ウェブ再録「クレイジー・イン・ラブ」

 けたたましい音を立ててコップを割ってしまった時に、そういえば彼の姿を見なくなって、丁度三日が経ったことを思い出した。散らばった陶器の欠片を拾い集めながら、今回はどこへ行ってしまったんだろうと思う。そんなことを考えてみても、行き先なんて知れたことないんだし、まあ、どうでもいいかと思い直した。他に女がいるのかとか考えないわけじゃないけれど、彼の逃避癖は治らないものだと気付いてから、もう放っておくことにした。最後には帰ってきてくれると信じて、放り出すことしか出来なかった。
 彼は、突然ぱったりと連絡が取れなくなって、どこかに行ってしまう時があった。いくら電話をしても出ないし、もちろんメッセージに既読も付かない。数時間か、数日か、何も言わずふらふらと家から出て行っては、いつの間にか戻ってくる。まるで存在がなくなったみたいに姿を消しては、素知らぬ顔して家に戻ってくるから、正直彼のことはよく分からなかった。
 私の家にほぼ居候状態で居座っている彼は、いつだって何をしてるか分からない。いつもよれたスウェットかジャージを着て、ぼんやり窓の外を見ているか、寝ているか。まるで飼われている猫みたいだと思うけれど、彼は猫みたいにふわふわしてるわけでも、無条件に可愛いわけでもないし、ついでに言えばしっかり食費はかかるから、多分猫の方がいくらかマシだと思う。
 細かい陶器の欠片を掃除機で吸い込んで、そのままキッチンに掃除機をかけていると、玄関の方から物音がしたから、渋々掃除機のスイッチを切る。キッチンから顔を出して玄関を覗くと、案の定、彼が何でもない顔をして立っていた。それからゆっくりと私を見て、僅かに目を細めて、ただいま、と呟いた。
「おかえり」
「これ、おみやげ」
 彼は頭の後ろの髪をかき混ぜながら、コンビニの袋を私に差し出す。それを受け取って中を見ると、私の好きなアイスと、クッキーとチョコレートが入っていた。三日間かけてコンビニに行ってたの?と言いたくなるようなラインナップに思わず、はあ、と気の抜けた声が出た。彼は欠伸をしながらサンダルを脱いで、当たり前のように部屋に上がり込む。ちょっと寝る、と言った彼は、真っ直ぐリビングのソファに転がった。
 クッションに顔を埋めて喋らなくなった彼を横目で見て、仕方なくアイスを冷凍室に入れる。掃除機の電源を完全に落として、なるべく音を立てないように片付けた。ふと時計を見ると、午後二時半過ぎ。夜ご飯を作るにはまだ早い。私はキッチンに椅子を引っ張ってきて、さっき冷凍室に入れたアイスを食べることにした。
 ダイナミックな寝相を披露した彼が、ソファから転げ落ちると共に目を覚ました。床に転がったまま、眠そうな顔をしてお腹を掻く彼からは、上手く感情が読み取れない。重ための前髪から覗く涼やかな瞳は、何かを見ているようで見ていない。ぶつぶつと何かを呟いた彼は、ゆっくりと身体を起こして、そして、私を見て微笑んだ。立ち上がった彼は、軽く伸びをして、息を吐き出す。猫背で廊下を歩く彼がどこに行くか見ていると、何故か真っ直ぐ玄関に向かう。キッチンで携帯を弄る私の前を素通りして、サンダルを突っ掛けるから、思わずどこ行くの、と聞いた。
「うん、ちょっとね」
 彼は私の目を見ずにそう呟いて、玄関を押し開ける。本当に何でもない顔をして言うから、私は待ってとも言えないまま、彼は出ていってしまった。いつもなら数日家を空けた後、しばらくは私と一緒にいてくれるはずなのに、と呆気に取られる。少し寂しくなった気持ちを、ため息で誤魔化して、夜ご飯までには帰ってくるかな、と天井を見上げた。
