、一緒にいてほしかったから。女を殴ったのも、共犯になれば、私と一緒にいてくれると思ったから。ずるいよ。私は、ずるい。だめだね、深夜は感傷的になる。
私たちこれからどうなるんだろうね、とふと思った。そのうちバレて捕まったりするのかな、と考えて、そりゃそうだよね、いつまでも逃げ続けられないよね、と小さく苦笑した。近くで鳥が羽ばたいて、それに驚いた翔太が泣きながら、もうやだ、と呟いた。もうやだ、帰りたい、とそんなことを呟いて、私の手に縋るように身体を寄せた。
デートのときは手を繋いでくれないのに、こういうときは手を繋いでくれるんだな、と思うと、ちょっと嬉しい。ずっと泣いてるのは少しうるさいけど、ちゃんと隣を歩いてくれるのは、嬉しかった。私は翔太にばれないように、小さく笑った。
暗い山道をひたすら歩いていると、だんだんここが地獄の入り口みたいに思えてくる。このままずっと歩いていけば、そのうち地獄に辿り着いてしまう気がして、ああそれでもいいなと思った。二人の地獄で一緒にいるのもいいかなと思った。そんなことはあるはずないけれど。
湿った土が靴の下で潰れる。杉の枝が揺れて音を立てる。時折獣の声がして、翔太が小さく悲鳴を上げる。遠くで電車の音が響く。冷たい風が拒絶するように頬を刺した。
「元カノのこと、好きだった?」
シンとした空気の中に、私の声がやけに響いた気がした。嫌な質問だな、と我ながら思う。この場に合わない質問だな、と我ながら思う。翔太も訳が分からないという顔をして私を見るから、一瞬だけ目線を合わせて、それから前を向いた。別に聞かなくても良かったけれど、多分今聞かないと一生聞けない気がしたから、このおかしなタイミングで聞いた。繋いだ翔太の手が、僅かに強張る。翔太が、いや、と悩んだように呟いて、下を向いた。
「元カノ、は、無理やり付き合わされた、し、べつに、」
そう気まずそうに言うから、多分、相当しつこかったんだろうなとは思った。あの女、ヒステリックっぽかったし、すぐ別れたんだろうな、翔太そういうの嫌いそうだし、と思って、死んで当然、と心の中で理不尽な悪態を吐いた。そう、と呟いた私の声で、また静かになる。翔太の歩くスピードが落ちて、私の腕が軽く後ろに引っ張られた。繋いだ手は、離さなかった。
翔太のその言葉で、私は頭が熱くなるような、視界がクリアになるみたいな、そんな変な感覚になった。背中がざわざわして、叫び出したくなった。でもこの言い表せない感情が、気持ちの悪い感情だというのは、分かる。私は最低だという自覚もある。だから、元カノのことを好きじゃないって聞いて、私は嬉しくなった。最低だ。
「好きだよ」
今この瞬間に、好きだと言いたくて、言った。今言わなきゃ、言えない気がして、言った。嫌いだと言われても、それでも良かった。ただの、自己満足だった。返事は、なかった。
好きだ。彼のことが、誰より好きだと、今確かに思った。例えダメな男でも、何にも出来なくても、人を殺そうと、それでも好きだと思った。一生この手を離してやるもんか、と今思った。いつかこの事が誰かにバレて、引き離されそうになるんだったら、その時は私が翔太を殺してそのまま死ぬ。誰かのものになんて二度とさせないし、離れ離れにさせられるなんて絶対に嫌だ。最後まで面倒見てあげるから、最期に一緒にいるのは私であってね。私のことを好きだって思いながら死んで。ううん、嫌いでもいいよ。でも絶対に私のことだけ考えててね。一生離れないでね。死んでも一緒にいようね。
靴の下で、枯れ枝が折れる。左手は冷たい。右手は温かい。鳥が飛び立つ音に驚く声がする。少し後ろで泣き声がする。暗闇の中を、あてもなく、彷徨っている。
「ねえ、もう帰りたい」
「帰る場所なんて、ないよ」
自分に言い聞かせるみたいに、呟いた。明日なんて来るなと思って、呟いた。夜が明けなければいいと思って、呟いた。このまま二人で地獄へ辿り着いてしまえばいいと思って、呟いた。
時々聞こえる泣き声は無視したまま、枯れ葉を踏みしめて足場の悪い道をひたすら歩き続ける。軽く挫いた足首が僅かに痛んだ。どこに向かって歩いているのかは分からない。ただ、人のいないところへ逃げていた。
「ねえもう帰りたい」
「帰る場所なんてないでしょ」
このやり取りはもう十回目くらい。繋いでる手は離さないくせに、こうやって弱音ばっかり吐いているのは、私の恋人。結局別れられないままここまで来て、帰り道を失ったから、もういっそ離してなんかあげないと思って、強く手を握った。握り返してはくれないけれど、それでも良かった。
人を殺した。二人で殺した。翔太の元カノだという女が、刃物を持って家に来たから、パニックになった翔太が叫んだ。そのまま揉みくちゃになって、元カノのお腹に刃物が刺さった。それは翔太。私はその女の頭を殴った。だから、共犯。一緒に逃げてあげるから、一緒にいてね、とパニック状態の翔太に言い聞かせて、共犯になった。
