ウェブ再録「クレイジー・イン・ラブ」
連続殺人犯の仮釈放の報道に、世間は騒然とした。昼夜、ニュースやネットで意見が飛び交い、仮釈放反対を求める声が続いた。それでも、七月五日、彼は仮釈放となった。
騒ぐ気持ちは、分かる。もしまた殺人を犯したら、もし自分が殺されたら、そう考える気持ちも、分かる。でも、彼が社会に戻るためには、乗り越えなくてはいけないことだと思う。刑務所内で目立った問題も起こさず、きちんと罪を償ってきた彼への、最終的な試練だと思った。
私は頑張れとも、負けるなとも言えない。一人に肩入れしてはいけないと思うから。でも少しくらい応援はさせて欲しいから、そっと陰で祈ることにした。
ネットを見ると、心が痛くなる。何も考えずに人を傷付ける言葉が溢れかえって、気が滅入る。彼は元気だろうか、ご飯は食べているだろうか、そんなことを考えて、ため息を吐く。同僚が私を励ますようなことを言ったけれど、右から左に流れていくだけだった。
仮釈放から五日ほど経ったある日、彼は、蝉の声を背に、私に会いに来た。署から程近いコンビニで、彼は私の名前を呼んだ。久しぶり、と笑った彼は、少し疲れているようだった。
「やっぱ、だめだね」
人目に付かないコンビニの裏で煙草を吸う彼は、呆れたように弱音を吐いた。殺人なんて犯したら、世間は許してくれないよね、家も特定されてさ、張り紙だらけだよ、ちょっと、疲れたかな。そういう彼は、ゆっくりと紫煙を吐いて、苦しそうに笑った。
オーバーサイズのTシャツには、シワが目立つ。彼を助けてあげられないことが、こんなにも苦しい。犯人に同情してはいけないと、何度も繰り返し言われたけれど、こういうところを見ると、痛いほど心に来る。反省もして、社会復帰を目指そうとしているのに、それを叩き潰そうとする世間の目が、やっぱり怖いと思う。本人たちはこんなに頑張っているのに、前科持ちというだけで後ろ指を指されてしまう、この世界が怖かった。
大丈夫だ、と言えない自分が嫌いだ。絶対に分かってくれるはず、と励ましてやれない自分が嫌いだ。それに多分、大丈夫なんかじゃないから、きっと大丈夫って言えない。ごめんね、こんな人間で。刑事のくせに、たったの一人も守れやしないことが、こんなにも悔しい。思わず、ごめんなさい、と呟くと、刑事さんは何も悪くないじゃん、と彼が切なく笑った。
「おれさ、刑事さんに認められたかったんだよね」
そう呟いた彼は、努めて明るい声を出しているように見える。刑事さんに認められたくて頑張ってるんだよ、ちゃんとした人間になりたくてさ、と呟いて、痛々しく笑うから、私は、何だか泣きそうだった。
彼は、初めて会ったときから、良い人だった。犯人に対して良い人だと言うのは間違っているのかもしれないが、とにかく、人当たりが良い印象だった。取り調べでもきちんと受け答えするし、反省もしているし、嘘も吐かない。何でこんな人が犯罪を犯したのか分からなくなるくらいには、良い人、だった。だから、世間の冷たい目を向けられているのが、心苦しくて、辛かった。
「刑事さんのせいじゃないって」
そんな悲しい顔しないでよ、と彼が眉を下げて笑うから、私は泣きたくなった。しょうがないな、と笑って近付いた彼が、私を抱き締めたから、一瞬、蝉の声が止まる。
「佐久間、さん」
「だいじょうぶ、おれはだいじょうぶだよ」
私を慰めるみたいに、何度も大丈夫と呟いて、彼は私を抱き締める。恐る恐る彼に手を回すと、耳元で彼が小さく笑った。彼は世間が言うほど、極悪で救いようのない人間じゃない、と思った瞬間、背中に衝撃と激痛が走った。何が起こったのか分からないまま彼を見ようとすると、また同じ衝撃が走って、ああ、刺されたんだな、と何故か冷静に思った。必死に彼のシャツを掴んで、顔を上げる。