 今更彼の癖についてとやかく言うつもりはないから、とりあえず二人分のカレーを作っていると、玄関の扉が開いて、彼が帰ってきた。小一時間くらいで帰ってきた彼に驚いて振り向くと、今度はレジ袋じゃなくて、布で包んだ何かを抱えていた。彼はやけに機嫌が良くて、鼻歌なんかを歌いながら、ただいま、と部屋に上がり込んできた。つい、おかえり、と返すと、彼は怖いくらいに笑った。なんか、嫌だなあ、と思う。気味が悪いというか、彼がこんなに機嫌が良いところなんて見たことがなかったから、ちょっと顔が引き攣る。鼻歌を歌いながらソファに向かう彼を見ながら、なんか怖いなあ、と思った。
 あとは煮込むだけ、という状態にして、リビングの椅子に座る。ソファに座っている彼は、布で包んだ何かを抱きしめてにこにこと微笑んでいた。頬杖をつきながらそれを見ていると、布の隙間からプラスチックのような何かが見えて、不思議に思って目を凝らす。良く見ると、彼は赤ちゃんの人形を抱えていた。反射的に、何それ、と呟く。気持ち悪い、とか、不気味、とかそう思う前に、恐怖が頭を占める。何を考えているか分からないような笑顔で、彼は私の方を振り向く。今は、彼のことが恐ろしくてならなかった。
「こいつのこと?…おれと、お前の、こども」
 そう言って、真っ暗な目で私を見た彼が、得体の知れない化け物に見える。やめてよ、そんな冗談、と引き攣った顔で言うと、思ったよりも声が震えた。逃げるように身体を引くと、手が机にぶつかった。私は子どもを産んだ記憶がないし、彼との子どもを産むつもりもない。だって彼は恋人じゃないから。私の家に居座ってるだけの、ヒモみたいなもの。だから、子どもなんてできるわけもない。しかも、それは人形だし。
「冗談じゃ、ないよ」
 彼はずっと薄ら笑っている。布で包んだ人形を抱きながら、ずっと笑っている。吐き気がしそうなくらい気持ちが悪くて、思わず拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込んで痛いから、これは確かに現実なんだと思って、逃げ出したくなった。馬鹿じゃないの、とか、ふざけないで、とか、叫んでやれば良かったのかも知れないけれど、彼の暗い瞳から目を逸らせなくて、それが恐ろしくて声が出ない。嫌な汗が背中を伝って気持ちが悪かった。
「一緒に、育てようね」
 その言葉で、一気に鳥肌が立つ。彼がこんな最悪な嘘を吐くような人じゃないのは分かっているから、余計に怖くなる。逃げ出したくても、足が震えて上手く立ち上がれない。蛇に睨まれた蛙みたいに、動くことができない。短い息を繰り返していると、彼がゆらりと立ち上がって、私の目の前に来た。
「好き、愛してる」
 だから結婚しよう、と言った彼は、幸せそうに笑った。初めて見るその笑顔は、恐怖で震える私とはまるで対照的。決定事項を伝えるようにそう言った彼は、満足そうに小さく頷いて、人形を見つめた。名前何にしようか、と私を見ずに言った彼を見て、私は逃げなきゃと思った。この恐ろしい彼のいないところまで逃げなきゃと思ったから、音を立てて椅子から立ち上がった。足の震えは止まっている。携帯と財布が入っているバッグを掴んで、早足で玄関に向かった。どこへ逃げようかと思いながら、玄関を開けると、後ろから声が聞こえた。
「いってらっしゃい、早く帰ってきてね」
 その上機嫌な声に、お前は帰って来なかったくせに、と舌打ちをして、振り向かずに外に飛び出した。もう二度と戻ってくるか、と思いながら、マンションの廊下を走った。多分彼は私と結婚したと思っているし、ずっと私が帰ってくるのを人形と一緒に待つんだろうけれど、私は二度と彼に会いたくないと思ったから、本気で逃げるつもりで走った。
 エレベーターのボタンを押そうとしたところで、鍋の火を点けたままで飛び出してきたことを思い出して、一瞬手が止まる。だけど二度と彼に会いたくないから、鍋とカレーを犠牲にすることに決めて、ボタンを押した。せいぜい片付けに困ればいいと思って、ボタンを押した。
1/9ページ
スキ