携帯、財布、身分証。全部置いて、服だけ着込んで、千円札を二枚掴んでここまで来た。吹き付ける風が冷たくて、月明かりが眩しくて、腹が立つ。腕時計を見ると、深夜二時前。当てもなく彷徨うには丁度良い時間だと思った。
「おれ、犯罪者じゃん」
「そうだね」
「おまえも、犯罪者じゃん」
「そうだね」
「どうしたらいいの」
翔太の馬鹿みたいな言葉に、だから逃げてるんだよ、という返事は飲み込んで、知らない、とだけ吐き出した。知らない。私だって分からない。何で逃げてるのか、何で共犯になったか、分からない。分からないけれど、多分、好きだからだと思う。多分、いや、きっと好きなんだと思う。翔太のことが、好きなんだと思った。
一緒に逃げてあげる、と言ったのは、私と一緒にいてほしかったから。死ぬまで、一緒にいてほしかったから。女を殴ったのも、共犯になれば、私と一緒にいてくれると思ったから。ずるいよ。私は、ずるい。だめだね、深夜は感傷的になる。
私たちこれからどうなるんだろうね、とふと思った。そのうちバレて捕まったりするのかな、と考えて、そりゃそうだよね、いつまでも逃げ続けられないよね、と小さく苦笑した。近くで鳥が羽ばたいて、それに驚いた翔太が泣きながら、もうやだ、と呟いた。もうやだ、帰りたい、とそんなことを呟いて、私の手に縋るように身体を寄せた。
デートのときは手を繋いでくれないのに、こういうときは手を繋いでくれるんだな、と思うと、ちょっと嬉しい。ずっと泣いてるのは少しうるさいけど、ちゃんと隣を歩いてくれるのは、嬉しかった。私は翔太にばれないように、小さく笑った。
暗い山道をひたすら歩いていると、だんだんここが地獄の入り口みたいに思えてくる。このままずっと歩いていけば、そのうち地獄に辿り着いてしまう気がして、ああそれでもいいなと思った。二人の地獄で一緒にいるのもいいかなと思った。そんなことはあるはずないけれど。
湿った土が靴の下で潰れる。杉の枝が揺れて音を立てる。時折獣の声がして、翔太が小さく悲鳴を上げる。遠くで電車の音が響く。冷たい風が拒絶するように頬を刺した。
「元カノのこと、好きだった?」
シンとした空気の中に、私の声がやけに響いた気がした。嫌な質問だな、と我ながら思う。この場に合わない質問だな、と我ながら思う。翔太も訳が分からないという顔をして私を見るから、一瞬だけ目線を合わせて、それから前を向いた。別に聞かなくても良かったけれど、多分今聞かないと一生聞けない気がしたから、このおかしなタイミングで聞いた。繋いだ翔太の手が、僅かに強張る。翔太が、いや、と悩んだように呟いて、下を向いた。
「元カノ、は、無理やり付き合わされた、し、べつに、」
そう気まずそうに言うから、多分、相当しつこかったんだろうなとは思った。あの女、ヒステリックっぽかったし、すぐ別れたんだろうな、翔太そういうの嫌いそうだし、と思って、死んで当然、と心の中で理不尽な悪態を吐いた。そう、と呟いた私の声で、また静かになる。翔太の歩くスピードが落ちて、私の腕が軽く後ろに引っ張られた。繋いだ手は、離さなかった。
翔太のその言葉で、私は頭が熱くなるような、視界がクリアになるみたいな、そんな変な感覚になった。背中がざわざわして、叫び出したくなった。でもこの言い表せない感情が、気持ちの悪い感情だというのは、分かる。私は最低だという自覚もある。だから、元カノのことを好きじゃないって聞いて、私は嬉しくなった。最低だ。
「好きだよ」
今この瞬間に、好きだと言いたくて、言った。今言わなきゃ、言えない気がして、言った。嫌いだと言われても、それでも良かった。ただの、自己満足だった。返事は、なかった。
好きだ。彼のことが、誰より好きだと、今確かに思った。例えダメな男でも、何にも出来なくても、人を殺そうと、それでも好きだと思った。一生この手を離してやるもんか、と今思った。いつかこの事が誰かにバレて、引き離されそうになるんだったら、その時は私が翔太を殺してそのまま死ぬ。誰かのものになんて二度とさせないし、離れ離れにさせられるなんて絶対に嫌だ。最後まで面倒見てあげるから、最期に一緒にいるのは私であってね。私のことを好きだって思いながら死んで。ううん、嫌いでもいいよ。でも絶対に私のことだけ考えててね。一生離れないでね。死んでも一緒にいようね。
靴の下で、枯れ枝が折れる。左手は冷たい。右手は温かい。鳥が飛び立つ音に驚く声がする。少し後ろで泣き声がする。暗闇の中を、あてもなく、彷徨っている。
「ねえ、もう帰りたい」
「帰る場所なんて、ないよ」
自分に言い聞かせるみたいに、呟いた。明日なんて来るなと思って、呟いた。夜が明けなければいいと思って、呟いた。このまま二人で地獄へ辿り着いてしまえばいいと思って、呟いた。