「犯人に同情しちゃだめじゃん」
私は、どうして、と言った気がする。どうしてこんなことをするの、と警察の一員であるせいか、もしくは単純な疑問として聞いた。彼の顔は、少しも苦しそうじゃなかった。片手で私を抱き寄せて、また背中を刺す。痛みで顔を歪める私を見て、彼は穏やかに笑った。
「好きだからだよ」
そう言う彼は、それが全くの本心であるかのように微笑んだ。
好きだから殺すんだよ、おれが殺して、おれだけのものにするの、わかるでしょ?好きなものは自分だけのものにしたいの、それが人間なだけだよ、ねえ、好き、大好き、おれと一緒に、死んで。
微笑みながらつらつらと饒舌に喋る彼は、まるで別人。何を言っても話が通じなくて、恐ろしい。彼の大きな瞳には私の泣きそうな顔が映る。今更、後悔した。
「刑事さんが死んだらさあ、おれも一緒に死ぬからさあ、ねえ、死んでよ」
いきなり突き飛ばされて、コンクリートで強かに身体を打った。刺されたショックと痛みで意識がぐらりと揺れる。彼が馬乗りになって私に手を伸ばす。穏やかな微笑みを湛えたまま、私の首に手をかけた。ぎちぎちと喉が締まって、息ができない。頭が熱くて、視界が明滅する。朦朧とする意識の中で、彼の腕を引っ掻いた。彼の口が動く。好きだよ、と言っている気がして、吐きそうになった。大嫌いだ、自分が。何も彼のことを分かっていなかった自分が、何よりも嫌いだ。後悔するには遅すぎるけれど、声の出ない口で、きらい、と呟いて、感覚のない腕を振り回した。でももうだめかもしれない。何の感覚もない。最後に見えたのは、彼の、笑った顔だった。
◇
その日の夜に、仮釈放中の連続殺人犯が遺体で見つかったというニュースが流れた。隣には事件を担当していた刑事の遺体もあったと報道された。世間は、深いため息を吐いた。
騒ぐ気持ちは、分かる。もしまた殺人を犯したら、もし自分が殺されたら、そう考える気持ちも、分かる。でも、彼が社会に戻るためには、乗り越えなくてはいけないことだと思う。刑務所内で目立った問題も起こさず、きちんと罪を償ってきた彼への、最終的な試練だと思った。
私は頑張れとも、負けるなとも言えない。一人に肩入れしてはいけないと思うから。でも少しくらい応援はさせて欲しいから、そっと陰で祈ることにした。
ネットを見ると、心が痛くなる。何も考えずに人を傷付ける言葉が溢れかえって、気が滅入る。彼は元気だろうか、ご飯は食べているだろうか、そんなことを考えて、ため息を吐く。同僚が私を励ますようなことを言ったけれど、右から左に流れていくだけだった。
仮釈放から五日ほど経ったある日、彼は、蝉の声を背に、私に会いに来た。署から程近いコンビニで、彼は私の名前を呼んだ。久しぶり、と笑った彼は、少し疲れているようだった。
「やっぱ、だめだね」
人目に付かないコンビニの裏で煙草を吸う彼は、呆れたように弱音を吐いた。殺人なんて犯したら、世間は許してくれないよね、家も特定されてさ、張り紙だらけだよ、ちょっと、疲れたかな。そういう彼は、ゆっくりと紫煙を吐いて、苦しそうに笑った。
オーバーサイズのTシャツには、シワが目立つ。彼を助けてあげられないことが、こんなにも苦しい。犯人に同情してはいけないと、何度も繰り返し言われたけれど、こういうところを見ると、痛いほど心に来る。反省もして、社会復帰を目指そうとしているのに、それを叩き潰そうとする世間の目が、やっぱり怖いと思う。本人たちはこんなに頑張っているのに、前科持ちというだけで後ろ指を指されてしまう、この世界が怖かった。
大丈夫だ、と言えない自分が嫌いだ。絶対に分かってくれるはず、と励ましてやれない自分が嫌いだ。それに多分、大丈夫なんかじゃないから、きっと大丈夫って言えない。ごめんね、こんな人間で。刑事のくせに、たったの一人も守れやしないことが、こんなにも悔しい。思わず、ごめんなさい、と呟くと、刑事さんは何も悪くないじゃん、と彼が切なく笑った。
「おれさ、刑事さんに認められたかったんだよね」
そう呟いた彼は、努めて明るい声を出しているように見える。刑事さんに認められたくて頑張ってるんだよ、ちゃんとした人間になりたくてさ、と呟いて、痛々しく笑うから、私は、何だか泣きそうだった。
彼は、初めて会ったときから、良い人だった。犯人に対して良い人だと言うのは間違っているのかもしれないが、とにかく、人当たりが良い印象だった。取り調べでもきちんと受け答えするし、反省もしているし、嘘も吐かない。何でこんな人が犯罪を犯したのか分からなくなるくらいには、良い人、だった。だから、世間の冷たい目を向けられているのが、心苦しくて、辛かった。
「刑事さんのせいじゃないって」
そんな悲しい顔しないでよ、と彼が眉を下げて笑うから、私は泣きたくなった。しょうがないな、と笑って近付いた彼が、私を抱き締めたから、一瞬、蝉の声が止まる。
「佐久間、さん」
「だいじょうぶ、おれはだいじょうぶだよ」
私を慰めるみたいに、何度も大丈夫と呟いて、彼は私を抱き締める。恐る恐る彼に手を回すと、耳元で彼が小さく笑った。彼は世間が言うほど、極悪で救いようのない人間じゃない、と思った瞬間、背中に衝撃と激痛が走った。何が起こったのか分からないまま彼を見ようとすると、また同じ衝撃が走って、ああ、刺されたんだな、と何故か冷静に思った。必死に彼のシャツを掴んで、顔を上げる。
「犯人に同情しちゃだめじゃん」
私は、どうして、と言った気がする。どうしてこんなことをするの、と警察の一員であるせいか、もしくは単純な疑問として聞いた。彼の顔は、少しも苦しそうじゃなかった。片手で私を抱き寄せて、また背中を刺す。痛みで顔を歪める私を見て、彼は穏やかに笑った。
「好きだからだよ」
そう言う彼は、それが全くの本心であるかのように微笑んだ。
好きだから殺すんだよ、おれが殺して、おれだけのものにするの、わかるでしょ?好きなものは自分だけのものにしたいの、それが人間なだけだよ、ねえ、好き、大好き、おれと一緒に、死んで。
微笑みながらつらつらと饒舌に喋る彼は、まるで別人。何を言っても話が通じなくて、恐ろしい。彼の大きな瞳には私の泣きそうな顔が映る。今更、後悔した。
「刑事さんが死んだらさあ、おれも一緒に死ぬからさあ、ねえ、死んでよ」
いきなり突き飛ばされて、コンクリートで強かに身体を打った。刺されたショックと痛みで意識がぐらりと揺れる。彼が馬乗りになって私に手を伸ばす。穏やかな微笑みを湛えたまま、私の首に手をかけた。ぎちぎちと喉が締まって、息ができない。頭が熱くて、視界が明滅する。朦朧とする意識の中で、彼の腕を引っ掻いた。彼の口が動く。好きだよ、と言っている気がして、吐きそうになった。大嫌いだ、自分が。何も彼のことを分かっていなかった自分が、何よりも嫌いだ。後悔するには遅すぎるけれど、声の出ない口で、きらい、と呟いて、感覚のない腕を振り回した。でももうだめかもしれない。何の感覚もない。最後に見えたのは、彼の、笑った顔だった。
◇
その日の夜に、仮釈放中の連続殺人犯が遺体で見つかったというニュースが流れた。隣には事件を担当していた刑事の遺体もあったと報道された。世間は、深いため息を吐いた。
